インタビュー「タイの若者のカルチャーと政治意識」福冨渉
聞き手:東晋平
『ドクター・クライマックス』が描く時代
―― 6月からNetflixで配信が始まった『ドクター・クライマックス』(2024年)は、保守的な空気の強かった1970年代~80年代のタイが舞台です。生真面目な皮膚科医の主人公が、ひょんなことから素性を隠したまま性に関する読者の相談に答えるコラムを担当し、これがさまざまな波紋を広げていきます。このところ、BLやGLも含めてタイ発の作品が世界的にも注目されていますね。
福冨 日本でも同じだと思いますが、タイもコロナ禍で〝おうち時間〟が長くなり、動画配信サービスの需要が一気に高まりました。作家のプラープダー・ユンが製作総指揮した『バンコク・ブレイキング』(2021年)や『転校生ナノ』のシーズン2(2021年)といったNetflixオリジナルから流れができた感じですね。
―― 3月にNetflixで配信が始まった『ザ・ビリーバーズ』(2024年)も、スタートアップ事業に失敗して巨額の負債を抱えた若者3人組が、寂れた寺院を使って詐欺を企てる話です。タイでも公開直後からヒットしたそうですが、仏教界の腐敗を正面から扱うような作品が、タイでよく成立したなと驚きました。
福冨 Netflixという外資のプラットフォームだから、国内の検閲システムを通さずに放映されているという話です。
――『ドクター・クライマックス』が現代ではなく、あえて1970年代後半からの時代設定になった理由をどう考えますか。
福冨 70年代後半から80年代にかけてというのは、タイにおける〝厳しい政治の季節〟が一旦和らぐ時期なんですよね。1950年代以降は軍事政権が続いて、冷戦構造の中でアメリカの反共政策が東南アジアでも展開されます。
タイはアメリカ側について経済発展をしつつ、周囲に外敵を作ります。タイ国内では「開発独裁」と呼ばれるように、地方の農村部が共産主義の温床にならないように地方開発を進めつつ、思想弾圧を強めていきます。
それと同時にラーマ9世(1927-2016)の権威が育っていくのが、この軍事独裁の時代なんです。46年の即位当時は王室の影響力が落ちている時期だったのですが、1950年代以降、軍政首相たちと相互に利用し合いながら、自らの権威を高めていきます。
タイのオフィシャルな歴史では1973年にラーマ9世による助けを経て、学生主導の民主化がなされたということになるんですが、その後、学生運動や労働運動が過激化していって、76年に弾圧されます。
―― 76年10月6日のタマサート大学での虐殺事件ですね。
福冨 そうです。これを契機にタイ国内での共産主義運動とか左派運動が消滅していきます。バンコクにいた活動家たちが東北のジャングルに逃げたりして。ある意味でラーマ9世の王権が確立する時期です。それに合わせて政治的不安定さも表面的にはなくなり、タイが次の時代に入っていくというのが80年代からです。
2020年からの民主化運動で問題になっている「王室不敬罪」というのも、今のように厳罰化されたのは76年の事件の後なんですよ。ラーマ9世を頂点とした構造が確立して、国王の庇護下においては自由な生活を享受してもいいよ、という雰囲気が出てきたのが70年代後半なんです。これは別に性の話だけではなく文学やアート、映画なんかも同じです。ある意味、いろんな文化が花開く時代でもあったし、それと同時に政治的な抑圧のもとにもたらされた安定が広まった時代ともいえるでしょう。
そういう二面性があった時代で、それをどこまで『ドクター・クライマックス』の脚本と監督を務めたコンデート・ジャトゥランラッサミーとパイラット・クムワンが意識していたかはわかりませんが、すごく巧みな設定だなと思いました。とくにコンデートはあの時代に対するシンパシーはあるんだろうと思います。劇中でかかっている「ジ・インポッシブルズ」というバンドの楽曲なんかが好きみたいなので。
―― ネタバレにならない範囲でお話しいただきたいのですが、あえて70年代後半の時代設定をしたことで上手くやったなと思うところはありますか。
福冨 一つは主人公ナットの妻であるトゥクタの立ち位置ですね。自分の意志を持たずに親同士の決めた相手と結婚し、夫の子供を産むことが妻として一番いい役割だと信じている女性を現代のタイで探すのはなかなか難しいと思います。これは女性のセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康と権利/SRHR)の観点から見ると非常に興味深い流れで、最終的に自分の身体や妊娠の決定権を自分で持つというところになる。これは、あの時代に設定しているからこそ、すごく批評的な意味を持つと思います。
もう一人の女性リンダはタイ南部の華人系の婚外子という設定だと思うんですが、彼女が避妊リングをつけているというエピソードがある。1950年代から70年代にかけてのタイの家族計画の政策にはアメリカが深く関与していて、とくに経済的に困窮している地方の出生数を、リングなどの医療技術を利用して積極的に下げようとしたことが指摘されています。その意味では、リンダはアメリカの東南アジア支配、あるいはそのもとで生きる女性の象徴でもあるんです。
避妊リングのシーンは、あたかも自分の性の決定権を持っている、あるいは性に放埓な、80年代以降の新しい・強い女性を描くかのように作られているんですが、実際に象徴されているものはむしろその反対と言っていい。特にコンデートは、そうやって日常を描く中にえぐるような批評性を入れてくるのが上手な作家なんです。
主人公のナットは、あの時代では一見とてもリベラルな考えを持つ、きちんと教育を受けた上流階級の男性として描かれるわけですが、彼が見せる有害なマスキュリニティ(男性性)によって、周囲の女性たちや同性愛者といった弱者の存在が際立ってくるというのも非常に巧みですね。
―― それにしても、この作品が現代のタイの若い人たちからも支持されたのはなぜでしょう。
福冨 同性婚法案の可決の流れとあわせて、先ほど言ったようなSRHRについての議論というのが比較的盛り上がっているということもあるかなと思います。ラブシーンのとても多い本作では、インティマシー・コーディネーターの起用についても注目されていました。
あとここ数年、タイのSNSで見られるスラングに「真の男 ชายแท้」というのがあります。リベラルぶっているにもかかわらず、無自覚な男性性によって女性やマイノリティを抑圧するヤツという意味です。ネットでの炎上の中で使われることが多く、それぞれの事象についての判断は措きますが、ナットなんかはまさに「真の男」のふるまいを無意識的に体現しているんですよね。とにかく全体として性に関する意識が高まっている部分はあるのかもしれません。そうした文脈の中でこの作品が評価されているところもあるかと思います。
もう一つはシンプルに演技のよさが話題になっていたというのがあります。とくに主人公のナットの周囲のキャスティングですね。トゥクタとリンダ、それからエピソード6で登場するゲイ男性セーンチャン役のアワット・ラタナピンターとか。
―― アワットは主演したNetflixの『ドイ・ボーイ 路地裏の僕ら』(2023年)でも非常に優れた演技をしていましたね。
タイにおけるセクシュアリティと政治
―― それにしても、タイ社会で性や宗教のタブーに切り込んでいくようなことや同性婚の容認は、若者やリベラル派が望むことであって、いわゆる保守派にとっては好ましくないことではなかったのですか。ラーマ9世が崩御して王室の権威が揺らいでいる時期に、こうした保守派には不都合に思われる現象が起きていることが不思議に見えます。
福冨 ある意味で〝ラーマ9世的なもの〟が終わろうとしている、その最後のせめぎ合いのような側面もある気がしますね。ただ、同性婚などは保守派の人でも妥協しやすいものだと思うんです。つまり、もっと大きな王室の問題なんかに触れないままリベラルなスタンスを取れるので、相対的には結構扱いやすいんですよ。
―― 日本だと天皇制という「家父長的社会」を揺るがしかねないという部分で、保守の人たちは同性婚や性的マイノリティ容認を拒み続けているように見えます。王室を持つタイではそういった面はないのですか。
福冨 そこは難しいところで、日本の場合は男性中心の父権性社会が崩壊するという恐怖感と同時に、保守派が反対するもう一つのロジックとして「家の維持」があるじゃないですか。タイの場合は、よほどの上流階級は別として、血族としての「家」の維持にこだわるという感覚が総じて弱いんじゃないかなと思います。
―― タイは母系社会だとも言われていますね。
福冨 もともと地方の共同体では男性が女性の家に入る婿入り婚の風習がある地域もありましたし、一般企業でも女性の中間管理職が多かったりします。そのあたりは日本と違うと思います。
片や政治的な流れで見ていくと、タイでは国民統合の過程で男性と女性のジェンダー役割の分担をハッキリさせてきたという歴史は強いんですよ。男は男らしく、こういう服装をして、こういうふうに働いて、女性は女性らしい所作があってということが20世紀を通じて確立されてきた面はあります。
西洋社会のジェンダー規範に沿うような流れはオフィシャルな構造としては進んできたんだけれども、実際に文化的な部分では昔からある〝女性も共同体の中心にいた〟という感覚も同時に残っていた。そのあたりがミックスしないままきてる、みたいなこともあるんじゃないかなと思います。
―― なるほど。
福冨 性的マイノリティに関して言うと、20世紀のタイは男女のジェンダー化を強く進めた一方で、個人のセクシュアリティにはあまり政治として踏み込んでこなかったとされています。王室における同性愛者の存在にもかかわってしまうという側面もあったのかもしれません。
―― 王室にもそのような〝公然の秘密〟があったのですか。
福冨 そうしたことを示唆する研究書などの登場から、近年ではかなり確度の高い話として言われています。
もちろん、『ドクター・クライマックス』でも描かれていたように、ゲイ男性がエイズを持ち込んでくるというような偏見や差別はありました。ただ、それこそ「カトゥーイ」と呼ばれるトランスジェンダーの人々が社会の中で可視化されているように、自分がどういうセクシュアリティかを表現して生きることは一応暗黙的に認められている。
そうした感覚がおそらく同性婚法案可決までつながっていくわけですが、政治的混乱が続いたという面があったとはいえ、これだけ寛容を謳っていた国としては、むしろ時間がずいぶんかかったな、という気がします。
とはいえ、当然ながらタイの国会にはムスリムの議員もいます。法案には反対の意志を示していた議員も多く、そうした人達との調整や交渉にも時間が必要だったのだとは思います。
―― 寛容な社会に舵を切ることが国家としてもメリットがあるという政治的判断もあるんでしょうか。
福冨 国際社会の目というのはかなり意識していると思いますね。今のセーター政権になってソフトパワー戦略に力を入れる中で、ドラマや映画の海外輸出もすごく進めています。BLドラマやGLドラマを対外的に輸出しようとしている状況で同性婚法案を否決するのは、スタンスとしてはおかしいですから。
あと、芸術や文化の面では台湾との交流がとても盛んで、台北のブックフェスタにタイの出版社・作家チームが出展したりしています。つまり、アジアの中でも文化的にリベラルな地域との交流があるので、その点でも対外的な目線というのは絶対にありますよね。
若い女性作家たちの台頭
―― 2020年からは、およそ半世紀ぶりに大学生などを中心とした民主化運動が起き、一部では王室批判も公然と出ました。経済発展が著しいタイで、若者たちの意識はどのように変わってきているんでしょうか。
福冨 今の大学生から30代くらいまでの世代って、2000年代の国内分断の時に子供だった人たちなんです。たとえば2010年にはタックシン派の赤服のデモ隊がバンコクの中心地で大量に殺害された事件がありましたよね。あのあと、黄色い服を着て国王の写真を持った一般市民による「赤服のせいで街が汚れたから、みんなで街を掃除するぞ」というイベントがあったんです。そういうものに親に連れられて参加した経験について、あれは何だったんだろうと、ずっと疑問を抱き続けてきたような子たちがいたりもする。
そういう中にはアーティストや作家などになっている人もいる。当時は親に言われるがまま、国王のためにタイ人として生きるのは当たり前だと思っていたんだけど、あの時に殺された人たちがいて、なぜ自分たちがその場所を掃除してたのかという疑問を持っていて、それを作品に反映させている人もいます。
もちろん2020年に民主化運動が始まった直接のきっかけは、当時の民主派の「新未来党」が解党させられたことと、コロナ対策への不満、新国王のさまざまな問題行動――の3つが重なったことです。しかし、その空気自体は以前からずっと醸成されていたんだと思います。
僕が最後にタイで長く住んでいたのは2014年ですが、この年も軍事クーデターがありました。あの時期くらいから、「黄色」と「赤」のどちらでもない――当時は「白服」と呼んでいましたが、この呼称は定着しませんでした――つまりタックシン派でも王室派でもない「民主派」として、公正な選挙を実施して民主的な社会を作っていこうという動きが同時並行であったんですよ。たくさんの血が流れたからこそ、そういった反省や問いかけが若い人たちの間で生まれていったんです。
―― いわゆる「白服」の中心にいたのはどういう人たちですか。
福冨 大学生の他に、アーティストとか作家、演劇人などが多かったですね。大学生だった人の中には今は国会議員になっている人もいます。2000年代のタックシン派と反タックシン派、赤と黄色の対立の中で、是非はともかくとしてアーティストたちも自分たちの政治的立ち位置を鮮明にしなければならないような状況も生まれていました。その中で「反王室派」と見なされるような人たちの一部が、自分たちはタックシン派でもないという独自の立ち位置を作ってきました。
タックシンは2001年の総選挙で絶大な人気を得て首相となり、2005年の総選挙で、彼の率いる政党の得票率は75%に達します。その時点で、ラーマ9世の影響力が相対的に弱まってきているからタックシンが出てきているわけです。もちろん、バンコクだけを見ているとラーマ9世の力がまだまだ強いように見えていたと思いますが。
一方で、直近の2020年からの民主化運動は2021年くらいがピークで、大学生が王室批判のパフォーマンスをして逮捕されるというような事態にも至りました。ただ、その後、こうした若者たちが若干、保守化しているという話も聞いています。
これは軍や警察の戦略勝ちの部分でもあるんですが、たとえば王室批判で逮捕されたときの保釈金が10万バーツとかの高額だったりする。ざっくり大卒初任給の5倍くらいの金額で、ネットで保釈金の寄付を募る。そうやって保釈された学生なんかが、またパフォーマンスをやって逮捕される。そのサイクルが続くとみんな疲弊していく。こういうことを見た人の中には、「余計なことしないで静かに生きていればいいんじゃない?」という感覚で離れていく人が増えるという。ノンポリ化というか、諦念というか、ラーマ10世が好きかどうかということとはまた別の話で。
―― タイ文学では何か変化が起きているように感じますか。
福冨 文学というのはメディアとしては速度が遅いものです。だから、時代の変化に即対応するものはあまり出ないんですけど、タイの場合ちょっと独特で、文学は検閲がされにくいメディアなんです。かなり政治的なテーマを扱っていても、それが問題になることはあまりない。その意味では、2010年代以降、文学でも政治的なテーマを扱うものがぐっと増えました。
20世紀の政治的文学というとイデオロギー的なものや、下層階級の人が下克上するというような、割と単純化した構造の中に人を入れ込んでいく作品が多かったんです。今はそうではなく、作家個人の事柄や地方での出来事に大きな政治の流れを絡めたような作品が増えている感じがします。
個人的に注目しているのは、若い人たちを中心にしたフェミニズム文学の流れです。ポリティカルというよりは個人の日記の断片のようなものです。恋愛の話を書いているようで、女性たちの自己決定の話とか、自分の性の話とかを通して、女性たちが自分の存在や性をどのように認めていくかというような流れです。タイではこれまで男性作家が圧倒的に多かったんですが、ここにきて若い女性作家のボリュームが一気に出てきて、そこは現象として面白いですね。
―― 若い女性の文章では、福冨さんが翻訳されたナッタニチャー・レッククラーの「わたしたちの愛が、家父長制を元首とする異性愛規範に飼い慣らされるのではなく、革命の如きものになりますように――同性婚法案制定直前のタイから」(『エトセトラ』Vol.11所収)も大変に興味深いものでした。きょうは、どうもありがとうございました。
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写真:Yoko Mizushima