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法華経の風景 #1 「観世音寺」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー写真:観世音寺・参道

 写真家・宍戸清孝ししどきよたかとライター・菅井理恵すがいりえが日本各地の法華経ほけきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第1回は福岡県太宰府だざいふ市の観世音寺がんぜおんじを訪れた。
※ 企画の詳しい趣旨は、予告記事の後半部分をご覧ください。


 うっすらと青みを帯びた空を眺め、頬に触れる空気の冷たさに朝を感じる。
 境内は静かな余韻に包まれていた。福岡県太宰府市にある観世音寺。約1350年前、母である斉明さいめい天皇の冥福を祈り、中大兄皇子なかのおおえのおうじ(後の天智てんじ天皇)が発願ほつがんした寺である。子が母をおもう場であることを感じながら、当時の倭国わこく(日本)に思いを馳せる。
 7世紀、日本は国の未来を左右する嵐のなかにいた。朝鮮半島で高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎが争うなか、斉明天皇は友好国である百済救済を決断したが、661年、筑紫つくし(福岡県)で急逝してしまう。そして、663年、倭国は白村江はくすきのえで唐と新羅の連合軍に大敗。約1万人もの死者を出し、百済は滅亡した。

大宰府政庁跡

 それは、「国家存亡の危機」だった。
 唐の侵攻に備え、倭国は矢継ぎ早に防衛体制を整えていく。もともと博多湾岸の那珂川なかがわ河口部にあった大宰府だざいふを現在の位置に遷移し、周囲の山や丘陵に防衛拠点を築く一方、外交努力によって戦いを避けられるよう、使節の往来も活発に行われていた。
 東アジアに接する大宰府は、防衛拠点でありながら、世界に開かれた玄関口でもある。その中心は、大宰府の長官である大宰師だざいのそつが政治や儀礼を行う「大宰府政庁」。当時の東アジアの都のように、正門である南門からまっすぐに伸びる朱雀大路すざくおおじ(南北大路)沿いには、使節を迎えるための客館きゃっかんが設けられていた。
 現在は平面復元され、史跡公園として開放されている大宰府政庁跡で、正殿跡に立つ。園内の桜は満開で、昼間は花見を楽しむ家族や半袖姿でサッカーを楽しむ子どもたちで賑わう。正殿跡は小高い丘になっていて、南を向くと正面にまっすぐ伸びる道路が見えた。それが、かつての朱雀大路と重なり、その先に広がる古代の街並みが思い浮かぶようだった。

観世音寺・講堂

 山の稜線りょうせんから光がこぼれ、境内けいだいに長い影が落ちる。同時に、木々の隙間から差し込む光が、地面を這い、こけを色づかせ、講堂(本堂)の白壁に人智の及ばない文様もんようを描き出す。
 観世音寺の名は、法華経の「観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぼん第二十五」に由来する。観世音菩薩は、その名を称えるだけで、人々を一切の苦悩から救済する力を持つとされる存在。その源流はイラン起源ともヒンズー教とも言われるが、いずれにしても法華経はインドで行われていた観世音菩薩に対する信仰を自身の体系に取り入れ、融合させた。
 使節団「遣唐使」は、630年から200年の間、15回ほど唐に渡っている。一行は都を出て大宰府に立ち寄り、準備を整えたあと、今の博多湾などから出発した。海のみちを通り、唐に辿り着けば、その先には遠くヨーロッパに至るシルクロードが繋がっている。
 それは法華経が多様な信仰や文化を生かしながら成長を重ねた路でもあった。

観世音寺・鐘楼

 斉明天皇が亡くなって10年後、天智天皇が急死すると、671年、「壬申じんしんの乱」が起きる。国内外で緊張状態が続くなか、観世音寺の造営は遅れていたが、680年代には一応の完成をみたと推測されている。
 その根拠のひとつが、日本最古の鐘として知られる梵鐘ぼんしょうである。698年に鋳造された京都の妙心寺みょうしんじの鐘は兄弟鐘。その意匠から観世音寺の梵鐘のほうが古いと考えられている。寺で暮らす僧に時を知らせる梵鐘は、僧がいなければ、その役目を果たすことはない。
 古代インドで使われていた梵語ぼんご(サンスクリット語)で、法華経は「サッダルマ・ブンダリーカ・スートラ」という。経典が伝わるなかで様々な言語に訳されているが、日本で最もよく知られる漢訳が、鳩摩羅什くまらじゅうによる「妙法蓮華経みょうほうれんげきょう」である。泥の中でも、清らかな花を咲かせる蓮華は、妙法を信じ、実践する人に例えられてきた。
 観世音寺の梵鐘は、き座に蓮華文様が施され、上帯と下帯に描かれた「忍冬唐草文にんどうからくさもん」が遥かシルクロードを思い起こさせる。
 壬申の乱の後、701年に大宝律令たいほうりつりょうが制定されると、天皇を頂点とした法律による支配体制が整い、日本は律令国家としてのスタートを切ることになる。

観世音寺・五重塔心礎

 746年、観世音寺はようやく落慶らっけい供養を迎えた。西海道さいかいどう(九州)を代表する寺院で「大寺おおでら」と呼ばれたが、49の子院があったと伝えられる栄華の面影は、五重塔の心礎しんそ(中心柱の礎石)など、わずかに残る礎石から推し量るしかない。
 観世音寺から大宰府政庁までは、歩いて10分ほど。観世音菩薩は、災害や迫害などの苦難を免れ、乗り越える力など様々な現世利益げんせりやくをもたらす。国内外の緊張状態がやわらぐなか、観世音寺は国の安寧あんねいを願う「護国鎮守ごこくちんじゅ」の役割も担っていた。
 当時、僧と認められるためには、「戒律かいりつ(道徳規範や集団規則)」を受けなければならなかったが、日本には正式な戒律を授けるための場所(戒壇かいだん)がなかった。そこで、聖武しょうむ天皇に招請しょうせいされたのが唐僧・鑑真がんじんだった。761年、観世音寺に戒壇院が設けられると、東大寺とうだいじ(奈良県)、下野薬師寺しもつけやくしじ(栃木県)とともに「天下の三戒壇」となり、その地位は確かなものとなる。

戒壇院

 朝陽がのぼった観世音寺に、ぽつりぽつりと人が訪れる。愛犬を連れた夫婦や足もとに目を凝らしながら一歩ずつ足を運ぶ高齢の女性。皆、迷うことなく、講堂に向かい、手を合わせると、また、慣れた様子で寺を出ていく。
 平安末期以降、律令制が崩壊して権威が揺らぐ観世音寺を、度重なる火災や台風が襲う。衰退するなかで、寺を支えたのは、日々の安寧を観世音菩薩に願う民衆の祈りだった。


大宰府政庁跡


〈次回は5月22日(月)公開予定〉


【編集部注】
古代における行政府(およびそれがあった地名)としての「宰府」と、現在の地名としての「宰府」で表記を使い分けた。

【参考文献】
橋爪大三郎・植木雅俊『ほんとうの法華経』(筑摩書房/2015年)
石田琳彰『観世音寺の歴史と文化財』(観世音寺/2015年)
高倉洋彰『大宰府と観世音寺』(海鳥社/1996年)


宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。


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