法華経の風景 #11「本阿弥光悦ゆかりの地」 宍戸清孝・菅井理恵
ヘッダー画像:光悦寺/光悦垣
雪を払いながら茶屋に入ると、女将さんが柔らかな京言葉で迎えてくれた。あいにくの天気で客は私たちしかいない。辛味大根のおろしそばを頼むと、曲線が美しい光悦垣に目が留まった。
書や漆工芸など様々な分野で革新的な作品を生み出し、琳派の祖と称される本阿弥光悦。光悦が好み、その名が付いた透かし垣は、割り竹を菱形に組み、頂部に竹の束をのせている。緩やかな曲線を描く頂部は、細く割った竹を節まで緻密に合わせていて一本の太い竹のよう。その様は、コラボレーションを得意とした光悦の姿に重なるような気がした。
室町時代、再び政治の中心となった京都では、商工業が急速に発展し、有力な商工業者である「町衆」が力を付けていた。同業者ごとに「座」をつくり、公家や武士からの保護を受けて事業を独占。なかでも、日蓮法華宗を信仰する「法華町衆」の結束は強く、近親者や同じ信仰を持つ町衆同士で婚姻を重ねることで、強固で広範なネットワークを築いていた。しかし、1536年、宗教間の対立が激化し、市内の法華寺院21ヵ寺が焼かれてしまう。寺の再興は禁止され、それがようやく許されたのは6年後のことだった。
1558年、光悦はまだその記憶が残る京都に生まれた。苦難の果てに、法華寺院と法華町衆の結びつきは、より強くなっていた。
光悦の京屋敷跡は、今も「本阿弥辻子」と呼ばれる場所にある。本阿弥家は刀剣の「研磨(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・鑑定(めきき)」を家職とする名家。日本刀には刀身だけではなく鞘や鍔などに木工や金工、蒔絵など様々な工芸技術が使われている。光悦は幼い頃から家業を通じて、工芸に対する幅広い知見や美的センスを磨いていたのだろう。
室町末期、このあたりには法華寺院が多く、その周囲で多くの法華町衆が暮らしていた。京屋敷跡の北には、本阿弥家の菩提寺である本法寺がある。光悦は父親とともに熱心に寺を支え、自ら揮毫した扁額や自作の経箱に入れた法華経の写経などを寄進していた。
光悦が作庭した「巴の庭」を拝観しようと、本法寺の受付を訪ねる。対応してくれた年配の女性は秋田の生まれで、東北から来たことを伝えると、秋田弁を披露してくれた。その温かな心遣いに、信心深い光悦の母・妙秀を思い浮かべる。
元来、そのままでは仏になれないと蔑視されていた女性に対し、法華経は女性も男性と同じように成仏できると説く。その法華経を唯一の経典と位置付ける日蓮法華宗を象徴するように、本阿弥家に伝わる一族の記録『本阿弥行状記』は信心深い女性である妙秀の逸話で幕を開ける。夫を守ろうと織田信長に直訴する豪胆さと泥棒にも情けをかける慈悲深さ。妙秀は「幼いものをこそ、心がちぢこまっていじけないように、のびのびと奮い立つように」光悦を育てた。
「巴の庭」は、半円を2つ組み合わせた石が「日」、十角形の蓮池が「蓮」で「日蓮」を表す。16歳で室町幕府滅亡、25歳で本能寺の変、46歳で江戸幕府開府。歴史と照らし合わせれば、光悦の半生は激動のなかにあるけれど、「巴の庭」はどこか肩の力が抜けた遊び心を感じさせた。
本法寺の門を出ると、すぐに千利休の伝統を継ぐ裏千家今日庵や表千家不審庵の門が見えてくる。その千利休のもとで樂焼を創設し、日蓮法華宗を信仰していた樂家も徒歩10分圏内。光悦は樂家の二代・常慶や三代・道入に宛てて土や釉薬を所望する手紙を書いている。
「(よい物は)昔(の物)ばかりで、これから後には(よい物は)出来ないということは間違いなく不自由の論であって、今(から)千年後にも刃物をはじめ何に限らず(そのように)不自由であってはいけない」(『本阿弥行状記・第48段』)
光悦は媚びへつらうことが大嫌い。「やれ落すな、やれ失くすな」などと心配するのが面倒で、人が欲しがるような「良い道具」は処分し、「自由」に茶の湯そのものを楽しんでいたらしい。
58歳の時、光悦は徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や同じ信仰を持つ職人たちを連れて移り住んだ。京都盆地の北の端にある鷹峯は標高が高く、タクシーを降りると、気温が一段と低くなったことに気付く。
昼が近づいても、庭先の鉢に貯まった水は凍り付いたまま。光悦寺を訪れる頃には、本格的な雪になった。それでも、光悦垣に誘われるように歩いていくと、明治時代、光悦の作品を熱心に蒐集したアメリカ人コレクター、チャールズ・ラング・フリーアの顕彰碑が雪に濡れ、緑のなかに潜んでいた。
「広大な野山を拝領申し上げ、何ら思い悩むこともなく明かし暮らすことの分に過ぎたありがたさ、(それは私一人の)今生一世の事(因果)では決してあり得ないだろうと思ったが、若かった頃にいつも妙秀が語っていたことをふと思い出して、なるほどこれは疑いなく我が親の善心の報いなのであろうと(光悦は)肝に銘じたことであった」(『本阿弥行状記・第52段』)
光悦寺の境内からは、丸みを帯びた鷹峯三山と遠く京都の市街地が見渡せる。激しい雪が舞えば光と影の世界になり、雪雲が切れて光が差せばミニチュアの街が現れる。自然は自由に姿を変えて、飽きることがなかった。
鷹峯には、光悦が土地を寄進し、光悦の子である光瑳が発願した常照寺がある。ここは「寛永三名妓」と謳われた二代目・吉野太夫が帰依し、山門を寄進したことでも知られる。諸芸に秀でた太夫に恋をし、駆け落ち同然で妻に迎えたのは、光悦の甥の子である灰屋紹益だった。後に光悦の仲裁によって勘当を許された紹益は、光悦について「世の中のわざとては、一こともしらず、心にもなし、我はさこそすべけれど、こしらへたるにはさらになくて、生まれ得たる心のいさぎよきにてぞ有ける」(『にぎわひ草』)と語っている。
1637年、光悦は80歳で亡くなった。その実像は謎に包まれているが、今、光悦に倣うように、様々な分野の人たちが結集し、多角的な視点から研究が進められようとしている。
降りやまない雪が朱色の「吉野門」を白く染めていた。
〈次回は3月25日(月)公開予定〉
【参考文献】
『本阿弥行状記』(平凡社)
『日本随筆全集 第十八巻』(国民図書株式会社)
『本阿弥光悦の大宇宙』(東京国立博物館)
『芸術新潮』2024年1月号