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為せない大儀について

2021.11.17

 日々できることを目標に達するまで少しずつ蓄積させていく他にない。漫然と日々を過ごし、目標に対して未達であることが恒常化すれば、何事をも為せない体質になる。ここで気を付けなければならないことは、為せない大儀についても、着実な過程を想定できなければ、いずれ小さなことについても未達が日常化するということである。

 為せない大儀は罠である。現状未達であることが当然であり、ともすれば未達を繰り返す日々を首肯するための材料になりかねない。例えば、「いつか空を飛ぶように進化する」ということを目標に、毎日階段を降りる際最後の2段を跳んでいる者がいたとして、それでは空を飛ぶようには進化できない。この目標に対しては僕も過程が浮かんでこないが、少なくとも遺伝子的な研究に勤しみ、空を飛べるように何かしらの操作を加えるなど、そこにたどり着きそうな過程を踏んでいくべきである。

 然し、ここにも2つの観点で問いが存在する。1つは、この過程を踏むことにより、環境を生み出すことができても自分が実現できないという罠に立ち向かうことだ。あくまで例示であるが、器楽家を目指す万人が器楽家となってよい社会を創造するほうが、器楽の練習に先立つとすれば、誰かが意志をもってそのために社会創造へ邁進しなければならない(よい奏者が残るために競争原理が働くべきであるかどうかについては諸説ある)。前段の話から、「現実的手段を模索しない者は努力を欠損している」との結論に至り、市場原理に立ち向かわないことをすら、それを享受してまで道を貫かないことをすら努力の欠損であると揶揄する者がいるが、往々にして彼らは努力の方向が市場原理を向いているからそのようなことが言えるのであって、彼らの方こそ市場に認められないという葛藤に立ち向かった経験はないのである。

もう1つの観点は、「その方法論であるが故に浪漫がある」場合である。その方法論で至ると信仰し、その方法が現実的に不可であるとわかっていても、そこに邁進してきた人生を一貫性のあるものと見なし心を平定している状態だ。僕たちは彼らを批判できるだろうか。全てのことが思い通りになるわけではなく、時には不慮の事故によって、あるいは人間関係の崩壊等によって、自ら思う通りの結末とならない場合が存在する。そこを振り返り、解釈と立ち向かい、心を平定させて一貫性を獲得した者を、僕たちは批判できるだろうか。単にそれは、僕たちの葛藤の方こそ不足しているのではないだろうか。

 ここ数日の思索により、僕たちは自己を為すことと、自己が為せないという葛藤との狭間を揺れ動いているというダイナミズムが、感覚的に把握できるようになってきた。僕たちは、(これは僕の思索と感覚から始まっているので往々にして帰納的であり、普遍の原則ではないかもしれない)場面場面の選択を、過去と紐づけ一貫させていくのであり、それが自らの課題・大儀(自己が自己であると認識できる命題)と合致していれば自己を実現できていると感じ、そうでない場合に自己をはく奪されている、あるいは自己を満たせていないと感じるのではないだろうか。そうであるならば、僕の考える善なる方向にのみ自己実現はあり得、そこに邁進すべきだという誤謬は除外できる。とはいえ、大儀に基づいた生き方とそうでない生き方との間には、まだ距離があるような心地もする。以降の思索ではここを明らかにしていきたい。

 

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