羊文学「our hope」-エモと終わりなき地平線の先へ-
高校時代キムタクに憧れすぎてキムタクみたいなしゃべり方をしていたら、当時の世界史の先生にホリという不名誉なあだ名をつけられました。三代目齋藤飛鳥涼です。
最近木村拓哉の新しいドラマ「未来への10カウント」が始まりましたね。キムタクドラマ大好き人間の筆者は当然の如く見ているのですが、今作でもキムタクは相変わらず皿洗いしている水の音に負けそうなくらいぼそぼそしゃべっていてキムタクを貫いていましたね。
んでこのドラマには柄本明も出ているんですが、こちらも他のドラマでもよく見かける頑固な柄本明をしているんですよね。あ、そうそう柄本明で思いだしたんですが、浜辺美波も大好きな筆者は最近「ドクターホワイト」も見ていて、そのドラマには柄本佑が出ていたんですよね。んでやっぱり割とどの作品でもよく見るどこか自信が無さげだけど優しく主人公をサポートしている柄本佑をしているんですよね。。。
柄本明に柄本佑。
柄本。
エモト。
エモ?
「エモい」という言葉が若者たちの間で浸透してすっかり経つわけだが、この多義語に関して同じ特性を持つ「ヤバい」という言葉と同じくらい批判にさらされる機会が多い。
いわく批判にさらされる意味はあまりにも多義に解釈することが出来るがゆえに感性の腐敗を招いてしまうからということらしい。そもそも日本には感情を表す言葉が140種類以上あるらしく、これらの多岐に渡る感情を「エモい」という言葉で片付けられてしまうことで一つ一つの感情の繊細な機微を感じ取れなくなってしまうのではないかという懸念らしい。個人的なこの懸念に対する見解としては、人間は幼年期の頃から感情の感受と表現が備わっており、これらの機能自体の衰退は無い、否むしろ日々進化する社会の中でその感覚はより先鋭化されてきているのではないかと感じている。問題はたとえそれらの感情の機微を確実に感じとれていても、正確にアウトプットするための表現する術が乏しくなってしまうのではないかということだ。
そんな「エモい」の洪水の時代をやってきたバンドがMy Hair Is Badである気がする。マイヘアのサウンドはとてもシンプルなバンドアンサンブルで、直情的なボーカルが吐き出す言葉は丸裸でストレートな物言いである。ありのままの直球勝負ではあるものの、このストロングスタイルこそ表現する術を失った若者の貧しさを体一貫で投げ打っているようにも見える。
後に多くの邦ロック系の若手バンドが彼らのようなスタイルを真似るわけだが、どれもパッと見が似ているだけのまさに表現が貧しいという皮肉。そのように考えるとマイヘアだけが時代の寵児として地位を確立できたのは、彼ら自身が上述したような貧しさに自覚的であり、等身大という名の凶器を体現し続けるというとてつもない荒業を繰り替えし続けるという覚悟が現在に至るまでずっと続いているということが大きい。
羊文学というバンドはそんな表現する術を失った時代に現れた新たなバンド像を示している。マイヘア同様にスリーピースという編成ではあるものの等身大という名の凶器であるマイヘアに対し、羊文学の鳴らす音は超感覚とも言うべきレベルで研ぎ澄まされており、一つ一つの息遣いに感情の機微を乗っけることが繊細な表現者である。
ボーカル塩塚モエカの歌唱は声の張り上げ方や強弱、そしてブレスに至るまで恐らく無意識ではあるものの全てに感情の揺らぎが表現されている。それに呼応するかのようにボトムの効いたベースで楽曲をグイグイ引っ張りつつ、塩塚モエカのボーカルを邪魔しない絶妙な加減でコーラスを入れる河西ゆりか。この二人の掛け合いの場を演出するかのように、正確無比なドラムマシンの如く黒子に徹するフクダヒロア(この人がめちゃくちゃすげえ)。構図としてはそれぞれのキャラクター性が明確にあったうえで、感情の揺らぎの表現に焦点を置いてることを加味するとJoy Divisionなんかとダブるバンドアンサンブルを志向しているように思える。
「あいまいでいいよ」や「砂漠のきみへ」なんかでは顕著だが、シューゲイザーをベースとしたオルタナでありつつも、隙を見せるかのようにアンビエントな余白を生み出している。感情の揺らぎや情緒性が演出しやすいシューゲイザーライクな音を指向しているものの、スリーピースという特性ゆえにギター一辺倒という感じではなく音数は少ない、むしろ最低限の必要な音しか鳴らしてないのである。
この音の余白が羊文学が羊文学たらしめる要因である。羊文学の歌詞というのは一つの正解があるわけでもなければ、どこか現実的な感じがしない幻想的な美しさすら感じられる。まさに行間を読むという言葉がぴったりであり、心の隙間つまりアンビエントなスペースにぴったりにそっと入り込んでくる。そしてそれぞれの聴き手が読み取った解釈を圧倒的な肯定で背中を押し出すバンドだ。
4月20日にドロップされたメジャー2作目「our hope」は初聴の時点で紛れもない傑作であると同時に、長いトンネルの途中で見せた素晴らしい経過報告であると感じた。
そう思わせてくれた理由の一つとして羊文学というフォーマットを突き詰めることから逃げなかったことが大きい。というのも羊文学というバンドはインディーズ時代にリリースされた「若者たちへ」の時点でフォーマットとして既に完成されたバンドであり、それに続くメジャーデビュー作「POWERS」もこのフォーマットの延長線上として制作されたものであるからだ。事実「POWERS」にはインディーズ時代の代表曲「1999」を収録することで楽曲構成のバランスを取っている。彼女たちのようなシューゲイザーライクのギターバンドに多いのが、その後全く違うスタイルに移行してしまい聴き手とのギャップを生み出してしまうケースだ。
これだから勘の良いガキは…って言いたくなるくらい皆さん察しが良いですね。スーパーカーときのこ帝国という偉大な先人たちがいたわけだが、スーパーカーに関してはデビュー作「スリーアウトチェンジ」においてこれ以上に無い淡い青春群像劇を煌めくようなシューゲイズサウンドで鳴らした後、幾何学のような情動的なエレクトロニカへと転じ成功を収めた。
スーパーカーはいい転身例だとしても、一方のきのこ帝国はかなり遠回りをすることになってしまったバンドだ。耽美かつ退廃的なメロディで歌う本格派シューゲイザーとして名を馳せた彼女たちだが、メジャー移籍を契機にシューゲイザーサウンドは鳴りを潜め清々しいくらいのセルアウトとなってしまう。「タイムラプス」で久しぶりに情動的なメロディセンスがまた見れたと思ったのも時すでに遅し、そのまま活動に一端の区切りを付けてしまう。(まぁきのこ帝国の場合ボーカルがソロになってからも、ドラマタイアップで無味無臭な曲作ってる時点でセルアウト症候群が抜けきってないようだが)
そんなわけで羊文学なわけだが、彼女たちも幾分ポップになったんじゃないか?と言われる機会が増えてはいるものの、やはり上記の2バンドなんかと比べると羊文学というフォーマットから逸脱しているようには思えない。むしろいろいろなアプローチを試したところで全く違うキャラクター性を持った3人が一緒に音楽を鳴らしてしまえば、どんな楽曲であっても羊文学というフォーマットになってしまうことが分かったのが今作「our hope」の見所だろう。
例えば「金色」という曲は聴いた瞬間に歌の上手いクレヨンしんちゃんことカネコアヤノが想起してしまうイナたいロックンロールだが、かといってこれがまんまカネコアヤノかと言われれば音の余裕がある感じに違いが出ているし、羊文学の曲と言われても全然納得できるわけだ。個人的にはメロディはカネコアヤノというよりも、90年代のサニーデイサービスにありそうな作りだと感じた。
また「電波の街」に関しても直情的なギターとベースのリフがJoy Divisionと指摘されてるが、ドライブ感もありながら羊文学特有のどこかゆるりとした空気感が流れていてこれもまた面白いところだ。
そうたとえどんなアプローチをしても羊文学が鳴らす音楽は羊文学になってしまう唯一無二さがあるのだ。柄本明がどんな時も頑固な柄本明であるように、柄本佑がいつでも優しく主人公をサポートしてくれる柄本佑であるように、羊文学はいつだって僕らの背中を優しく押してくれる羊文学なのだ。
Oasisがシューゲイザー色の強い「Definitely Maybe」から「(What's the Story?) Moning Glory」をリリースしたように、スピッツが「名前をつけてやる」の時期を通り抜けて「ハチミツ」への奇跡へと繋がったように、長く人々に愛されるギターロックにはある日突然夢から醒めるような瞬間を迎えるときがある。
「OOPARTS」は今作のハイライトであると同時に、まだまだ彼女たちは終わりのわからない道の途中であることを示した楽曲だ。この感触はシューゲイザーからエレクトロニカへ移行する時のスーパーカーの「Fairway」、メジャーでの躍進という期待を抱かせたきのこ帝国の「ロンググッドバイ」に似たあの希望の色合いに似ている。
きっと羊文学ならそんな夢から醒めたようなまだ見ぬ光景を僕らに見せてくれると思うし、次のアルバムはもっと凄い景色を提示してくれるはずだ。
特に根拠は無いけど、たぶん大丈夫。羊文学って無敵だからさ。
ジャケット写真の塩塚モエカの視線の先にある終わりなき地平線のその先へ淡い期待を込めて。