不愉快年表2
・中学校1、2年(2006〜2008)
兄がソフトテニス部だったのとその頃一番仲良かった友達がソフトテニス部に入るということで僕もソフトテニス部に入った。顧問の先生は理科の教師で眼鏡をかけて優しそうな見た目をしていた。ソフトテニスはいくら練習しても一向に上達しなかったが1年目と2年目の前半は平和で楽しかった。
節目になったのは2年の時、3年の先輩が引退して僕らの代が年長になった後である。それまで穏和な話し方だった顧問が年長になった僕らのあまりの弱さに態度を急変し、ドスの効いた広島訛りの喋り方で怒鳴り始めた。
顧問はソフトテニスの経験者で高校時代に県大会などで優勝経験があり、自らがコートに立ってラリーをした。ソフトテニスのラリーはコートの四隅にそれぞれ配置し対角線上の相手と打ち合うのだが、ミスをするたびに顧問が怒鳴るため自分の番になるとみんなビビりながら対角線上に立っていた。休憩の時間になると集合をかけられ一人一人に何か質問しその応答の仕方、態度から否定材料を見出し、人格を否定するようなことを言って詰った。
大会の時は試合中自陣のベンチに胡座をかいて陣取り、コートチェンジの度に説教を受けた。不機嫌そうな態度を隠さないでタバコを吸っていたが、別の学校からの印象が気にならなかったのだろうか?試合に負けると走り込みをさせられた。
怒られたくなくて必死に練習はしているのだがそれでも生まれ持ったセンスがないのかそもそもの筋肉量が足りないのか一向に上手くはならずただただ怒鳴られるためだけに部活に通った。だんだんと全員の表情が失われ、一人は部活を辞め、一人は不登校になった。僕も部活を辞めたかったが、親に部活を辞めたいと言ったところ今度は親に怒鳴られて反対され、結局は部活を続けるしかなかった。
春になりその顧問の転勤によって収容所のような生活は終わった。最後の方は最早顧問は僕らに心底呆れており、部活に顔を出すことをやめ休憩の時だけ誰かが顧問を職員室まで呼びにいき説教を受けるルーティンになっていた。期間としては9ヶ月ほどだろう。過酷な9ヶ月だった。
・中学3年生(2008〜2009)
この頃から僕は会話の流れが途中で分からなくなる、目の前の会話に意識を集中できないで聞き逃すなど、人との会話についていけなくなることが多くなった。おそらく顧問の会話でのストレスを受け流すために会話から意識を切り離すようにしていたこと、怒鳴られ続けた心的外傷による認知機能の低下が原因なのではないかと思っている。そのせいで今まで授業を聞いていればテストの点数が取れていたのが全く内容が頭に入らなくなった。それでも今までの蓄積があったからそれなりに成績は良かったが、周りも受験に本腰を入れ始めたため相対的に僕は校内での成績の順位を下げていくことになった。運動ができなくてみんなにバカにされても勉強ができることがアイデンティティだったのにそれさえも失ってどん底の気分だった。受験勉強のために自分の部屋を与えられたが家に帰っても周りのようには勉強に集中できずすぐに眠くなり毎日焦りだけが募った。ストレスから寝る前に自分を罵倒するようになり、死ねとか殺すぞとか幼稚な言葉を怒鳴ったりした(このことは僕の汚言症、絶叫癖に繋がっていくことになる)。
その頃、それまで通っていた塾を辞め、団地にある私塾に通うようになった。その私塾は40代前半くらいの男の先生が経営しており(その塾の先生をBとしよう)、一人息子を溺愛して何かあると学校にクレームを言ういわゆるモンスターペアレンツとして有名な人だった。およそ近寄りたくないような人だったがその頃の僕は同じ部活だった例の友達に精神的に依存しておりその友達と同じ塾に通いたかった。喋り方は暑苦しかったが勉強の教え方は丁寧だったように思う。
Bは毎回勉強を始める前になにか無駄話をした。大抵は自分の息子に絡めた持論を展開して学校の先生や政治を批判したりした。話し方は軽快で聞いていて納得はしないもののみんなヘラヘラと笑って聞いていた。僕も笑っていた。
ある時、Bの息子の担任教師が他の生徒とゲームの話で盛り上がっていたことがあったらしい。日記に生徒がゲームの話をしてそれに乗っかって攻略法をアドバイスしたのだそうだ。保守的な思想の持ち主でオタク嫌いのBはこれに激怒しPTAで問題とすべきだといつものように持論を展開した。聴いていた生徒の一人一人に賛同の意を確認してますますエスカレートしていった。
僕の父親はPTAの副会長をしていた。田舎の人間関係は狭く大抵の人間は顔見知りでBは僕の父親がPTAの副会長をしていることを知っていた。そこにBは目をつけた。ある日Bは僕を矢面に立たせ、
「今まで話してきた担任教師のトラブルを生徒である僕は知っているのにその父親であるPTAの副会長が何も知らないのは問題だ」と責任を僕の父親にまで広げてきた。僕を利用して僕の父親を味方につけようとする政治を始めたのだった。僕がこのことを父親に話さないと責任問題になるとBは言い、僕をコントロールしようとした。Bの狙いは明らかだったから僕は言いなりにならなかったが、塾に行く度に僕はまた怒鳴られる生活をする羽目になった。ただでさえ勉強の効率は下がっていたのにさらにストレスを抱え、僕は高校受験に失敗した。結局、Bは僕に失望しPTAで直接担任教師と僕の父親の責任を追求し、僕の父は副会長を辞めることになった。
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