コラム : 小川忠のインドネシア目線 バクティアル・ナシルに見るイスラム強硬派の典型
(記事は2018年8月の執筆時点の内容です)
前回はインドネシア・イスラムが非寛容な方向に傾斜していく流れに抗して活動しているイスラム女性指導者たちを紹介したが、今回は逆に強硬派の中心人物に焦点をあてたい。世界最多のイスラム人口を抱える多民族で無視できない存在が、ラーマン・クルアーン学習センター指導者のバクティアル・ナシル師=写真、ウィキペディア英語版より=である。
再選確実と見られていたアホック・ジャカルタ特別州知事を失脚させた、大規模な大衆デモの中心にいたのが、彼だ。数十万人におよぶイスラム・デモ隊がジャカルタ中心部で放出するエネルギーの凄まじさを誰も予期できず、政治家やメディアを震撼させた。
2016年11月4日のデモに数十万のイスラム教徒が参加し、一部が暴徒化して首都を混乱に陥れたのに続き、月2日のデモでは万人が集まったとされる。金曜日の集団礼拝を名目に集まったこの日の集会(後に「212運動」、もしくは「イスラム擁護運動」と呼ばれる)に、ジョコ大統領も姿を見せデモ参加者とともに雨の中、神への祈りを捧げた。翌年断食月の初日、大統領はバクティアル師らデモを主導してきたイスラム強硬派幹部を大統領宮殿に招待し、対話を呼びかけた。イスラム強硬派が持ち始めた政治力を、もはや大統領さえ無視できないことを示す光景であった。
サウジアラビア留学の影響
「212運動」以降、注目を集めるようになったバクティアル師について、ジャカルタの研究機関「紛争政治分析研究所」が、彼の来歴、思想、政治との関わり等について分析している。
これによれば、バクティアル師は1967年生まれ、ジャカルタ北部の港湾地区ルアルバタンで育った。父親は、スラウェシ島南部ボネ出身の漁師であった。両親は優秀な息子を、エリート・イスラム指導者を輩出する、名門イスラム寄宿舎プサントレン・ゴントールに送り出した。年に同校を卒業すると、両親とともにボネに渡り、クルアーン暗記と研究に取り組んだ。そこでの師匠は、1950年代にスラウェシにイスラム国家樹立を目指す分離独立運動に加わった元活動家という。勉学を終えて、年から年までイスラムの聖地、サウジアラビアのメディナ大学に留学し、イスラム法を学んでいる。
時あたかも第一次湾岸戦争の時期にあたる。米軍のイスラムの聖地進駐、これに頼るサウジアラビア政府の姿に、イスラム教徒の一部は憤激する。「イスラム覚醒」運動という抗議運動が、サウジアラビアの大学キャンパスに拡がっていった。欧米の政治的・軍事的・文化的侵略に抗し、イスラム初期の原点回帰をはかることで現状を改革して行こうとする、攘夷的なサラフィー主義の性格を帯びた「イスラム覚醒」運動は、サウジアラビアに留学していたバクティアル青年の心を捉え、彼の世界観形成に大きな影響を及ぼした。グローバリゼーションは神の存在を否定し、イスラムを弱体化させる世俗主義者の陰謀であり、これに抗してイスラム教徒は団結し、イスラム共同体建設のための社会・政治運動を興していくことが重要、と彼は確信するようになった。
現代中東世界から発信されるサラフィー主義というイスラム厳格化の思想潮流がインドネシア・イスラムを非寛容化させているという説を耳にするが、バクティアル師の留学体験に、その典型を見ることができる。
既存イスラム教育機関への批判
94年にサウジアラビア留学を終えて帰国したバクティアル師は、短期間ビジネスの世界に身を置いた後、イスラム教育者として活動するようになった、2001年にジャカルタで近隣の青年を集めてイスラムに関する学習会を組織し、09年にラーマン・クルアーン学習センター(AQL)を設立した。
イスラム教徒といえども、アラビア語で書かれた聖典クルアーンの章句を理解できるインドネシア人は少ない。「AQLでは、クルアーンが意味するところを理解しこの真理を日常生活の中に実践していくイスラム教徒の育成をめざしている」と、AQL設立の意図を説明している。
中東のサラフィー主義の影響を受けた彼は、インドネシアの既存イスラム教育機関のあり方に批判的だ。「現代インドネシアの日常生活は、クルアーンが許容することを許容せず、禁止することを許容している」として、その原因は、既存のイスラム専門家が正しくクルアーンを理解していないから、という。イスラム専門家、すなわち大学でイスラムを教える教育者たちは西洋近代科学に基づく専門用語や方法論を好み、クルアーンから逸脱した彼らの主観、思考に基づいて誤ったクルアーン解釈を広めているというのだ。
バクティアル師は、こうしたインドネシアイスラム教育の現状を憂い、これを変えるための社会運動を重視する姿勢を示していための社会運動を重視する姿勢を示している。ジャカルタのテベット地区にあるAQLで週に三度行われる彼の講義に集まる数百人の聴衆の大半は、都市部中間層の青年男女である。AQLには1500人の聴講生が在籍する他、附属のイスラム寄宿舎(プサントレンでは500人の10代の若者がバクティアル師の教えを学んでいる。さらに彼はソーシャル・メディアによる宣教に積極的に取り組み、フェイスブックに35万人、インスタグラムに57万人、ツィッターに14万人のフォロワーがいる。こうしたソーシャル・メディアの活用こそ、デジタル宣教師と呼ばれる新世代イスラム指導者の特徴の一つといえよう。
そもそもバクティアル師が社会的知名度を高めることになったきっかけは、既存メディアでの自らの露出に積極的に取り組んだことにある、テレビ局RCTIが断食月に放送する、子ども向けクルアーン暗記コンテストへの審査員出演等を通じて、彼の表情は視聴者になれ親しんだものになっていった。このクルアーン暗記コンテストは同局人気番組の一つで4000万人が視聴するという。
教育、メディアを通じて次第に社会的影響力を強めたバクティアル師が政治の世界で大きな役回りを演じたのが、2016年のジャカルタ知事追い落とし運動だった。
西洋近代を拒否しつつ、メディア活用に見られるように、西洋近代が産んだ科学技術を巧みにとり入れ自らの勢力拡大に利用していくという、原理主義の特質をバクティアル師も共有している。
イスラム非寛容派に潜む怨念
筆者は、バクティアル師がジャカルタの港湾地区ルアル・バタン育ち、という点が気になっている。1980年代のルアル・バタンは、この国の貧困を集約したかのようなスラム地域であった。93年に上梓した拙著『インドネシア多民族国家の模索』(岩波新書)において、ジャカルタ中の汚水が集まるルアル・バタンで水俣病に酷似した公害病が発生し、乱開発が進む劣悪な環境のなか、寄る辺なき民衆が政治から放置されている状況を報告した。都市のスラム化、人権抑圧、雇用不安、犯罪・暴力の横行など、当時のスハルト軍部強権体制が推進していた開発独裁政策の矛盾が全て露わになっている地域、それがルアル・バタンであった。
そうしたルアル・バタンで育ったバクティアル少年は、どのような想いで自分を取り巻く世界を見つめていたのだろう。
ルアル・バタンに立ち並んでいた貧困層の違法建築を強制的に撤去したのが、バクティアル師が追い落としたアホック・ジャカルタ州知事である。果断な決断と実行力を売り物とするアホック知事は、2016年4月11日に重機を持ちこんで住宅を次々と解体し、警官も動員して反対派の住民を抑えこんだ。
その翌月に現場を訪問したバクティアル師は、「自分もルアル・バタンの住民の一人。立ち退きを余儀なくされた人々の心の痛みを感じる。これは地獄の責めよりも残酷な行為だ」と憤慨した。
スハルト政権は、華人系財閥と組んで、ルアル・バタンに近接するプルイットに代表されるジャカルタ湾岸部の都市開発を進めた。その過程では、住民の立ち退きなど強権的手法が用いられた。華人系のアホック知事が警察力を動員してルアル・バタンの区画整理を進める姿に、バクティアル師はかつての世俗国家主義スハルト政権によるイスラム教徒貧困層への弾圧が二重写しになり、「許せない」とアホック打倒を誓ったのではないだろうか。
ルアル・バタン訪問の後、バクティアル師は「3世紀前からルアル・バタンにはモスクがあった。それはインドネシア国家、ジャカルタという都市が存在する前からの話だ」と語っている。
さらに17年に行われたメディアとのインタビューのなかでバクティアル師は、自身の運動は宗教活動であり、政治活動ではないと言明しつつも、「インドネシア国民の人口比5%に満たない華人系国民に富が偏在し、彼らがこの国の経済をコントロールしている」ことを問題視し、また「海外からの投資、特に中国からの投資はインドネシアの役にたっていない」と述べ、イスラム系国民への優遇策を主張している。
こうしたバクティアル・ナシルの言動から見えてくるのは何か。今日の非寛容なイスラム台頭の背景には、経済発展が進み膨大な中間層が形成される一方で、経済発展から取り残された人びととの格差が広がっている社会的不公正への怒りがある。
小川 忠
跡見学園女子大学教授
国際交流基金ジャカルタ日本文化センター元所長
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