知らない個人を断罪する権利

サカナクションのボーカル、山口一郎さんがYouTubeで視聴者と対談していて、今日のそれでコメント欄がとても荒れてしまっていた。

対談相手の方が話した内容に倫理的な問題が含まれていたからだ。

僕は対談相手の倫理性に関して確かに思うことがあったけれど、それを敢えて言語化したいと思わなかったし、ましてや一般論としての正当性でその方を断罪したいとは思わなかった。

その方が果たさなければいけないであろう責任、問題に私たちは関与するべきではないと僕は思うし、一郎さんもそのようなことをおっしゃっていた。

一方でコメント欄は倫理的に正しいことを言って、対談相手の方が関係する人々に及ぼす悪影響について断罪していた。

それは犯罪行為だ、などのように。

確かに、その気持ちも分からないでもない。何なら僕だって、僕の持つ倫理性からしてその方に対してポジティブな心象を抱いてはいなかった。

でも、コメント欄が対談相手の方個人に対して批判すること、その方が傷つくかもしれないことを直接コメントしていることも、倫理的な観点からすると等しくネガティブなものであると思ったし、少なくともポジティブなものではないと思った。

むしろ、集団で自分には何の責任もないところから個人を断罪する総体としての人間の醜さの方が、僕には見ていて辛いものがあった。

誰かを不幸せにするかもしれないと断罪しているのに、そう断罪する人たちはその方個人を傷つけて、不幸せにしているのではないかと僕は思ってしまった。

なぜ個人の、知らない人にここまで人は厳しくなってしまうのだろうと思う。
公的な人を批判するのとはまた訳が違う。

個人が果たさなければならない責任は、僕たちが断罪しなくても確実にその人個人で果たすはずだ。犯罪行為なら、犯罪行為としての償いがあるだろう。

でも、その償いに外野からの石投げが含まれていいはずがない。僕たちにそんな権利はあるはずがない。


僕は対談相手の方が最後におっしゃった、一郎さんに対する労いの言葉、「ご自愛ください」という言葉が心に残っている。

その言葉を一郎さんに伝えられる良心があるのなら、その優しさを身近に与えることだってできるはずだ。

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