水前寺清子a.k.aチーター🐆
なんか俺が表現したい真実は
形にしようと試みた途端に
なんかそれごと変わってしまう。
言い訳ではく
書き記す
それも全ての在るがまま。
『思った通りにやらかせよ』
好きな音楽から救われる。
点と点
結んだ瞬間線になり
線を結べば区切られる
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水を手で掬う事は🤲出来るのだが
それを手中に納め続ける事は出来ない
掌🫲は広げる事で
多様に使えるが
握った途端に
1つの事しか出来なくて
現実的に物質も
掴み続けておく事は
重くなりやがて疲れて
出来なくなる。
このLIFEのゴールは
皆に等しく
用意されていると言うのに
ゴールまで向かう過程の最中に
様々なものを掴んでは
取りこぼし
上善如水
掴んだものを留めおく事すら出来ない。
にも関わらず
〝すり抜けていくモノ全てにも
価値があったりなかったり〟
取り扱いにも四苦八苦。
慢性的に〝痛み〟が存在し
〝慢性的な痛み〟が存在する。
痛みは次の何かを促して。。。
嫌という程知っている。
学んだはずなのに
学んで来たはず。なのに
まだ等しく繰り返している様な
氣にすらなる。
逃れたい。逃れたいんだ。
誰しも歩んでいるだけの道からですら
逃れたい。
しかし全くの同時に
歩み自体が
意味で在る事をも
私達は知っている。
全てが由し。
なのに
自由という
自分だけが由しと書く幻想に惑わされ
そして魅せられ
また歩みを続けていく。
良い旅ともなれば余韻に浸り
その余韻の最中に
小さな痛みが浮上しては
更に細部の見えない何かに
行き届き
そこに仮宿をなして
いくばくでも滞在をすると
不感症となり
干渉という行為自体を放棄する事が
俯瞰なのでは。
不完のままで不干する事。
引き篭もると同義な行為が
この営みを
脅かされずに
やり(行動)ながら
過ごす方法なのか?
と
ギリギリの思考と腑の反応とで此の
人が固まると書き表される
個の
『心』
というコントロールが可能なのか
不可能なのか
未だに
ハッキリとしない
淡く朧氣で繊細
かつ
巧妙で緻密な
機能を
なんとか具象化しようと試みる。
kokoromiru
試みる
心見る
心観る
fukai
不快
深い
同じくして反対が同時に存在し
同じオトが違うモノ。
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稚拙とも崇高とも捉える事の出来そうな
今やれるだけの形を
アイスコーヒーと
煙と共に
吐き出す。
吐き…
出す。
飲めば空になるグラス。
この肉体を持つ私達は
一体にして
何を吐き出せば
空っぽとなるのか。
無くなり尽くすとは
ゴールなのか。
終わりは始まりであり
始まると同時に終わりがあるならば
生命
と呼ばれる働きに対し
果たして終わりという概念は
存在するのか。
果てるとは何なのか。
しかし間違いなく
ここに在るという実感に
付随させたいモノとは
なんなのか?
それを自らが由し
と出来る事が
自由で在るならば
私とは〇〇なのだ。
と固定する必要性は?
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全てだ。
全てを由し。
としてみよう。
いつまでも続くかの様な
この揺り子の様な
この動きも
そして
その
揺り子と表した働きを
感じさせてくれているからこそ
言語として表現させてもらえている
自然に当たり前に存在してくれる
その
〝支点〟
の様な決して無くなる事のない
在り方を示してくれている
この にも。
この と
私が在るという今。
それこそが
私が表現したい全てで
元に戻してくれるんだ。
人に従う事が
苦手な私を救ってくれた
道(タオ)
を始めとする先人達の
知恵や
真実を
感じさせてくれる
全ての自然現象や叡智
新月🌑という
あり
なし
が同居するこの全てに
3歩進んで2歩下がり
元の位置に立ち返り
初まりの心0から1
それを紡いで
外(アウト)に置く(プット)
謝り発して
感謝とす✨
ありがとうございます
わ 和
た 多
し 志
の の
す 統
べ べ
て 手
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