好評開催中の傅益瑶『小林一茶俳句情景画展』@創英ギャラリー(東京・銀座)4月7日(金)~4月15日(土)
取材・文:東晋平
写真:Yoko Mizushima
一木一草や石にも生命の躍動を見る
銀座の創英ギャラリーで開催中の「傅益瑶『小林一茶俳句情景画展』」は、タイトルの通りすべて小林一茶の俳句をテーマにした作品で構成されている。
水墨画家・傅益瑶は、1979年に来日して日本語の読み書きに慣れてきた頃から短歌や俳句に関心を寄せてきた。とりわけ惹かれたのが松尾芭蕉であり一茶だった。
「芭蕉の句はどちらかと言うと気宇壮大なスケールがあります。一茶は身近で小さな景色を詠っているものが多いように見えます。ところが絵に描いてみようとすると、一茶の句は大きな画面になっていくのです」
益瑶は、自分の琴線に響いた俳句については、できるだけ実際にその場面となっている土地に足を運び、一茶の眼に映ったものを自身もまた追体験してきた。江戸時代の社会制度や生活史についても詳細に検証し、豊かな知識を画面に反映させている。
たとえば女性を描く際も、家格のある武家の女性であれば屋敷の奥に佇ませ、江戸の猥雑な外れに暮らす女性は通りに面した窓辺に描く。俳句に詠まれた人物の階層や立場をよく把握して、衣装や髪形、住まいの建具の細部まで、丹念に描き込んでいることに驚かされる。
文化元年(1804年)、一茶が身内との確執を抱え、さらに支援者を喪って本所相生町の借家に引っ越しを余儀なくされた直後の句〈見なじまぬ竹の夕やはつ時雨〉――。益瑶は苦境にある一茶の胸中に思いを馳せ、覚悟の滲んだ表情で端座させる。画面全体を斜めに打ちつける冷たい時雨。
じつは水墨画にあって雨や雪を描くことは高度な技量を必要とする。雪でも粉雪と牡丹雪では景色が異なるし、雨にもさまざまな表情がある。益瑶はそれを描く技法を、父であり中国近代画壇の巨匠・傅抱石から学んだ。水墨画の世界には、やはり師弟のあいだで内々に伝授される類のものがあるのだと益瑶は語る。
個展のイメージ図案にも使われた〈雪とけて村いっぱいの子ども哉〉は、文化11年(1814年)に一茶の故郷である信州の春を詠んだ句。雪に閉じ込められていた村に、春の訪れとともに子どもたちのにぎやかな声が溢れる。リズミカルな句に込められた一茶の情感を、益瑶は大きな画面いっぱいに遊ぶ幼子たちの姿に描いた。
よく見るとケンカをする子や、雛人形遊びをする一団など、村のなかでも微妙に異なる子どもたちそれぞれのバックボーンを、益瑶は慈愛のこもったまなざしで丁寧に描き分けている。
今回の個展のために描き上げた新作〈桜さくらと唄われし老木哉〉――。これは長唄「娘道成寺」で「さくらさくら」と唄われるほど華やぎの象徴だった桜が、今や老木となっているさまを詠んだ句だ。
しかし益瑶は、古来中国では「老木」にポジティブな意味が込められていることを踏まえ、あえて満開の花が咲き誇る桜を描いた。本来の桜はもっと淡い色であることを承知のうえで、「でも実際に山々のなかで桜の花の色が映えて、濃いピンクのように見えることがあるんです」と、ここもあえて濃い色調で描いたという。
よく見ると木の根元には何かを祀っているのか小さな祠がある。
「中国ではこういうことはありません。木は木であって、木と神様を同一視する思想はないので。だから、これが日本の景色なのです」
「一木一草にも石にさえも等しく生命の躍動を見ていくのが日本であり、それは仏教とりわけ法華経の思想だと思っています」
父上の画業を継ぎなさい
傅益瑶(1947-)は、傅抱石(1904-1965)の三女として南京市で生まれた。父・抱石は1932年に来日し、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)で東洋美術学者の金原省吾に師事。帰国後は国立中央大学芸術学科教授、美術家協会副主席、江蘇省国画院長などを歴任した。伝統的な中国水墨画に日本の視覚的要素を取り入れた彼の作品は内外で高く評価され、米・メトロポリタン美術館にも多数収蔵されている。
女優になることに憧れていた少女時代の益瑶に〝父上の画業を継ぎなさい〟と言葉をかけたのは、抱石の知己でもある周恩来総理だった。
文化大革命の暴風雨を耐え抜き、1978年に日中平和友好条約が締結されると、益瑶は翌79年11月、鄧小平の判断で中国教育部からの国費留学第1期生として来日し、創価大学で日本語を学んだ。
1980年8月には静岡にあった富士美術館で最初の個展を開催。この折、富士山を描くことに挑んだが、中国の山とまったく異なる風景を前にして従来の自身の技法では歯が立たなかったと述懐している。この経験が画家としての新たな試行錯誤と挑戦の原点になった。
1981年から武蔵野美術大学大学院修士課程で塩出英雄から日本画を、83年には東京藝術大学の平山郁夫研究室に入り敦煌壁画の研究と並行して日本画を学ぶ。この間、奥村土牛、東山魁夷、加山又造ら日本画壇の巨星たちとも親しく交流している。
平山郁夫のフィールド調査に随行して敦煌莫高窟を訪れたことは、中国芸術の本質が〝線の美しさ〟にあると実感する契機をもたらした。
恩師の平山は「仏教伝来」を画業のライフワークとしていた。傅益瑶もまた仏教芸術への探求を深め、障壁画や襖絵の制作に励んだ。代表作に京都・三千院の襖絵〈三千院の四季〉、比叡山延暦寺国宝殿の障壁画〈仏教東漸図〉(常設)、長野・常楽寺本堂襖絵〈別所古刹風光〉などがある。ほかにも多くの寺社に作品が奉納されている。
さらに日本各地に伝わる「祭り」にも関心を寄せ、自ら足を運んで丹念に取材して、可能な場合は踊りの輪に身を投じて体験し、人々の歓呼と熱気を描いてきた。この「日本の祭り」シリーズの制作は傅益瑶が開拓したオリジナリティ溢れる画業ジャンルであり、既に100作を数えている。
これまでにニューヨークの国連本部や北京国立美術館、東京芸術劇場などでの個展、読売新聞の連載小説「翔べ麒麟」(辻原登・作)の挿画、テレビ出演など、活躍の幅は多岐にわたる。とりわけ、NHK「日曜美術館」が2016年11月に放映した「祭りの水墨画 日本と中国を結ぶ 傅益瑤の挑戦」は、存命中の作家を取り上げる極めて稀な回となった。
長年の国際的な活動が称えられ、中国国務院からは「第5回中華之光賞」(2016年)が、日本では令和3年度「文化庁長官表彰」(2021年)が授与されている。
日本を通さなければ世界に伝わらない
傅益瑶を語るうえで、その魅力の第一は、彼女が両親から授けられた伝統的な〝文人教育〟の気風と教養だ。母は富裕な名家の出であったし、父・抱石からは絵を描く技術以前に詩や経書に触れ、歴史を身につけることの大切さを常に教えられた。
こうした古きよき文人の気風を今に伝える家柄は中国にもそれほど多くない。近代中国最高峰の文人画家として衆目一致した傅抱石のもと、周恩来や郭沫若ら父を囲む一級の知性と人格に触れて傅益瑶は育った。
第二は、言うまでもなく日中の最高峰の巨匠たちから薫陶を受けた筆力である。父からは中国の伝統的な水墨画の理念や技法を習い、平山郁夫ら20世紀後半を代表する日本画家たちの薫陶を受けた。
〝中国画の持つ本質的な価値は、日本を通さなければ世界に伝わらない〟というのが父・抱石の口癖だったという。父と同じように益瑶も日本に渡り、伝統的な中国の水墨画の土台のうえに日本の美意識や画法を採り入れる独自の挑戦を重ねてきた。
魅力の第三は、瑞々しい精神に支えられた飽くなき好奇心だろう。益瑶は「私は人とつき合う時も、相手の性別や年齢、国籍には一切とらわれません」と語るが、自分自身に対してもそうしたバイアスをかける気配がない。
アトリエで創作する時は文字どおり寝食も忘れるほど没頭し、外へ出る時はエレガントなモードに身を包みヒールを履いて、「全部、耳で覚えたのよ」と笑う流暢な日本語でお喋りに夢中になる。セレモニーへの出席や美術関係者との打ち合わせに、席の温まる暇もないほど国内外を旅する。
今年は小林一茶の生誕から260年。日本人の耳に馴染んできた一茶の句が、中国文人の雅趣溢れる絵筆を通して新たな奥行きを見せてくれる。
*