「英語を学ぶ」という未来を想像する
現在,AI技術の発展に伴い,語学学習は本当に必要なのだろうか,と議論されることがあります.
確かに,数年前ポケトークを初めて触れたときにはその翻訳の正確性や速さに非常に驚いたのはよく覚えています.
またYouTubeの自動字幕生成と翻訳機能が結びつけば,「自動翻訳」はかなり現実性が結びつき,きっと,「かければ相手の言葉が勝手に自分の言語に翻訳された言葉が視覚的または聴覚的に認知できるようなメガネ」が開発されるだろうと思います.
そこで,我々人間はこのような世界が想像できるのに英語学習を続ける意味はあるのだろうかと考えてしまうわけです.
そうは言っても,生身の人間同士のコミュニケーションには語学は大事だろう
受験で必要なのだから,要不要は考えずに勉強する
それもある意味正解なのかもしれません.
私自身の考えは,十数年前から小学校で導入された「異文化理解」がその答えなのだろうと思っています.
事実,海外では日本語以外が話されますが,特定の地域,例えばタイなどの出店の店員は「おにいさん,いらっしゃい!やすいよやすいよ!」と突然日本語で話します.それに「おっ?」と反応することもあり,それは「タイで日本語が聞こえるなんて!」と思うことがあるでしょう.
逆に日本人が海外で働く際に,現地の言葉が話せると距離がぐっと近づくと聞くこともあります.
国内でも大阪で東京の言葉は「お高くとまりやがって」と感じる人もいると耳にすることもあります.
言語を手に入れた人間は社会を創生し,ことばによって「仲間である」と感じられるような生き物や社会性を持っているとすれば,言語を「扱えるようになる」ことは人間という生物にとっては必要不可欠なものなのだろうと考えます.
そして,自国以外の言語を扱えることで他国の者を理解することにつながり,自国を客観的にみることがここでできるようになります.この過程は人間の成長過程でも見られます.
赤ん坊は親と自分が違うことを理解し,
保育園や幼稚園に通い始めると,ともだちの家庭と自分の家庭ではいろいろ違うことがあることを知る.男の子と女の子の認識もそうである.
小学校に通い,勉強ができるもの,いたずらをするもの,攻撃的なもの,静かな子,芸術肌の子,受験するものしないものなど分かれていく
理系に進む人,文系に進む人
メーカーに勤める人,研究者になる人,コンサルに勤める人・・・.
自分の選択と他者の選択が異なり,自分を知る.
英語を話すもの
日本語を話すもの
他国へ行くから自国の違いが見えてきて,自国を考える.
このように,外国を知るためには他国を訪れなければなりません.そのためにはやはり言語学習は必須なのだと思います.
言語学習は「異文化理解のため」ひいては「他者理解のため」に必要である,そう私は考えます.