自分はまだ自分のことを、何もしらない
私たちはこれまでずっと、真面目に生きることがいいことだと教わってきた。上の人の言うことをきいて、制度に従い、親の期待通りに生きることがいいことだと思わされてきた。だから、ほとんどの人は社会に出てからも真面目が抜けないでいる。
真面目に生きるのはとても苦しい。足にあわない靴をはかされながら歩いているようなものだ。皮がめくれて血が出ていても、真面目な人はその靴を脱ごうとしない。
真面目なひとほど他人に迷惑をかけないようにする。真面目なひとほど自分の気持ちを押し殺そうとする。真面目な人ほど生きづらい。
熱があっても出社して、胃がいたくなっても薬を飲む。いやなことがあってもお酒を飲んで、飲みすぎると寝坊して怒られる。真面目な人は生きるのが下手で、真面目の人ほどあぶない。
「何も考えずに生きること」と、「楽しく生きること」はまったく似て非なるものだと思う。楽しく生きるのはとても難しい。
「楽しくいきること」は自分との戦いでもある。それは、これまでの自分を壊す作業でもある。真面目なひとや敏感なひとほど、それにはとてもエネルギーがいる。
だったら、「まじめに不真面目」に生きてみるのはどうだろう。背筋を伸ばして、だけど肩の力は抜いて。かいけつゾロリのように、まじめにふまじめに生きてみるのだ。
他人にちょっと迷惑をかけてみる。自分の気持ちをおもいっきり出してみる。これまでの自分と逆のことをして、今までの自分を壊してみるのだ。
私たちは生まれた瞬間から、階級や社会条件、あらゆる環境が用意されそれが自分に強いられる。そこで生じた、いろいろな癖や思考や感情などが自分の個性となり、今の「わたし」がつくられている。
これまで自分が「個性」だと思っていたものがあらかじめ用意され、強いられたものでしかないのだとしたら。そんな個性とは戦い壊していくことでしか、楽しく生きることはできないのではないだろうか。
個性は壊すことができる。そして、私たちは忘れることもできる。過去にあったトラブルも昔の恋人も、自分のいろいろな癖や、真面目なところも。ちょっとした気持ちの苛立ちや、あの人のキライなところも、自分のキライなところだって私たちは忘れることができる。
だから、私たちはまだなんにだってなれる。自分はまだ自分のことを何もしらないのだ。楽しく生きよう。もっと、まじめにふまじめに。
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