β-385 せめのしせい
置きに行くのは、大怪我しないための常套手段。
リスクを回避することを確約された場所で、のんびりと暮らしていたい。
けど、そういうわけにもいかなくなってしまっているのかもしれない。
変化は求めていなくても、世情が変化を要請される奇妙な実世界で生き抜くためには、ある程度は受け容れて、ある程度は抵抗して、そして、会得しなければならないのだ、何もかも。
必ずしも、気を張って挑むのがベターではなく、のほほんとした形で迎えることも大事、順調そうに見えているときほど落とし穴に気を付けて。
そして、不運やそれに伴う境遇を他者のせいにまるまるぶん投げないで、そういう気持ちはわかるけれど、のめり込んだら、全然改善されない。
嫌だろうし、信じられないけれど、状況は必ず改善するから、しっかり考えて、切り抜けるんだという気持ちを持って、持てなくなったらヒントを掴むために非日常なことや好きなことをし続けて。
攻めの姿勢とは言わないまでも、受け身になり続けるのは極力避けて切り拓いていく、もうそういうふうに、自分に言い聞かせないと、生きていけなくなってしまっているあした・の・β<ベータ>です。
人生というのは、はっきり言ってしまえば、最初と最後に近くなればなるほど、記憶がぼやけたりすっ飛んだり、あるいは、いまこうして生きていることすら実感のないまま過ごすのは間違いない。
どんな始まりかというのは、両親であったり、親戚であったり、幼馴染であったりってとこから、はたまたそれを記録した写真やビデオから知ることはできていても、どんな最期になるのかというのは、あんまり想像しづらい。
まだ、余命宣告されて、延命治療を断るのならば、道筋もわかるのかもしれないけれど、大抵そうならない。
ただいずれにしても、最期に、もしくは晩年に近い何処かで、振り返るときはきっとやって来る。
あのときはあのときで、自分の精一杯やれた、だから悔いなしというケースになれば最善だけど、これもまた大抵そうならない。
人間なんてのは、どうにもネガティヴが染みつくし、試練であったり、挫折であったり、屈辱的なことだったりを思い出してしまう、ポジティヴなことよりも。
ネガティヴの記憶を思い出させないようにするためには、けっこう大変で、まずは意識をしないように仕向けなくてはならない、それでも時間はかかるけど。
でも、そんなことをしてても、なにかの拍子に復活してしまうこともある。
けど、そうしたものを乗り越えるとまでは行かずとも、回避したり、べつの道を模索したり、工夫したりすれば、成功も不成功も関係なく、過程を振り返って、その内容度が濃かったり、なにか大きなことを掴む一つのピースになったのなら、後悔もきっと少なくなるし、なんとなくでも達成感であったり、自分らしさだったりというのを掴めるんじゃないかと、最近は考えてしまうのです。
要は、受けより攻めに転じて、後悔しないようにアクションを起こせ。
って、とこだろうね、わりと恥ずかしいね。
でも、この気持ちは忘れないように、日々いろいろ喜怒哀楽や好不調の大波もあるかもしれないけれど、なるべくは前向きに、後ろ向きになったところで、メリットはそんなにないのだから。
って、考えてしまう夜なのでした。
戯言です、でも、そういうことを思いたくなる時あるよね。。