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非定住としての「がばいばあちゃん」

「Practice of Unsettlement」(以下PoU)プロジェクトは、現在の都市と居住の形態の持続不可能性に疑問を投げかけ、それを超えた新たな生活の可能性を探求するために「非定住」を掲げています。今回はPoUを推進する、Poietica奥田、ASIBA建築デザインスタジオ森原、デザインキュレーター高橋による「Practice of Unsettlement」の輪郭を探る鼎談を公開します。


1.持続可能な居住様式としての「非定住」

高橋:今回この鼎談を始めた理由は、「非定住」っていうテーマについて考えていきたいということがきっかけで、今の原子力発電の問題とか、私たちの住んでるインフラとか、その生活スタイル自体を問題視する考えがあるのかなと思うんですが、なぜ奥田君が今これについて考えたいのか教えてもらえますか?

奥田:そうですね。まず今回の企画において非定住という語の元になっている、アンセトルメント(unsettlement)という言葉はトニー・フライというデザイン研究者の概念で、彼はオーストラリアに「世界の果てのスタジオ(studio of the adge of the world)」という拠点を構えて、ひたすら本を書いている人で、デザイン哲学者といえると思います。

彼のアンセトルメントという言葉は、2011年のRemaking Citiesで初出のはずなんですけど、これは、気候危機で海面が上昇したり、農業が異なる形にならざるを得ない状況がある時に、これまでの「定住」という居住様式が持続不可能性を生んでいるとするならば、そこから離れない限り我々に未来はないということを言っているわけです。

非定住という言葉を用いて言いたいのは、単純に住む場所をノマド化しようという話ではなく、そもそも私たちの地球への住み方が間違っていたんじゃないかということを考え直す。人間対自然という構図から離れたり、採集主義から離れた居住の形態を考えないといけないという背景があります。

森原:僕も近い課題感を持っていて、今の定住形式が発生したバックグラウンドには、エネルギーだったり、労働だったり、社会構造のかたちがあった状態で、平地に密集して作るだとか、大きなエネルギー施設をつくらないといけないことが、建築の裏にある。もう一つ、建築は基本的に変わるのが遅く、最後の総合芸術と言われるぐらいで、進化が一番遅い、多分笑。人文的なデザインサイドの奥田からの建築へのアイロニカルな提案には、僕も共感しています。

奥田:はい、デザインも建築と同様で、海外のデザインの事例を山ほど見た大学院の期間を終えて今考えると、一般に日本のデザインはどう考えても商業性が高すぎる。海外のデザインスクールの事例や論文では、特にデザインの政治性や、つくることのイデオロギーといった話は避けては通れないところですが、日本においては透明化されていると強く思います。そもそも定住という生活様式から考え直した方がいいのではないか?という今回の提案はそういった経験や感覚から芽生えてきているものだと思います。

2.住空間にデザインし返される

森原:ここから本題に入るとして、まず一つ目のテーマとして、非定住におけるデザインと建築の実践は、どう関係するのかを話していきたいと思うんですが、奥田くんはどう考えていますか?

奥田:そうですね。いきなり話を飛ばしますが、アルトゥーロ・エスコバルの「多元世界に向けたデザイン」に建築とデザインの話を結びつけるヒントがあると思っています。本書の2章では人間の居住空間についての話が出てくるのですが、そこで例としてマロカという、コロンビアの地域での住居が紹介されます。この住居は大きな一軒家にみんなで呉座を敷いて寝るような空間の設計になっていて、マロカで育った人間とアメリカの車中心社会の郊外住居で育った人間では、明らかに人工物や環境に対する関係性の持ち方が違うだろうと。 そのようにデザインしたものが人間の生活環境を作って、 人間の生活環境が人間の世界の認識すらも変えていくということが、デザインがデザインし返してくると語られるのですが、これは建築とデザイン両方に関わる話かと思います。

https://www.revistacredencial.com/historia/temas/la-maloca-amazonica

森原:面白いですね。建築がどう生活空間を考えていくかって時に「人間はどう生活するべきなのか」みたいな「べき論」から入るところがある一方で、設計してる人ならわかる気がするのですが、自分が住んでた場所の原風景とか、ずっと見てきた造形とか、暮らしの中の経験は無意識的に出力されてしまうと思います。空間的な経験や記憶から受ける拘束と、自分の生み出していく空間や場所が、それらと相互に依存していることは否定できないのではないかなと思います。

3.建てずに空間を立てること

森原:非定住は、定住ではない住的なるものものを提示しようとしているわけじゃないですか。ただ人類は定住へのしがらみも大きいはずで、抜け出せなくなっている。その抜け出せない器を作ったのも我々であるし、アーキテクトであるし、デザインでもあるという。この関係性をあえて紐解こうとする時には、そのつくり方自体、 過去の経験や蓄積からの脱却を意識的にやらなければならない。でなければ非定住というスタイルを作るあるいは、提示することができないと思うのですが、どうでしょう?

奥田:Unsettlementって、否定としてのUn-がついているだけだから、 定住ではないだけで、じゃあなんだってことは、提唱したトニー・フライですら特に(具体的に)言っていないと思います。定住ではない何かを考えるって、ものすごい探索範囲が広いじゃないですか。

奥田:そうなった時に、合理的にその答えを出そうとしても広すぎて人間には無理だと思うんですよね。定住ではないということを、別のテーゼではなく、ありうる複数の可能性としてこの展示のプロジェクトを通して示せると、結構画期的だなと思っています。

高橋:つまり、その「非定住はこういうものである」と示すよりも、 「定住ではない何かはこれであるかもしれない」といったものを、実践を通して示せるとよいということですね。

高橋:デザインと建築を比較して考えた時に、デザインはリサーチしてること自体がデザインなるじゃないですか。一方で建築は建造物を建てるということが目的にあるから、その過程はプロセスでしかないという点が大きな違いだと思っています。デザインはそのプロジェクトが始まった段階で何をデザインするかって決まってないことが多い。

森原:建築をすると、敷地があって、クライアントがいて、大体のスタッフの人数がいた時に作れるものをスピーディーに3ヶ月でプランするようにデザインをしていくから、 作るものは決まってるんですよね。作るものと作る場所は決まっているっていう状態が建築の職業であるというか。非定住ってそもそも根本を壊しに来ているワードなのかと思っていて、「敷地は不明です」みたいな。 しかも、その定住の上に建築は存在してたのに、それを解体されたら、僕らは何をできるんでしょうか。という大きな問いを投げられているんじゃないかっていう。

奥田:今突拍子もない話を思いついたので1つの切り口として話題を共有すると、糞土師という謎の肩書きを持つ伊沢正名さんという方がいらっしゃるんですけど、この方は野糞をひたすらし続けているんです。ご自身で山買って、 そこをトイレとして、便意を催したら山に行く。ひたすらそれを20年くらいやってきた結果、山の土壌調査をしたら、非常に希少な微生物か菌が出てきたんだといった話をされていたんです。

何が言いたいかというと、山をもつことを資源として捉えるのか、トイレとして捉えるのか、 資産として捉えるのかっていうのは、決定的に違う点であると。つまり、敷地があって、施主さんがいて、それに沿って建物建てるっていう目的に準じた設計行為であったはずの建築が限界に達しかけている。このように仮定した時、その敷地を不動産として捉えないっていうことを、建築行為の中で問うということが一つの切り口であるかもしれません。

森原:いいですね。山は排便する場所であるという、山という概念を脱構築、壊していく作業をできているわけですよね。山だけでなくうんこ道でもいいかもしれないし、うんこマンホールとかでもいいかもしれないですけど、そしたらどこの箇所もトイレになるわけですよ。意外と場所や土地は、不動産というぐらいだから動かないものと思われていますけど、実はそうじゃないのかも。言葉に縛られているものは結構多いのかもしれません。

奥田:そうですね。立てずにトイレを立てているという意味で、これはある種アンセトルメント(unsettlement)なアプローチかもしれないと思いました。

高橋:冒頭にあった、森原くんの建築は経験則から新しいデザインを生み出しているだとか、奥田くんのデザインがデザインし返すって話もそうですが、非定住の練習は自分が経験してきたことを一度別の言葉や行為としてリフレーミングするところから始まるのかもしれません。

森原:もう一つテーマとして考えたいのは、「人間以外の生き物と何かしらのものを作って、構築していくことは可能なのか」という問いについてです。

奥田:これは、僕と森原くんの大きな共通の関心ポイントかなと思っていて、結論から言うと、できると思っています。が、「一緒につくるとは何か」みたいな問いがずっと付いてきて、そこを問答しだすと辛そうなので、僕はとりあえずできますという方が健康的で明るいなと思ってたりします(笑)。 具体的にはActant forestと一緒にやっていた21_21design sight 「Material, or」で展示した微生物とか植物の根に共生している菌が生えやすく育ちやすくなるマテリアルが作例としてあります。

https://poietica.jp/comoris-block

なぜできると思っているかというと、この展示の撤収時に一番奥底の湿った、排水されにくい部分のブロックを崩したとき、めちゃくちゃいっぱいゴキブリが出てきたからなんです(笑)。

つまり、つくったら意図せず来ちゃうみたいなものが多々ある。それは予測できない、不確実だし、創発的だし、捉え様によっては虫の方が制作物を読み替えてくれたといえて、これは一緒につくると言っても差し支えないだろうと思っています。これが(人間以外の生き物と)一緒につくることはできなくないだろうと思う経験的な背景です。

この前提には、全てを設計することはできないし、予測できない影響があることを前提にするという、態度自体の転換があると思います。

森原:めっちゃ面白いですね。話したいことが山のように出てきた。(笑)ゴキブリがそこに住めると認識したこと、生き物の生存環境への嗅覚は半端ないですね。

僕も一つ、生き物の巣を建築として捉えられるのではないかという研究を進めています。生き物と一緒に物事、建築を作れるのかであったり、そもそも建築史として生き物の巣を扱わないのはなぜだろうかという疑問をもってやってきました。というのも、ヴァナキュラー建築と呼ばれるような建築が建築史的に大事だよねと言われる中で、生き物も同じじゃないかと。いろんな生き物の建築の造形をみる中で、それをどう意味的に扱うかについて、また人間と同様な技術を持つと言えるのではないかについて考えています。

一つ奥田くんの話に被せていうと、生存するための発見的目線、つまり見立ていくことが建築の発生に先立っているのではないかと思います。奥田くんは住まいとして提供したわけじゃないにも関わらず、ゴキブリたちは住まいと読み替えてしまった。空間・建築の発生が、この穴すめそうだというような見立てることから成り立っていくとした時、僕らも生き物だから、多分同じだと思うんですよね。

そして、非定住的なものを考えるときにも、この発見的目線はすごく大事な気がしていて、プランニングしたり、定住を安定させていくというよりは、ゴキブリ的にこの穴使えるというようなことに可能性を感じています。一緒につくるというよりは、僕らも一緒になる、つまりゴキブリになって、積極的に彼らの巣の作り方に習わないといけないのではないか。

奥田:「生き物とつくる」ということから少し離れて、アンセトルメントの話に戻ると、マイケル・ラコウィッツという方の、FROM PARASITE, ONGOING PROJECTというプロジェクトがあります。都市の室外機に、大きいビニール袋をくっつけて、テントみたいになっていて、そこでホームレスの人が暖をとるという空間をデザインするプロジェクトです。

https://www.google.com/url?sa=i&url=https://art.northwestern.edu/people/michael-rakowitz&psig=AOvVaw1-5W2T7AnMkPd2Dtiosgzr&ust=1717297514174000&source=images&cd=vfe&opi=89978449&ved=0CBQQjhxqFwoTCPD5kvW1uYYDFQAAAAAdAAAAABAE

今これを想起したのは、何かを見立てるということを、いわゆる自然環境でやるということよりも、非常に都市的な人工物まみれの環境でそれをやることのほうが、ゴキブリ的視点には近い気がしたからです。
常に読み替えられてしまうことを前提として、建築を建てる、ものをつくる、未完成を前提としたデザインは社会的な状況ではあまり求められていないし、認められていないから、この展示というフォーマットを使ってできるといいな。

4.未完成性と生活の知恵について

高橋:とはいえ、未完成性を前提としたデザインって、そもそもデザインではなくてただの生活なのではとも感じます。先ほどまでのの森原くんや奥田くんの話では、予期できなさとともにつくる、人工物を積極的に読み替えていくというのは、日々環境から察知して、身体をアダプトさせていくような、デザインというよりも日々の生活における工夫。そういうスケール感なのかなと思いました。

奥田:エツィオ・マンズィーニというデザイン研究者が、デザインすることは歌うことであると言っています。歌うというのは根源的に誰もができることですが、日々歌うことがないために、恥ずかしかったり、うまくできない。ただ少しづつ歌うことを始めるとか、みんなで歌うことでうまくなくても歌える、みたいな経験が積み重なっていくと、今の社会のつくり方とは違うつくり方が可能であるのではないかとマンジーニは考えています。その点で日々の生活と差がないというのは、その点でマンジーニの指摘と共通しています。

森原:高橋さんの「生活なのでは」という言葉はとても共感します。裏を返せば、生き物はデザインしていないのではないかとも自分は結構考えるんですね。(生き物のものづくりは)デザインじゃなくてアダプトなのではないかと。これはなぜ人類にはデザインが必要なんだろうという問いでもあり、なぜ彼らはデザインをしないんだろうという問いでもある。

建築家が近代以降、何となく、社会のためにつくろうという意識とは外れたところで起こってきた生活のデザインみたいなことを踏まえて、非定住のことを考えるとプランニングされた社会的なデザインというよりは、一人一人の生活術みたいなところとか。一人一人のアダプトせねばならぬ、アダプトできたらいいじゃないかという意識を喚起することなのかもしれない。

奥田:そうですよね。だから、生活の知恵というか、いかに普通に家にある道具で効率的に仕事をするかという、松井棒的なレベルから、さっきのホームレスが生き抜くための巣みたいなものや、物資がない時代を生き抜くためがばい婆ちゃんの知恵みたいなものまで。

テクノロジーとは言えないんだけども、生活を成り立たせていくための、そういうものは、デザインという言葉を使わずとも存在していて、ある種異なる経済や生活圏を成り立たせる一部だったりする。
それをあえてデザインとか建築として扱うとした時、その意味を問うことは、デザインや建築が政治的であることを批評する、つまり今のデザインがいかに定住というイデオロギーに依拠しているか逆照射する実践が出てくる。その中の一つに人間以外とどう共にあるか、あるいはそれに基づく知恵や知識をどう上手く扱うかという問題があるのかもしれません。

森原:僕、がばい婆ちゃんの知恵持ってないなと思って、何で何だろうと考えた時、僕らは知識はあるけど知恵が足りないんじゃないか、つまり知識とか形づくる技術を持っていても、知恵がない。非定住を考える上で必要なのは知識でも知性でも実はなくて、知恵の量なのかもしれない。

高橋:非定住は知恵をどう増やせるか、それをデザイン的な実践によって考えていくということが本日の締めですかね。

話している人

奥田宥聡
京都工芸繊維大学大学院博士前期課程デザイン学専攻修了。2023年に研究室メンバーと合同会社 Poieticaを設立。デザインリサーチやプロトタイピングの方法論を活用した事業開発や作品制作に携わる。
https://poietica.jp/

森原正希
早稲田大学建築学科建築史系を卒業後、都市建築領域に特化したインキュベーション事業を手掛けるASIBAを共同創業、同社にてデザインスタジオを主宰。また、解築学の社会化を目指す大学研究会に所属し、生き物の建築論や循環型建築を研究する。WIRED Creative Hack AWARD特別賞/緑の環境プラン大賞受賞
https://asiba.or.jp/

高橋由佳
デザインキュレーター。米国、スウェーデン、フランスでの留学・就労の後、2022年、キングストン大学Curating Contemporary Design修士課程修了。「人新世におけるデザインとキュラトリアル実践」をテーマに、デザインと社会システムの相互関係を研究するほか、批評的デザインを実践・紹介する場としての展覧会やキュラトリアル実践を探求している。

編集・文:上江洲弘智(Poietica)

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