長編小説「インフルエンサー」第三章

第三章 
 この章では、これまでの俺の言葉から紡ぎ出された彼の華麗なる姿に対して、いくらかの留保を与えるかもしれない。なぜなら現時点においてのあなたは恐らく、彼の完成された人間性を信じているだろうから。しかし、一方であなたは疑ってもいるのかもしれない。俺が説明し、あなたが実際に目撃したインフルエンサーとしての彼は、本当の彼だったのかと。非の打ちどころのない聖人のような人間がいるなんて、あまりにもリアリティがなさ過ぎるし、本当の彼には裏があったに違いないと。もし、そのような疑いを持っているのだとしたら、その感覚は間違ってはいない。なぜなら、高校入学時までの彼には彼を魅力的たらしめる反作用の如く鋭利なトゲを抱えていたからだ。それは彼自身だけでなく、周囲の誰かをも傷つけていたに違いない。彼自身がそう語っていた。
 それは彼が成功して二年くらいが経過した頃の、とあるカフェでの会話だ。
「僕は当時の自分が大嫌いなんだ。どうしようもない人間だった。僕がこうして人の目に映る仕事をしているのが今でも信じられないくらい」
「例えばどんなところが?」俺は言う。「今とはまた違う形ではあったけれど、お前は結構輝いていたと思うけどな。俺はいつも天才のお前に憧れていたぜ。お前は授業で率先して挙手し、小学生にとって難解な問題ですら解いてしまうほど頭が良かった。また、何においても持論というものを持ち合わせていて、それはお前のロジックによってシステマチックに整理されていた。滔々と語られるお前の言葉はまるで美しい川のようで、そこには正しさを超えた説得力があったんだ」
 彼は首を振る。「それは過大評価だと思う。僕の持論は美しい川なんかではなくて、人工的に浄化した水道水みたいなもんさ。僕は自分のロジックを正しいと信じ切っていたから、僕の語る言葉には濾過されたような説得力があったのかもしれない。でも、それは僕にとってイエスかノーかでのみ価値が決まるような限定的な説得力だった。勉強が得意だったことも認めはするけれど、それも勉強という一分野においてある程度優れていたというだけの話なんだ。僕が言いたいのはもっと広い意味での人としての話だ」
「いや、人としてのお前も立派だったんじゃないか。優等生だとお前は周りから言われていただろう」俺はそう言ったが彼は渋面を作る。
 彼は言った。「それは限定された世界での話だ。学校という極めて閉鎖的な空間においてであれば、その人の人間性がどうであれ、ある程度のルールを守り、そこそこの成績を取るだけで優等生と呼ばれる」
 俺は首を傾げる。「うーん、お前の考え方はちょっと捻くれているんじゃないか。俺から見ればお前は優等生だった。それで十分じゃないか。子供の優等生ってそんなもんだろ」
 彼はそこでも首を振る。「違うんだ。僕が言いたいのは優等生であれなんであれ、誰かのことを簡単に傷つけていたであろう自分が許せないってことなんだ。そもそも僕は『人として優れている』と定義できる基準を愛や優しさにあると考えている。なぜなら他者の存在があって初めて自己の価値が意味を持つからだ」
 そこで俺は質問を投げかける。「でも、自分自身でも自分の価値を認めることもできるんじゃないのか」
 彼は肯く。「うん、確かに自己の価値を自分自身で認めることもできる。でもそこに意味は生まれない。それは人間が生命機能の維持のみを考えて生活してはいないということが証明している。僕たちは互いを意味づけしながら生きている。社会的な生き物として。優しさや愛がそれを支えているんだ。そして君は、他人に対する愛や優しさを持った本当の意味での優等生だった。君の行動規範の内に誰かのためを先んじて行うような気概があったんだ。一方の僕は優等生のフリをしていただけで、自分のためだけに行動し、その度に誰かの心を深く傷つけていたんだ」
 ここで束の間の沈黙。そして、沈黙の間を埋めるように俺が話し始めた。
「そうは言っても、お前は学校のリーダーのような役職にも進んで立候補して、責務を全うしていただろう。俺は覚えているぜ、小学五年生と六年生の時にお前が学級委員になろうって他クラスの俺に声をかけてくれたことを。俺はクラス違いのお前と一緒に働けるんなら楽しいやと思って二つ返事で引き受けたわけだけど。そこではお前、委員長にもなっていたじゃないか。それは誰かのためじゃないのか?」
「それも違う」彼は眉根を寄せた。「全ての目的は僕という人格を正当化するためにあったんだ。例えば僕が誰かのテスト直しを手伝っていた時だって、それは純粋な親切心からではなくて、相手に対するマウント、優越感も大いに含まれていたはずだ。だから、僕は心ない言葉で長田くんを傷つけてしまったんだ。それは君も覚えているだろう」
 確かに俺は覚えていた。あれは小学二年生の頃だった。俺たちは学校のテストではいつも満点かそれに近い点数を取っていたから、間違い直しの時間には困っている人のサポートをしていた。間違えた問題について一緒に考え、適宜ヒントを与えながら最終的に答えに辿り着く、その過程はとてもやりがいのあるものだったし、相手から感謝される気持ちの良い作業だった。
 ある日、その作業中に少し離れた場所から長田くんの怒声が聞こえてきた。俺がその方向に目を向けた瞬間、長田くんは机を蹴飛ばし、彼の胸ぐらを掴んでいた。そして言った。「誰もかもがお前みたいに天才じゃないんだよ」と。どうやら彼と長田くんとの間で一悶着あったらしい。長田くんは温厚な性格の持ち主だったので、俺は驚いてしまった。先生が騒動に気づき、二人を教室の前方に呼び集める。クラス全員がそれに注目し、静かになる。
 先生が言った。「どうしたの。ゆっくりでいいから長田くんの方から話を聞かせて」
 長田くんは泣きじゃくりながら言った。「こいつが、俺を馬鹿にしたんだ。俺は馬鹿だけど、頑張ってテストを受けたのに。俺の答えを見て、こいつは笑ってこんな答えあり得ないって言ったんだ」
 その時、彼はずっと長田くんの足元を見つめていた。そして、先生が彼に水を向けた。「それは本当なの?」
 彼は何の表情もなしに言った。「本当だよ。僕はただ思ったことを言ったんだ。その間違え方がちょっとふざけてるように思えて、面白くて」と言い終わらない内に先生が彼の胸ぐらを掴んで言った。「あなたは真剣に頑張っている人の姿が見えていないの?テストはふざけるためのものじゃありませんし、長田くんがそんなことをしていたら先生はわかりますもの。必死に解いたテスト結果を馬鹿にするなんていけません。頑張っても人は間違えることがあるし、それはダメなことでもないのよ。間違えるからこそ人は成長できるの」
 ここで、レストランでの会話に戻る。俺は長田くんとの一悶着を思い出しながら言った。「確かお前はこっぴどく怒られていたな。人のことを馬鹿にするのは良くない。でも、それ以降は同じように怒られたことはなかっただろう。間違いは誰にだってあるものだ」
 彼はなおも暗い面持ちだ。「いや、君とクラスが離れてからも、僕は何度か怒られることがあった。もちろん、それはテスト直しで人を馬鹿にして起こしたことじゃない。でも、問題なのは僕の精神性なんだ。歪んだ価値観に起因して僕は何度も人のことを傷つけてきた。僕は人が間違いを犯したり、何か結果を残すことができないのはその人の努力不足のせいだと決めつけていた。そして、その人たちと僕との間で傲慢な線を引いていたんだ。僕は努力し、自分を律することで学校を牽引し、優秀な成績を収めている。彼らと僕は違う。そんな風に自分を正当化させていたんだ。僕のこの論理はしばらくの間有効だった。みんな騙されていた。僕の心を内奥まで見通せる人は少なかったから、僕の周りには君だけじゃなくてたくさんの友人がいた。僕のスタンスによって時に傷つくことがあってもだ。でも、高校に入学してからの僕には、何もなかった。友人は君だけになった。そうだろう。見せかけの優しさ、見せかけの賢さ、そんなものに誰も見向きもしなかった。みんなが僕の浅ましさを見抜けるようになったんだ」
 俺は次に話すべき言葉を考える。そして言った。「当時のお前はなぜ、自分を正当化させる必要があったのだろう」しかし、すぐにそれが不適切な問いであったことに思い当たる。
「君と同じく、親を失っていたからだろう」彼は言った。「もちろん、それは言い訳にならない。君は同じような境遇でも他者への思いやりを持っていたからだ。僕にはそれがなかった。僕は面白くて成績優秀なエリートであることを、価値のある存在であることを周囲に証明し続けることに心血を注いでいたんだ。それも特に母親に対して。僕のことを愛してくれる母を失望させることが怖かった。何をしても母は僕のことを褒めてくれたんだ。だから、僕は見せかけの優秀さを身につけた。でも中身はゴミだった。誰かを見下すことによって自分を立てる、それは学業でもユーモアにおいてもだ。そして、いつも怯えていた。いつか僕は見捨てられるのだと。やがて高校に入学することで、それは現実になったんだ。僕は君という友人を除いて一人ぼっちになった。僕は自分がクズだなんて思っていなかったし、利発で雄弁な人間だと過信していた。でも、そうではなかった。僕が何かを話しても彼らは笑わないし、彼らが僕を標的に人格的な攻撃をすると笑いが起こる。恐らく当時の僕のスカした態度が滑稽だったからだろうな。そこで僕は辛くても笑ったんだ。その方が彼らの笑いが大きくなるから。僕は進学校に入学したことによって、学業面でのアドバンテージも失った。僕とは違い、君は自分の至らなさを謙虚に受け止めて努力できたから、高校でも優秀な成績だったのだろう。でも、僕は自分の成績不振を環境のせいにした。この僕がわからないなんて、わからない授業をする先生が悪いだなんてね。そういうわけでどんどん僕は落ちぶれた」
 そこで俺が口を挟む。このままでは彼の悲観的な語りが止まらないと感じたのだ。「それでも、今のお前がいる。そうだろう。お前がそんな自分を乗り越えたから、今の成功がある。そうじゃないのか」
「乗り越えてはいない」彼は諦めたような力のない微笑みを浮かべる。「そうではなくてただ受け入れたんだ。自分の愚かさや醜さを乗り越えることなんてできないんだ。変えることもできない。僕が過去に誰かを傷つけた事実も消えない。でも、そんな自分を受け入れることはできる。それは許すこととは違う。卑しい自分だからこそ、せめて僕と関わる何かに対しては優しくありたいと願うということなんだ。優しくあろうとしても、いつかは必ず誰かを傷つけてしまう。けれども、それから目を逸らさないで、今後の自分がどうあるべきかその度に考え直す。そうやって、僕は本当の意味での成長ができると今は信じている」
 これが彼の成功の大きな要因だったのだと俺は深く納得する。そして言った。「お前は自分を受け入れることによって、同時に他者をも受け入れたのだろう」
「そうだと思う」彼は肯く。「僕は自分を受け入れるのと同時に、自分の抱える痛みや苦しみを誤魔化すのをやめたんだ。誤魔化すというのはつまり歪んだ形で自分を正当化するということだ。これは自分の感性を麻痺させることができる。でも、それは一時的なもので後に襲ってくるのは深い無力感と虚しさだけだ。ならばその痛みや苦しみもやはり受け入れるしかない。そして、それによって同じ痛みと同じ苦しみを持つかもしれない他者に対して愛を持つことができるようになった。他者の痛みを想像しようと努力することによって、他者を受け入れられるようになったんだ」
 彼はそのようにして、今の成功を導く人格を手にした。そして、俺は聞いてみた。何がお前をそこまで変化させたのだろうと。
 彼は言った。「それは二人の存在が大きい。血のつながりがなくとも自分を大切にしてくれる誰かがいるということ。そうだよ、人は一人きりで変化できるほどタフじゃないんだ。だから、君という大切な友人がいつもそばにいてくれたことは僕の心を強く支えてくれた。僕がどれほど孤独を感じていても、君がいる限り僕は孤独ではなかった。そして、君の支えと共に僕を救い出してくれた彼女。彼女との出会いは、高校時代における僕が手にした最大にして唯一の幸運だった。僕がインフルエンサーになるきっかけを与えてくれたのも彼女だったんだ」


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