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つまらない映画は退席しろ〜オッペンハイマー評〜

※この記事には映画『オッペンハイマー』の内容に対するネタバレが含まれています。未視聴の方、ネタバレを気にする方はご配慮ください。

どんなにくだらない映画でも人と一緒に映画を観るのは楽しい。観終わった後に感想を言い合えるからだ。つまらない映画を観て「つまらなかったねー」と言い合って共感し合うのは嬉しいし、意見が合わなくても価値観の違いを楽しむことができる。人と一緒に観る映画は楽しい。

しかしながら『オッペンハイマー』を観た時、僕は今まで抱いてきたこの映画という趣味に対する信頼が揺らぐことになる。

帰りたい

スパイ疑惑で聴聞会にかけられるオッペンハイマー、水爆推進派のストローズの公聴会、オッペンハイマーの大学留学。湖のアインシュタイン。これらのパートがオッペンハイマーの主観的な幻覚を含めて時系列バラバラに入り乱れる。

本編が上映して開始10分、これを観て僕が思ったのは「帰りたい…」だった。「まさかこれがずっと続くのか?」そんなバカな、と思ったが予感は的中した。時系列バラバラのカット編集はなんと30分以上続いた(体感では一時間くらい続いていたが実際のところは分からない)。

なぜノーラン映画が苦手なのか

そもそも僕はクリストファー・ノーランの映画が苦手である。その理由はノーランが物語のクライマックスで多用する「クロスカッティング」という、違う場面で起きている複数の出来事を交互に見せる編集技法がことごとく合わないからである。複数の場面を交互に見せるのは良いとして、その見せられている場面の一つをよくよく考えてみると何も起こっていないことに気づいてしまうからだ。これは脚本のアイディアが乏しいのを誤魔化す手法にしかなっていないと僕は思っている。(『インセプション』のクライマックスで水に飛ぶこむ車のスローモーションや『インターステラー』で妻に向かって早く家を出ようと言い続ける夫を思い浮かべて欲しい。)

加えてノーランはそれらの複数の場面のカットを一つの音楽で繋ぐ。シーンの切り替わりは思考を一旦リセットして物語への没入による緊張を解くタイミングの一つであると思っている。緊張と緩和という言葉は笑いのメカニズムを説明するのによく使われる言葉だが、映画においても重要でそのような緊張と緩和の繰り返しによって心地よいリズムが生まれると僕は思っている。しかしながらノーランはそれを一つの音楽に跨がせることによって緊張を持続させてしまう。ノーラン映画のクライマックスの音楽はそのような緩急をダラダラとした緊張に変え、それが僕を疲れさせるのだ。

『オッペンハイマー』ではいつもならクライマックスで10分程度で済むノーラン映画のストレスが冒頭から30分以上も続くのだ。僕にとっては拷問である。本当に帰りたいと思ったが、一緒に観ている友人の前でいきなり途中退席して戻って来ないのは空気を悪くするだろうと考えてできなかった。結果的に後半はその拷問から多少解放され原爆体験アトラクションになってからは楽しめるようになったが、前半のストレスを覆してポジティブに変えるほどの印象はなかった。

脚本上の問題点

前記は演出上の問題点だが脚本にも不満がある。『オッペンハイマー』には数えきれないほどの登場人物が出てきてオッペンハイマーと出会う構成になっている。それらの登場人物は実在の科学者・軍事関係者などで、知っている人からすればその人物の物語における重要性が分かるのだろう。しかしこの映画ではそのような重要人物が矢継ぎ早に出てきては一言喋ってまた次の登場人物の紹介に移る。『オッペンハイマー』を独立した単体の物語としてみた時にこのような構成では、それぞれの登場人物に対する興味や印象が薄くなってしまう。相対性理論を発明したアインシュタインですら最初のシーンではただ湖畔を散歩している老人にしか見えなかった。後半になるとそれらの登場人物が確かに重要な役割があることがわかるのだが、それで前半のつまらなさが変わる訳ではない。ある意味では一人一人の科学者の印象を平等にどうでもいい存在として扱うことで個人の功績に依存しない科学の功罪について考えられるかもしれない。そのくらい印象が薄い。

では主人公であるオッペンハイマー自身のドラマはどうなのか? これもまた映画的には刺激の少ない平凡なドラマなのである。普通の人よりは派手な生活をしているようにも思うが、一人の妻と二人の愛人に囲まれていたからといってはたしてなんなのか。口説き方もいたって平凡でパーティで出会って少し口説いていつの間にかセックスする関係になっている。そのワンパターンである。実話が元になっているからそのような表現になったのかもしれないが、ここをこそむしろ脚色して面白いドラマにするべきではないか? 浮気をしている程度のゴシップで興味を引けるほど観客は刺激の足りない生活をしているのだろうか? オッペンハイマーが原子爆弾開発の科学リーダーに上り詰めるまでの権力を得た過程もハッキリいってよく分からなかった。いつの間にかそうなっていたといった印象である。

結局のところこの映画の前半を楽しむには、オッペンハイマーが原子爆弾の父と呼ばれる重要な人物であること、有名な俳優がたくさん出ていること、監督がクリストファー・ノーランであることなど映画の外部の文脈に依存して楽しむしかない。そのような期待のない人間にとっては『オッペンハイマー』の前半は地獄である。物語に対する興味を節操のないカット割でズダズダにされ無の一時間を過ごすことになるだろう。

伝えたいこと

しかしながらそんな感想は僕の個人的なもので実際のところ極めてどうでもいい(批判したいならご自由にどうぞ)。
僕が本当に言いたいのはこれである。

映画がつまらなかったら劇場を出てもいい

最初の方に「帰りたいと思ったが、一緒に観ている友達の前でいきなり途中退席して戻って来ないのは空気を悪くするだろうと考えてできなかった。」と書いた。どうやらその時友人も同じように苦しんでいたらしい。であるならば予め約束をしておいて、つまらなかったら劇場を出てもいいことを取り決めしていればお互いに気を使わず劇場を出れるのでは?

そもそも映画館は途中で退席することを禁止していないのである。映画が始まる前に様々な劇場マナーが紹介されているがその中に途中で席を立つことを禁止する内容はない。つまらなかったら出ればいいのだ。他の観客の鑑賞の邪魔になるとかそんなことを気にする必要もないのである。途中でトイレに出てもいいし、エンドクレジットで席を立ってもいい。自由である。

せっかく払った映画代のことを気にして最後まで観たいと思う人もいるかもしれない。しかしながら開始30分で合わないなと思った映画が最後まで観て印象が変わることは稀だと思う。お金を払って2時間苦痛を味わうより30分で劇場を出て買い物に行ったり、また別の映画を観たりした方がいいのではないか? 最近ではNetflixやアマプラなど各種サブスクで映画が観れるようになっている。劇場で途中退席した映画も半年後や1年後にはそれらのサービスで観れるようになっているだろう。その時に改めてスナック菓子片手に観て面白かったとかつまらなかったとか感想を言えばいいのだ。

映画館に足を運ぶ人間は最近は回復傾向にあるものの、一時の不況で客一人の単価を上げようとした結果、映画代は以前よりは高くなっている。たまにしか映画に来ない人がつまらない映画を最後まで観てトラウマを抱えて映画館に来なくなればますます映画代は高くなる一方である。途中退席を許すことによってそのようなストレスを減らすことは客が増えることにも繋がり映画ファンにとっても良いことのはずだ。『RRR』があまりにも暴力的で怖すぎてトラウマになった人も途中退席して良かったのだ。


という訳で僕の伝えたいことはこれだけである。

映画がつまらなかったら途中で出てもいい。

(補足)オッペンハイマーの良かったところ

・オッペンハイマーがトルーマン大統領と面会したシーン

オッペンハイマーが「私の手は血塗られたように感じます。」と責任を感じていることを吐露するのに対して怒り、
「ヒロシマやナガサキの人々が恨むのはお前じゃない。落とした者、つまりこの私だ。」とトルーマンが返す。
科学者のことを道具としてしか考えていないシーンでもあるが、自らの責任の所掌を他人が勝手に感じてるのに対して怒るのは権力者としての在り方としてこうあるべきだと思った。アメリカの責任に対する価値観が表れているように思う。

・聴聞会でのキティ

『オッペンハイマー』にはストローズがオッペンハイマーを共産党のスパイに仕立て上げやらせの聴聞会を仕組んだことが明かされる種明かしのシーンがあるが、前述の通り前半の登場人物の印象が極めて薄いため「ストローズに全部仕組まれていたんです」となってもどこか他人事感が漂っている。ストローズに良い印象も悪い印象もないから意外性がないのだ。ミスリードとして上手く機能していない。
それに対してキティは前半で明確に夫の浮気が公然の事実になったことに怒っていて、後半でそれは浮気そのものに対して怒っていたのではなく不甲斐ない夫に代わって夫の名誉を守るために怒っていたのだと分かる。前半のステレオタイプな女性像から後半のノリノリでレスバする女性像への変貌は意外性もあって楽しかった。

・原子爆弾を投下する正当性について

原子爆弾を投下しなければ戦争は長引き、より多くの被害が出るとする当時よく言われていたプロパガンダがある。これは今でも信じている人間の多くいるプロパガンダで、個人的に一番心配だったのは『オッペンハイマー』がその通りに原子爆弾投下の正当性を主張する映画なのではないか?ということだった。しかしながら本編では明確に当時のプロパガンダを否定的に描いていたのでその点は安心した。まあ原子爆弾を否定する根拠が軍拡競争を招いて地球全土を破壊する危険を招いたという如何にも功利主義的な結果論でしかないのはノーラン的だなと思ってしまうけれど。広島、長崎の原爆投下であれ、東京大空襲であれ、それが否定されるべきなのは無抵抗の民間人を虐殺しまくったからだ、と思うのは日本人のワガママにすぎないのだろうか? ガザの虐殺に対しても同様のことが言われて然るべきだと思うのだが…。

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