ASIAN KUNG-FU GENERATIONの個人的四天王アルバム
先週の記事で、いくぶんアジカンに対して批判的になってしまったので、"本当に"アジカンが好きだったんだという弁明的な意味も込めて個人的アルバム四天王を決めたいと思う。
「君の好きなバンドの中で一番好きなアルバムは何か?」
的な問いは季節やそのときの気分や体調によって変わってしまう部分があるので、なかなか「これしかありません」と断言できるものではないのだけれど、アジカンに関していえば、「四天王」という表題をつけてしまうなら選ぶアルバムはだいたい昔から決まっている。もちろん、あくまで個人的な経験と記憶に基づいた選出なのは勘弁してもらいたい(いや、元々こんなのは前もって断る必要はない。そもそも音楽とは個人的な営みである要素が多分に含まれているのであって、時に各人の経験と記憶がコミットしたり、音楽がもたらす風景をどう感じるかはやはりその人の感性や個性ということになるわけだし……(以下、厄介オタクのクソ長文))。
※という前書きからスタートしたにもかかわらず、下のアルバムに関しての思い入れが強すぎて、本記事では結局一つしか紹介できなかった。
また余裕のあるときに続きを書きたいと思う。
1 ソルファ
アジカンと聞いて真っ先に浮かぶアルバムが、この「ソルファ」になるのかもしれない。アジカンのアルバムの中で最も売れたアルバムだし、特に収録曲の「リライト」なんかは誰しもが耳にしたことがあるだろう。
けっしてーぇ!!! リライトっしてぇー!!!
このシャウトと耳に残りやすい特徴的なフレーズは、何がどうあれ真似して歌いたくなる中毒性がある。アジカンを知らなくても、リライトは知っているという人も多いはずだ。
眼鏡で冴えない男子高校生が、とりあえず場を盛り下げないために選びがちなカラオケの選曲第一位(当社調べ)。そして、頑張って歌っているから突っ込まんけど正直何歌ってんのかわからん曲第一位でもある(当社調べ)。これほどまでに歌詞の内容がすっと入ってこない割に良く歌われる曲というのもなかなかないと思う。
「ソルファ」は間違いなくアジカンをJーロック・バンドの頂へと押し上げたが、一番売れたアルバムだけあって、メンバーに届いたのは賞賛の声だけではなかった。特にアジカンのスタントマンとしてギター兼ボーカルを務める後藤正文を苦しめたのが次のような声だった。
「こんなのロックじゃない」
前作のアルバム「崩壊アンブリファー」や「君繋ファイブエム」でも、後藤正文が綴る歌詞に特徴的な散文的で文学的な表現はとられていたし、テンポのとりやすいエイトビートの曲調はアジカンの代名詞ともなるものだった。
しかし、時代はまだまだ"技巧的"で"粋"で"かっこいい"バンドが主流だった。B'z、thee michelle gun elephant、ウルフルズ……。アジカンの曲は一聴して内容が分かりにくい上に、愛を歌っているわけでもない。
「いまからそいつを殴りに行こうか」という気概があるわけでもなく、「盗んだバイクで走り抜ける」スリルを醸し出しているわけでもない。主眼が"じゃない方"の人間に置かれた歌詞。恋愛的な内容ならともかくとして、日常レベルでそのような視点で歌うバンドは当時かなり珍しかった。
たとえば、一曲目の「振動覚」のサビ。
教室の隅で小さくうずくまっていたようなやつに響いたこのメロディー。たとえ誰からも見向きもされないようなやつでも生きている。主張はできずとも、堂々と意見は言えなくても、僕らも同じように生きている。
陰キャならロックをやれ! と、アジカンをモデルにしたぼっち・ざ・ろっくのキャッチコピーの意味が痛いほどよくわかる。
「才能がなきゃ音楽やっちゃいけないんですか? 日陰者は黙ってなきゃいけないんですか?(cv.蓮舫)」
「やってもいいんです!!!(cv.楽天カードマン)」
「ソルファ」には、そういう日陰者的な表現がわりと直接的に綴られていたりする。
あるいはそれは、日陰者というよりは情熱の方向性を見失い、日々を何となくやり過ごすことしかできなくなっている若者といった方が近いかもしれない。僕がこの時代のアルバム好きな理由は、アジカンと僕との間に存在したその"一体感"なのだ。
たとえば先に挙げた一曲目の「振動覚」では、何よりまず「特別な才能を何ひとつ持たない」"僕"が、それでもギターを弾き鳴らして音楽を響かせている。ある種"僕"の開き直ったような決意が全面に押し出されていて、すべてをさらけ出し、ただ全力で"君"に向かって叫んでいるのが熱い。
おなじみの次の曲「リライト」も、自分が目指していたものとの矛盾、凡庸性を思い知り味わった幻滅を前提にしながらも、起死回生ーっ!!! リライトしてぇーぇ!!! である。ミュージシャンの"僕"だから伝えられる想い、音楽を通じてでしか綴ることのできない詩が、後藤正文のシャウトによって運ばれる。
「ソルファ」の歌詞に出てくる"僕"と"君"は基本的に対等な関係にあり、どちらも弱さを抱えた人間なのだ。たとえ"僕"が想いを伝える側にあったとしても、彼らが前に立って「こっちに来いよ」と上から目線で呼んでいるわけではなく、「俺らと一緒にやろうぜ」と隣に立って僕がスタートするのを待っていてくれている。「俺らはここで歌ってっからさ。お前のタイミングでスタートしろよ」、と。
先で引用した三曲目の「君の街まで」の歌詞のとおり、「俺らは何だってなれるんだぜ」というような無責任な全能感はない。
「輝く向こうの先まではいけないけど」
「まだ夢のような場所までは飛べなくても」
僕らの等身大の生活の中で、夢を見ていられる時間は少ない。時には夢を見ることだって空しいことのような気がしてしまう。だけど、それが何もしないままでいることの理由にはならない。夢の場所まで飛んでいくことはできないけれど、その道中で出会える景色だってある。そのメロディーラインもそうだが、「君の街まで」は夕陽が沈んで薄明に移ろっていくような切なさがある。
そして、「ソルファ」の物語は宵から夜へと進んでいく。「マイワールド」はいくぶん幻想的な雰囲気で、音の宇宙に身体を泳がせているような浮遊感がある。印象的な記憶と、夏の残り香で創られた宇宙。「存在しない記憶」すら蘇ってきそうだ。
「君の街まで」の歌詞が「夕闇」から始まったのに対して「マイワールド」は「夜」から始まること、アップテンポの曲を一段落させていることから、なおさら物語の場面が変わった印象を受ける。
「夜の向こう」も忘れがちだが、かなり良い曲だ。
人間の弱さや夜の哀しみがにじみ出る歌詞で、そうした切なさが身を切るような夜風となって吹き渡っているようなメロディー。胸にぽっかり空いた穴を抱えながら、何かを求め、想いを馳せて歌っているような。
夜にいる"君"が太陽という対照的なメタファーに想いを馳せている様子が、切なさを加速させる。それでも、ここまでの「ソルファ」の曲調にスローテンポだったり、バラード調だったりするものはなく、"僕ら"の弱さを前提にしながらも、それでも前を向くための音楽だった。
さて、物語は「ラストシーン」を歌う。
もしもこのアルバムに「ラストシーン」「サイレン」「Re:Re」が収録されていなかったら、僕はここまで「ソルファ」に入れ込んではいなかったと思う。もちろん、それらの曲を抜きにしても「ソルファ」は素晴らしいアルバムだし、アジカンを一躍トップ・ミュージシャンの仲間入りにする役割を十分果たしていたとは思う。
このアルバムの発売日は2004年。僕がアジカンの世界にどっぷりはまったのは中学生以降だから2010年前後ということになるのだろうか。「ソルファ」の評価をリアルタイムで聞いていたわけではなかったし、周りにいた人はやはり「リライト」「君の街まで」「ループ&ループ」といった曲しか知らなかったから、なおさら思春期真っ盛り&厨二病全開患者&自分の感受性が絶対的なものと信じて止まない時分の学生に与えた影響は計り知れなかった。
一言でまとめよう。僕はこの3曲で性癖を破壊された。夜の闇に遮断機の音が重なっただけで、僕はパブロフの犬のごとく涎と涙をまき散らし、自分の脳内で勝手に生成した物語にそれらの曲をBGMとして再生してしまうようになった。
深く、絶望的なまでの喪失。心臓をもぎ取られそうなほどの焦燥。物語は悲しく虚ろなバットエンドに向かっていくのに、表現は叙情性に溢れ、純文学的な余韻と残響をこの身に残す。こんな感情を音楽で味わえるのか、といまならあのときの感情を文章で綴ることができる。
僕が初めて出会ったストーリー・テラーは後藤正文だといえるのかもしれない。レコードのA面に満足したけど、せっかくだからとB面を聴こうかという心持ちで再生したら、どえらい感情の爆弾が起爆した、という感じ。それは音楽であって文学であり、音楽でなければ綴ることのできない文学だった。
「ラストシーン」の始まりから、思わず唾を呑むようなイントロで、それまでとはガラッと雰囲気が変わる。天空に亀裂を入れるような弦の軋みと、泡沫が零れては弾けていくような導入。
シリアスな声音で、説明のないまま深刻な旋律が刻まれていく。そこにあるのはただ絶望と、「終わってしまった」という喪失感だけ。「ソルファ」の中で――というより、アジカンの曲の中で一番救いのない曲。
「ラストシーン」の時系列としては、その次の曲「サイレン」の後になる。「ラストシーン」を先に持ってきた理由として、後藤正文は「あまりに救いがなさ過ぎるから」と語っていた。
では、「サイレン」とはどういう曲なのか?
「サイレン」には「サイレン」ともう一つのバージョン、「サイレン♯」が存在する。元々シングルカットされていた曲で、「ソルファ」に収められているのは無印の「サイレン」で歌詞の内容に違いはない(「サイレン♯」の一部リミックスも入っているため、正確には三つ目のバージョンと呼ぶべきだろうが)。
もちろん、「サイレン」だけを聴いたとしても、その物語の引力が弱まることはない。耳鳴りのように響くイントロから、感情を煽るようなメロディーラインが展開される。夜の街並みを息を切らして走っているような疾走感と焦燥感が混じり合い、まさしくいま"運命の分かれ目"に立たされていることが伝わる。しかし、直接的な表現はない。むしろ幻想的で印象的な場面を切り取るような描写がなされ、そこには一種退廃的な美しささえある。
それでも、"彼ら"が感じている切実さは痛みを増していく。
「溶け落ちる心」
「覚めやらぬ白い衝動」
「癒えきらぬ傷」
テーマであるメロディーが繰り返されながら、「終わりに向かっていく」流れが加速していく。サイレンの音が次第に大きくけたたましくなり、やがては耳を塞がなくてはならなくなるように。"君"というサイレンは四方から助けを呼ぶように鳴り響き、やがては潰えようとしている。"僕"はその合図を拾って街を駆け抜けながらも、その出処には辿り着けない。
「ラストシーン」「サイレン」「Re:Re」に関していえば、それまで"リスナー"と"ミュージシャン"という関係であった"君"と"僕が"、明らかに物語の登場人物のように切り替わっている。それを証明しているのは、「サイレン♯」の"私"と"あなた"という表現だ。それまでのアジカンの歌詞には出てこなかった表現だし、今後も出てくることはない。「サイレン」と「サイレン♯」は、それぞれの視点を意識した文学であり、その交差を響かせている音楽なのだ。
"私"は闇の中にあって、抜け出せない。"私"の目に映る世界は夜の暗さに沈んでいて、彼女をどこか遠くへ運ぼうとしている。何よりも辛く、切ないのはこの歌詞だ。
「サイレン」と違って、「サイレン♯」には直接的な表現が胸を抉るほどに出てくる。
「今も消えない明日への焦り」
「理由もなく止まないその痛み」
「あなたに出会ったその理由も わからないまま世界が終わる」
小さな希望、か弱い光を"あなた"に感じながらも、彼女はどんどん遠くへ運ばれていってしまう。まるで、それが定まっていた運命だったかのように。"私"はすでに「終わり」に呑み込まれてしまっていて、彼女はただそれに従っているに過ぎない。
車窓の明かり、想い出す記憶、刻まれた傷痕の痛み……。
"僕"はまだ救いがあると思っている。それが故に駆けだしている。あるいは、まだその手を取るチャンスが本当に残っていたのかもしれない。だが、その声が届くところに"君"はおらず、ただ彼女が残したサイレンだけが残響するだけ……。
なぜこんなに悲しいのだろう? なぜこんなにも悲しく、叙情的な曲をアジカンは生み出してしまったのだろう? 痛みにも悲しみにも切なさにも綿布をあてず、その傷痕をさらけ出すような物語で終えてしまったのだろう? その傷痕が夜の街明かりに眩く照らされて、きらきらと輝いているように見えてしまったじゃないか。
昔、「サイレン」と「サイレン♯」を同時再生させた動画がニコニコ動画にあがったために、感化されやすい心を抱いた少年はパソコンに脳を乗っ取られてしまったようにその動画から目を離すことができなくなってしまった。この二つの曲はメロディーも歌詞も異なるが、二つの作品が同時に再生されることを計算されて作られていたのだ。
交錯する想い、すれ違った感情、まだ何かを信じる心と、すでに何かを失ってしまった心。それ自体が一つの映画のようで、フィクションを越えた僕の真実だった。本当に何でこんな音楽を作ってしまったんだ……救われないことが、美しいみたいに思えてしまうようになってしまったじゃないか。
もしもアジカンが「サイレン」を生み出さなかったら。「ラストシーン」と「Re:Re」が連続性を持たず、同じアルバムに収録されていなかったら。もしもその同時再生の動画がニコニコ動画にあがっていなかったら……。何はともあれ、僕は"本当に"アジカンに出会ってしまった。
「ラストシーン」はその終わりを引き継いでいる。
「ラストシーン」は大きな喪失に足を取られ、一歩も動けなくなってしまったかのような曲だ。記憶が蘇りは消え、蘇りは消え、そっと流れる一粒の涙も冷え切っている。サヨナラだけが鳴り続いて、先はなく、二度と埋まらない大きな胸の内の空洞だけを見つめている一人きりの世界。いままでは夜の暗さが主題になっていたのに、「溶けるほど澄んだ」青い空が象徴的にその空虚さを描き出している。僕らはイヤホンで耳を塞ぎながら、まるで一生分の喪失を味わったかのようにその青を内に宿す。
「サイレン」のあとに、そのまま「ラストシーン」がきていたら確かに救いがなさ過ぎる。「サイレン」の終わりに向かって加速したエンドロールと、「ラストシーン」のその後の虚無。
もしも忖度なしにそんな直球を投げ込まれていたら、僕は息絶えていたと思う。感情の行き場をなくし、意味もなく天井をぼおっと眺め、その虚ろな、ある意味死の世界を空想し、泣きたいような、(そして僕もその世界に移ってしまいたくなるような……)、そんな強い衝撃の中に飛び込んでいただろう――しかし、曲順がどうあれ、結局のところそれは推論ではなく、僕は半ばそういう世界にしばらく取り残された。
アルバムを丸々聴き通し、しばらく歌詞の意味を考え、アジカンのブログでその意図を知り、そしてまたアルバムを聴き通す。そうしてその世界観が僕の感受性を飲み込み、粘土みたいにその世界の形に変えられ、「ラストシーン」と「サイレン」、「Re:Re」は"僕"の世界になってしまった。
「Re:Re」がなかったらこの世界は完結しない。だから「Re:Re」のライブ・バージョンも、それを原型にリマスターされた2016年版「Re:Re」も好きなことには好きなのだが……と、なってしまう。あまりに過大でエモーショナルにしすぎていて、額縁をはみ出した「別の曲」になってしまっている感じがしてしまう(といっても、これもある種「刷り込み」のような現象が働いてしまって、正当に評価できなくなっているだけなのかもしれないけど)。
「Re:Re」でも傷痕の癒えない痛みを抱えてはいるが、「ラストシーン」の虚無が覆う世界に対して、「Re:Re」は別離に対する後悔を吐瀉するように歌っている。傷痕をかきむしり、目につくものをすべて投げ倒し、血が出るまで壁を拳で殴り続けて……それでも元には戻らない過去に対して叫んでいる。
自分に対する戒めのように自傷し、その傷痕を掻きむしるような慟哭は、喪失の暗闇に木霊するように響きわたる。大切な人をなくした世界でも、"僕"の人生は続いていく。その残酷さと悲痛。受け入れがたい現実。自分から人生に対してドロップアウトできれば楽なのに、それもできない……。"君"はそれを選択したのにも関わらず。
それでも、「Re:Re」には"再生"の兆しが差し込んでいる。懺悔や後悔を叫んだ後に訪れる朝が、夜の向こうから緩やかに、しかし確実に近づいてくるその足音が聞こえる。いまの"僕"には聞こえようもないけれど、その兆しは確かにある。
「Re:Re」は確かに二度と戻らない過去への後悔を歌っているが、それでも「ラストシーン」「サイレン」で続いた物語が完全な絶望で終幕するわけではない。過去は変わらないし、失ってしまったものは二度とは戻らない。傷痕が消えてなくなることもない。
それでも、虚無からの再生としての"叫び"によって、"僕"が次の朝の到来を受け入れようとしていることが伝わる。大切な人を失って初めて号泣できたかのように。すべての感情を吐き出したことで、死滅していた細胞もまた新しく生まれ変わるように。この「後悔を叫ぶ」歌があって初めて、僕はやっと息を継ぐことができる。この暗闇が永遠に続くわけではないとわかって、ようやくカーテンを開くことができたかのように。
「ソルファ」が発売されて数十年が経ち、ようやく僕は"文章"というツールを使ってそのときの感情を説明しようとする試みができるけれど、まさしく真っ正面から感銘を受けていたあの当時はただただずっと頭の中にそれらの曲が鳴っていて、ことあるごとに口ずさんだり、なんならエレキギターを買ってバンドスコアを買い求めて練習したりしていた。
「Re:Re」は単純なコード進行だし、そのテーマとなるメロディーはわりと簡単に弾くことができる。それでも、その音の積み重ねによって構築された世界はそう単純なものではなくあらゆる感情を孕んでいる。歌詞の内容に注意を払わなければ乗りやすいリズムだし、区切りのよい短文の連続だから、表面だけを見ればこんなに"重さ"が圧しかかることはないのに……。
僕はただアジカンの真似事をし、物語を空想し、やがて何かを表現したいと思うようになった。だってこんな感情、創作物に触れなければ味わえなかったじゃないか。人生、変えてくれやがって……(本当に恨む。凡人に創作という苦しみを与えるな。その先は地獄だぞ……)。
はっきり言って、後藤正文の文学的センスがこれほどまでに開花されたものはほかにない。印象的なフレーズや、はっとする表現、しみじみと胸の内に染みていくような歌詞はいくらでも挙げることができるが、"ストーリー"という点で、間違いなく彼らが生み出した最高傑作だろう。僕がオタク的感情でそう述べているわけではなく、後藤正文もブログの中で「サイレン」を最高傑作として挙げている。そして、もう二度とあんな曲は作れないだろうとも。
もちろん、いまのアジカンを批判したいわけではない。演奏の質や録音の技術は格段に上がっているし、後藤正文の歌声は"芯"のようなものを獲得して、ぶれず、より自信に満ちているように響くようになった。知識や経験に裏打ちされた上、強いメッセージを比喩的に表現する歌詞は情感があり描写も印象的だ。でも、本人も認めてしまっているように――もう、こんな曲はアジカンでは聴けない。こんなに感情を揺さぶった物語は、もう二度と彼らの口からは語られない。
「24時」で、僕らは少しほっとするだろう。張り詰めていた緊張の糸が緩み、深い暗闇を抜けたことを実感する。ミュージシャンとしての"僕"とリスナーとしての"君"の関係性も復活し、情熱の方向性を失った僕らの生活が映し出される。
そして、「真夜中と真昼の夢」で思索の深海を遊泳し、「海岸通り」で朝の匂いを嗅ぐ。
「海岸通り」は優しく僕らの頬を撫でるそよ風のような曲だ。聴けば聴くほど、ぐっと心に染みていく。いわば"浅ましい"僕らの思いが、後藤正文によって綴られていく風景描写の中ですっと溶かされ、そよ風に乗って流されて消えていく。
水面に反映する光。寄せては返す波の音。休日の海岸通りを歩きながら、日々の雑感を思い返しては風に流していく。「海岸通り」を聴いていると、雑踏にまみれてダウンしてしまいそうになる僕らの生活にとっては、やっぱり音楽は必要不可欠なものなんだよなと実感する。
「ソルファ」の最後の曲、「ループ&ループ」に関しては、やっぱこの頃のアジカンらしい曲だよなぁ、と改めて思う。どうでもいいけど、このMVに出てくる冴えない学生Sがあの頃の僕と僕友人たちにそっくりで、カラオケで歌うときにいつも気恥ずかしくなってしまう。
ここではないどこかへ通じる扉が目の前に開かれていて、「何か起こるかわからないけれど飛び込んでみようぜ!」と促してくれるような曲だ。教室の片隅から、脳内だけの世界から。握った筆箱を放り投げて、ダサい運動靴のままでも、変な走り方でもいいから、と。純粋に励まされ、何かをしなくちゃと思わせてくれる。それでも押しつけがましさはなく、僕らの琴線に触れる彼らのイメージが僕ら自身のスタートになる。
「ソルファ」を聴くたびに僕は何度も励まされ、鼓舞され、その曲を僕自身の一部として取り込んできた。「ソルファ」に漂っている夜の空気を吸い、「ソルファ」がもたらした夜明けの光に目を開いた。きっと誰にとってもある「僕」にとっての一枚のアルバムとは、そういうものではないだろうか。
アジカンは2016年に「ソルファ」のリマスター版を発売した。演奏の質が格段に上昇して、技術という点では10年前の「ソルファ」と比べようもないけれど、そこに"僕"と"君"の対等関係はなかった。たとえば「リライト」のMVでは彼らが多数の若者を引き連れるような構図になっていて、僕はただただ違うんだ、という違和感だけを噛みしめていた。違うんだ、そうじゃないんだ、アジカンは"僕ら"のアジカンなんだ……と。
もちろん、彼らの功績によって生まれたバンドだってあるわけだし(たとえばKANA-BOONとか)、その影響力が多方に及んでいる状態でいまでもアジカンが"僕ら"のバンドなんて言い方をすること自体が間違っているのかもしれない。飢餓と野心を歌ったブルース・スプリングスティーンが、売れてしまった後ではいつまでも「明日なき暴走(「Born to Run」)を歌うわけにはいかなかったように。
だからこそ、彼らの曲は個々人の生活や感情といったミニマムなものから、次第により大きなものをテーマとして掲げるようになった。そういう変化は、本来は喜ばしいものなのかもしれない。「アジカンは俺の推し」とか言えるんだったら彼らの歴史と変遷を踏まえ、「いまのアジカンは世界に通用するロック・ミュージシャンなんだぜ」としたり顔でドヤれるだろうけど。でも、推しとかじゃなくて、それは僕の青春時代とともにあった音楽で、その音楽はずっと鳴り響くと思っていただけで……。
僕はただ思い出す。アジカンがいなければ生きてはいけなかったあの時代を。憂鬱と孤独をアジカンで吹き飛ばし、時に折れて涙を流してしまった未熟な時代を。いまだって大して変わらない。それでもアジカンは僕らの数歩前に進み、僕の知らない舞台で、僕の知らない音楽を鳴り響かせている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?