ASIBA2期「新しい都市居住を目指してアクションを起こすZ世代の鼎談 - 1」
今回はASIBA2期の参加者から、それぞれが進めるプロジェクトに加えて、人柄や関心を深ぼるため、「現代の都市や住まいのあり方に提言を持つ」3名による鼎談を開催しました。3名とも視点や軸の置き方、何に対するカウンターなのかはそれぞれ異なりますが、不安定な現代社会や10代でコロナを体験した世代の捉える現代都市に対しての違和感やそれに対して起こそうとしているアクションについて議論しています。(2部構成です)
1.住民参加ワークショップをより街に開く「建築屋台」(榎本雄高)
榎本:SFC学部四年生の榎本雄高です。僕は、住民参加ワークショップをより街に開くプロジェクト「建築屋台」を提案しています。
「建築屋台」は、街の人の新しい社会的接点の形として、ユーザーが一緒に手を動かして建築空間をつくる経験を補助するツールです。
僕は今まで、自分でワークショップを主導したり参加したりしてきましたが、なかなか「最初から興味がある人」以外には波及しにくいものでした。社会でより広く展開する上で、今までワークショップに参加してこなかった層のみなさんに、もっと気軽に空間作りの楽しさと、面白さを知ってもらいたいと思いました。そもそも自分でつくるハードルとして空間作りはしてみたいけど、何から始めていいかわからない人が多い。妄想を空間作りという具体的な行為に落とし込んでいくには、サポートする人の存在が必要です。
また、施工の段階では、工具・道具を用意するハードルもあります。レンタルの場合は、全てセットで持ってくるハードルが高いし、ドリルの先端なんかの消耗品は自分で調達しないといけない。買ったら買ったで、一通り必要なものを揃えると30万ぐらいするんですよね。都心だと、貸し出し拠点の少なさ、運搬手段の少なさもあってそのハードルはさらに高くなります。そこで、設計、施工のプロセス自体ももっと気軽に参加できるものにならないかと考えました。
じゃあ、このセルフビルドに必要な、最低限必要な機材セットと、あなたの作りたいを相談できる相談員を、好きな場所に必要な分だけ出張させようという仕組みを考えて、いま実装に動いています。
工具が入った屋台型カート1台が、自分が作りたい空間に、人間と出張してきます。屋台型カートの中には設計やブレインストーミング、施工に最低限必要な道具が入っています。ちょっと発展的な道具が必要になったら、もう1台借りることでカバーできる、というイメージです。
運用は相談員、カート(道具)それぞれ、好きな期間に、好きな時間だけ借りることができるもので、それぞれのペースや、スキルに応じて柔軟に変えることができます。例えば、この相談役の人っていうのが最初に派遣されてきて壁打ちを行い、 計画を立て段階からはカートが出てきて、そこで図面を作ってみたり、ワークショップをしたりします。実際に施工の段階に入ったら、そこに入っている道具で施工し、施工もだんだんやり方がわかってきたらもう相談員さんはいらないので、道具だけ借りるという風に、だんだん自立していけるような仕組みです。究極的には道具も彼らで買って、このサービス卒業する時には、ついに自分たちでものづくりができますよ、そういう風な運用を想定してます。
展開場所は物件や、できれば物件の前の道など、街中での展開を想定しています。ブレスト段階で例えば通りすがりの人が、一言意見してくれるかもしれないし、施工自体も街のイベントとして機能するかもしれません。つくるだけでなく、街の人が「まちに介入する」心理的ハードルを下げ、施工を通じた接点もできればと考えています。
工事規模ですが、例えば、数日単位の貸し出しだと例えば家の前の壁塗りや、お店に棚をつくりたいなどの小さい改造から始まり、大きくなると駅の前に花壇をつくるとか、自治会館を改修するといった大きな案件には数ヶ月単位で貸すことで、みんなができて、かつ街に完全オープンな空間作りを実現できます。従来のワークショップ規模には止まらない愛される建築、作る過程から人を巻き込みたい建築、をつくりたい方に最適です。
2.街の施工に参加できる障壁を下げたい。
福本:たしかに、僕も最近自分の地域のまちづくりに顔を出しはじめたけど、当然まちの人みんながみんな来るわけじゃないんですよね。そこを結構みんななかったことにして、とりあえず集まった人でやってしまう部分はあったと思うんです。もちろん主催者の方々はいろんな努力をされてると思います。少なくともうちの周りはそうで、僕と友達以外は基本的に30、40年離れちゃうよね、みたいな状況はある。
高野:榎本が参加型建築をやってる根底にある問題意識は何かっていうのと、今まで参加してこなかった人も参加することの意味の2つが気になります。後者に関して言えば、まちづくり全般に言えることとして、町会活動とかって基本的におじいちゃんおばあちゃんがやっている。そこに参加していない人達をどのように巻き込もうかっていう論点がある一方で、実際に手を動かしているのはやっぱりおじいちゃんおばあちゃんたちなんじゃないかと思います。その辺りどうでしょうか?
榎本:そうですね、このプロジェクトを進める意味として、1つは一緒に町を作るっていうこと自体が、 副次的効果としてこれからの人と人との接点になると思うんですよね。それは今まで実際に手を動かして施工するワークショップを行った中で発見してきたことでもあります。
普段町会に来ないけれども、施工のときだけ来る人が一定数いて、そういう人たちとの接点も作れるんじゃないかっていうのが、根本のスタートだった。もう1つは、自分たちで計画、施工することによって、 町への介入の、ある種の心理的な障壁が下げられるんじゃないかなと思ってる。それはいわゆる都市の均質化への問題意識としてもあるよね。
高野:そこをもう少し詳しく聞きたいです。みんなでそこのプロセスを一緒に踏むことで、何がどう変化するのかとか、今のままでは何がいけないかとか。
榎本:何が変化するかっていうと、1つは、住人がその町のハードに介入する機会が増えていくことによって、だんだん”こうしたい”っていう意思が、空間や町に現れてくると思うんですよ。ちょっと下町の方に行ってみると、住民の普段の”これが必要”って思った問題意識と解決手法がそのまま手作りのものとして現れていたりしますよね。例えばちっちゃい用水路に手作りの橋渡しがしてあったりとかします。それは風景的な豊かさも勿論あるし、 ちょっとでも改善していこうっていう、そういうアクションの現れっていうのが結構大切なんじゃないかなっていう風に思いますね。
福本:うんうん。街に対して"一種の施工を通して"アクションを起こすことへの心理的ハードルを下げることと、下げてアクションしたことで何が起こるのかっていう2つのポイントがあると思います。
個人的には特に2つ目に注目したくて、やっぱりまちづくり系のイベントを開きますって言って来てくれるのって、基本的にご高齢の方じゃないですか。これはシンプルに町に愛着があるっていうのが大きいはずで、もうちょっと若い世代だと、居住地域を変えることは珍しいことではないし、今いる場所にどこまで住むかって特に東京だとわからない。これって地元とは何かみたいな話、つまり、均質化云々はその人たちの中でもう起こってしまっているのではないか、そこでワークショップにわざわざ行く意味ってなんだろうっていう問題。
そのハードルを下げて、まちでアクションを起こすんだって構えをとると、まちがどんどん一般名詞じゃなくて固有名詞になっていく。まちへの物理的な介入は、そのための作業でもあるのかなっていう風に思いますね。
高野:ファミリー層が住む場所を選ぶ時って、そこにずっと住んでない限りは、地図の中で夫婦の通勤場所へのアクセスと教育環境の良さみたいな要素を考えて、値段帯が合う地域はどこだろう、って考える。つまりあらゆる場所を相対的に評価できるっていう均質性が前提にあって、条件の中で優劣を判断して最適な意思決定をするよね。そうやっていろんな条件の最適化として選び取った結果を、いかに愛着みたいなものに繋げていくかっていう話なんだろうね。
福本:そういう選び方は、数字で選んでるっていう点では、いわば自由恋愛じゃなくて婚活市場での選択、みたいな例えもできるかもしれません。その婚活で知り合った街に、どう恋していくかみたいなことで、この人は年収いくらで身長がどうでみたいな、そういう数字の部分と、そこに加えて、ともに時間を過ごす中で人格とかの見えなかった部分にいかに惹かれていくかっていう風に思うんですよ。
高野:うん(笑) もうちょっと”作る”の方でいくと、大きい流れの中では、 消費社会から情報社会になって、これからは創造社会、つまり作るという作業にどれだけ関われるかが豊かさを規定するという考え方がある。これまではいかにたくさん消費できるかとか、どれぐらい情報を持てるかが大事だったのが、作るプロセスへの介入が豊かさに繋がるよねっていうパラダイムになってる。
あとは実は昔はみんなで作ってたよねっていう話もあって、その町に根付いた工務店とか大工が家を作っていた時には、実は壁を塗る作業は住む人みんなでやってました、みたいなことがあるわけで。それがnLDK的なシステムの中で最適化・量産化されていって、どんどん作るプロセスに関わらなくなっていたものを、もう1回住む側に引き戻すみたいな意味だったりするかね。
3.街や都市の中でより人間として暮らすライフスタイルを作る「たけのこ」(高野広海)
福本:均質化への対抗という大きなくくりに1回戻しちゃうけど、そういう意味では高野くんのたけのこも近いのかな。
高野:そうですね。たけのこが挑むのはその均質化っていうテーマでもあるし、自分たちの作った都市というシステムに阻害されているんじゃないかっていうことを考えてます。さっきの榎本の話だったら、質の高い住宅をいかに効率的に安く供給するかっていう流れの中で、そこに関わる喜びとがなくなっていってしまったよね、っていうことだと思います。再開発とか建物更新っていうシステムの中で、本当に都市に暮らす喜び、なんで自分たち都市に暮らしてるんだっけ、みたいなところが失われてしまってるんじゃないかと感じてます。都市に暮らす意味が減ってる。ある種の公共空間、ふらっといれるとか、そこにいたら知り合いがどんどん来て、みたいな場所が、 再開発の中で閉ざされた箱に変化してるんじゃないか。
それに対して、空き家をこじ開けて、シェアハウスだったりコワーキングスペースだったりにしていって、そのネットワークの中で暮らすみたいなライフスタイルを作ることによって、それに抵抗したり、 食い止めたりすることができるんじゃないかと考えており、まちの中でより人間として暮らす、都市の中で暮らすライフスタイルを実現できるんじゃないかと思います。
あと、不動産価格がどんどん上がってる中で、そもそも学生が10年後に都心に住めないんじゃないかって思っています。ひとり暮らしするにも、大学から1時間離れた郊外にしか家を借りられない、みたいなことが起きうる。その時の大学生活ってすごい貧しいものになっちゃうよねっていうことを考えています。
で、もっと抽象化したテーマでいくと、ずっと都市計画を勉強してる中で、僕らが建築とか都市ってこうあるべきだよねって視点から話してるのって、 全体最適で、かつあまりお金の話じゃない、豊かさとか暮らしやすさと心地よさみたいな話だったりする。でも実際に町が動いてるロジックって、基本的には1人1人の地権者の資本主義的な個別最適化、何が1番稼げるかっていう意思決定でしかない。そういった個別の資本主義的な最適化じゃないケースってとても少ないと思っていて、その2つの矛盾をどう調停できるかが個人的にはすごい大きなテーマかなって思っています。
現代居住の前提にある制度や開発のあり方への疑問
福本:再開発そのものに結構アンチだと思ってたけど、別にそういうわけではない?
高野:それはなんだろうな、今のシステムの中での意思決定を批判しても仕方がないというか。自分が今、たけのこのプロジェクトを進める上で、町にたくさん知り合いが増えてきたけど、誰それがそこにマンションを建てます、って言ったときに、今のシステム下でそれが悪いっていうことはできない。それはそれで一つの意思決定だよねって思うし、それ以前にシステムそのものを変えましょうって話はあると思うんだけど、それ以前に2つの矛盾する条件をちゃんと調停できるものを、個別解でもいいから作って、それをいかに広げていけるかを考えてる。最近はそれだと弱いのかもしれないとも思うけど。
福本:建築学生の語るそういう豊かさ、生活の余白みたいなのが都市計画で出てくるのって最近なのかな?昔の都市計画を見てると、基本的に道路交通をどうするかとかのもっと機能的な全体のシステムの話をしていて、生活の質やスタイルみたいな話はあんまりしてない気がするんだけど、どうなんだろう。
高野:そうだね。伝統的に日本の都市計画はやっぱ技術寄りだよね。元々日本都市計画の第一人者の石川栄耀は、盛り場研究とかぎわいの場所大好きみたいな人なんだよね。それが次の高山英華っていう東大に都市工学科を作った人になった時に、高山自身は都市論みたいな話はすごい好きな人なんだけど、やっぱり当時やらなきゃいけなかった都市基盤の整備とか街の密度をコントロールする手法を「都市計画学」として確立したことで、技術とか工学としての都市計画が優先されるようになった。
そもそもトップダウンの都市計画でそういうことを話すのはそもそもすごい難しいっていうのもあるね。1990年代にマスタープランっていう手法が生まれて、統一されたストラテジーに則った都市計画をやっていった結果、やっぱり難しかった。結局、コンパクトシティとかにせよミクロの意思決定の集合体というか、ある場所を都市機能誘導地域に入れるかとか、車線を減らしてLRTを通せるかとかって、すごく面倒な合意形成が必要になる。その時に、下からのまちづくりみたいな運動の方がやっぱり力があるんじゃないかっていう視点は増えてきてるのかな。
でも、昔からそういう視線はずっとあるし、ボトムアップにやってきた人もずっといるから、どっちかと言うと、もうトップダウンではどうしようもなくなってきてるっていうことだと思う。
福本:状況は昔からそんなに変わってないかもしれないけど、少なくともトップダウンの手はほとんど取れないよねってなってきている中で、たけのこのように、小さな場所をどんどん抑えていく動きの方が現実的になってきたのかな?
高野:そうだね、今自分ができることがそれっていうのはもちろんある。究極的にはシステムそのものを問いたいし、(ASIBA理事の)森原さんにも「今できないこと、解決したいことを一直線にやりなさい」って言われるけど、どうしたらいいかは分からないわけで(笑)。
榎本:たけのことしてはどういう感じのロードマップを描いてるの?
高野:長期のロードマップはあまりできてないな。どうしても空き家を扱うならウエットな関係性が前提になるよね。いわゆるキープレイヤーみたいな方たちとの関係性があった上で、そこからふらっと、あそこの家空いてるらしいよっていう会話から借りれたりとか、まちの中で学生が色々頑張ってるなって思ってもらえると相談が来たりとか。そもそも都心部では貸すのが面倒だから空き家があるわけで、それを変えるってやっぱりすごい難しいことだから、家が出てくるかに依存してて、スピードとしてはどうしても遅くなっちゃうし、想定もあんまできない。
それはどこかで乗り越えなきゃいけない壁みたいなものがあるんだろうなって思う。レベニューシェアとかクラファンでこう調達して、こんな風に使って、そのプロセスを短縮できるよねみたいなことをロードマップとして示さないと、ASIBAとしてやってる意味はないなって思ってる。
福本:一般的に単に空き家がある状態と、シェアハウスでより多くの人が住んでますっていう状況を比較すると、再開発への抵抗力としては全然違う?
高野:もちろん全然違うと思ってて、学生が住んでるっていうのもあるし、その地域の中で使われてるとか、 町に開かれてるってこともすごい大事だと思っていて。例えば僕が今関わってるある町会では、空き家を改修して、 1階をコワーキング、2階がシェアハウス兼作業スペースになってて、町会のミーティングとかも1階でやってるんだよね。大体1階は空いてて、人がふらっと挨拶してったりとか。そうなると大家さんも結構壊しにくくなってるみたい。
福本 一般的にシェアハウスっていうと、流行りだしたのはもうちょっと前だと思ってて。家父長制が退潮して云々みたいな大きな流れの中で、「新しい家族像とか共同体とは?」みたいなふうに積極的に取り組まれていた。あるいはシェア自体は経済的な文脈もあると思うけど、タケノコは、そこにさらに街に根ざして抵抗するんだ、みたいな文脈や意図がついているのが個人的にはいいなと思ってる。全員がそういう目的意識を持っているかはわかんないけど。
高野 そうだね、やっぱり今、もちろんその家父長制とか、「家族って一緒に住まなきゃいけないんだっけ」とか、「1人暮らしってなんであるんだろうね」みたいな話は僕も思っていて、それこそ卒論でワンルームマンションを扱おうととしているんだけど、今読んでる本では、元々シェアするための空間として作られた建物でシェアハウスをするのと、そうじゃない建物を自分たちなりに解釈/住みこなしてシェアして暮らすのは、行為として全然違うんじゃないか、みたいな話があって。
僕らが新築する戦略を取れないのはシンプルにお金がない、土地なんて買えませんって話なんだけど(笑)。でも、普通にシェアハウスを作っちゃうと同質性が前提になっちゃって町に開かれにくいんだけど、空き家を勝手にシェアハウスにする方がもっと可能性があるはず。そのフレキシビリティとか、自由さとか、余白みたいなところが、自分たちで乗り込んでって住む方があるんじゃないかなって思っている。
榎本:確かに、シェアハウス用に作られたっていうパッケージの中に住むのと、元々そうは作られてない中で工夫して住むのだと、シェアハウスとしてのスタンスも違うし、町にも関係してきそう。
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ASIBA FES2024 開催決定!
【ASIBA FES 2024】
「そのまなざしは『イマ』を超えるか」
建築・都市領域から未来を描き出そうとする若者が集まるASIBA FES。目の前の現実に挑戦するASIBAメンバーのまなざしは、この世界をどのように捉え、どこへ向かいたいと願うのか。ASIBA2期に参加した19のプロジェクトがそれぞれの言葉で、モノで、体験で、その先に見出した社会の輪郭を共有します。世代を越えて、組織を越えて、「イマ」の社会を越えて、ともにまなざしの先へ。複数の未来が交錯する場で、お会いしましょう。
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