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なぜ自己探求が社会生活よりも重要であるのか。あるいは、自己本性を直視する現実的な理由

 「自分らしさの追求」や「自己探求」そんな言葉を聞くと、つい眉を顰めたくなる人は多いだろう。特にそれが、社会生活や現実的な経済状況の問題よりも重要であると主張すれば、「そんな思い違いは若いうちだけにしておきなさい」「それではいつまでたっても大人になれない」「社会に出たことがないからそんなことが言えるのだ」などの真っ当な非難を浴びせることも可能かもしれない。しかし、私はあえて明言したい。「自己探求は社会生活よりも重要である」と。

 最近、私のTwitter(現・X)を見ている方であれば、「こいつはなにやら哲学的な思索に耽っているな」「現実から目を背けているな」と感じる方も多いと思う。「魂が喜ぶ生き方」だとか「自分らしさ」だとか、ついにスピリチュアリズムや自己啓発の類に進んだのかと疑いの目を向ける方もいるだろう。

 こうした思索は結局のところ、「社会生活に一度は失敗した私が、大学に戻り、その後卒業してどのような人生を歩むべきなのか」という進路選択の問題、いや「生き様の決定」の問題に根差している。

 私は、大学1年生~4年生の期間にかけて、(コロナ禍という特殊な状況もありつつ)学生の本分である勉学をそっちのけに、ビジネス的な自己実現を求め活動してきた。某フリースクールでのティーチングアシスタントのアルバイト、某アニメグッズ企画会社でのインターン、フリーライターとしての自活、一人暮らしは2年生の10月から、シェアハウスなどを得て今年の2月まで継続していた。そして、先述のnoteにもあるよう2022年7月には自身の会社を立ち上げ、何もできずに終了した。この4年間を通して、こう美化するものでもないが、さまざまな挑戦と失態を繰り返してきたと思う。その上で、私は結論付けた。「社会生活に失敗した」と。

 理由はいろいろある。幼少期から無自覚的に抱えていたADHD特性の件もあるだろうし、私の個人的な無能さなんてものも影響しているだろう。私の能力は、一点において優れていたら、他の全てにおいては人並み以下の、そんなスキルツリーをしている。しかし、結局のところは「自分らしさを理解できていなかったからだ」と理解している。だから、軸足がブレる。結論に自信が持てない。このままでいいのかと不安になる。対処療法的な経済状況の安定では、その苦悩は解決の糸口を見せてくれない。

「自分らしさ」と「社会的な役割」どちらが先か

 「人生の目的」もしくは「自分の存在理由」あるいは「生きる意味」って何だろうか。幼いころから何度も立ち向かっていた難問だ。全員そうだろう。一度は考えたことがあるはずだ。「生きる意味って何なんだろう」。どんなに豊かでも、どんなに困窮していても、目の当たりにするはずの普遍的な問いだ。そして、往々にして「現実的な生活諸問題」により、その問いはどんどんと後ずさり、ついには「考えても仕方のないこと」として棚に置かれ、ついには問われなくなる。しかし、本当にそれでいいのだろうか?

 「生きる意味」に統一的な答えがあるとは思わない。しかし、それを探求する姿勢は重要であるはずだ。さらに強く言えば、「生きる意味」は、生きて考える我々人間ひとりひとりにとって、他の何に差し置いても最も重要な難問であるはずだ。なぜならば、「生きる意味」は「生きる基盤」だからだ。

 「自分らしさの追求」よりも「現実的な生活諸問題」(つまりは、経済的な問題、職業、家族や人間関係等、日常の様々な問題)を優先する態度は、最終的に絶望や狂気、そして死を早める結論に行き着いてしまうと私は本気で考えている。

 アイデンティティに立脚しない人生など存在し得ない。たとえ本人がそれを意識しようとしまいと、私が私である限り、それを下回ることも上回ることもできようがないのだ。そして、「自分らしさの追求」よりも「現実的な生活諸問題」を優先する態度は、「自身のアイデンティティ」に対して敢えて見ようとしない態度に他ならない。敢えて見ていないのだから、当然アイデンティティを見失う。アイデンティティの喪失は、自己が持つリアリティの喪失を意味し、生きる意味の喪失を意味し、世界は色褪せる。そこにあるのは絶望と厭世観に他ならない。

 或いはこのように反論する人もいるだろう。人々は、その人が生きる社会や他者、共同体から、自身の役割や義務を与えられているのだ。それを果たすことが、幸福につながるのだと。例えば、日本国憲法に記されている国民の三大義務「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」は、日本に生まれた以上果たすべき義務として課せられており、それを達成するための役割がある。個人の自由な精神や、自分らしさの追求は、そうした義務を一定果たした以降に、役割を演じた先に、余裕が生まれたら考えるものなのだと。

 本当にそうだろうか。私たちは、社会に生まれる前に、ほかならぬ<私自身>として生まれてくる。自己本性(自分らしさ)は社会生活よりも構造上において先立って明らかにされるべきなのではないだろうか。

「自分らしさ」が「現実的な生活諸問題」よりも先立つ証明

 最終的に、私たちの満足感は、私たちの自己本性がそれを感得した際に、初めて感じられる。つまり、ある人が社会的な役割や関わりを通じて感じられる「充足感」や「幸福感」は、私たち自身が私たちの内面に感じるもので、それを感じているのは、私たちの「自己本性」に他ならない。これは、言うまでもなく自明のことではあるが、「私以外が私の満足感を感じることはできない」のである。常に、最後は「私自身がどう感じるか」つまり内面的な問題にしかなり得ない。これは、社会的な役割を優先した場合も、自己本性の持つ感性を優先した場合にも同じことだ。

どんな個体も自分自身の特別な目的に従っている。なぜなら理念界は人間共同体の中ではなく、それぞれの人間の個体の中でしか自分を十分生かすことはないのだから。

ルドルフ・シュタイナー. 自由の哲学 (ちくま学芸文庫) (pp.166-167). 筑摩書房. Kindle 版.

 そうである場合、私たちはどうして、「自分自身が何者であるか(自己本性)」を理解せずとも、社会的な役割や関わりを通じて「充足感」や「幸福感」を感じ得るのだろうか。これは他者や社会が自分に求める役割というものが、”たまたま”自己本性が持つ衝動内容と一致していたからに過ぎない。全く持って偶発的にしか起こり得ないのである。

 つまり、自己本性が何であるかを追求しようとしない人にとって、言い換えれば自己本性の衝動内容に敢えて目を向けない人にとって、自分が何をしたら満たされるのかどうか、何に充足感を感じるのかどうかは偶発的なものになるわけだ。そのうえで偶発的にしか起こり得ない自己本性の充足感を満たすためには、より積極的に社会的な要求に迎合することが正解のように見えてしまう。

 自己本性を見ようとしない人物にとっては、社会的な要求に迎合することこそが、自らを満たす確かなる方法論であるかのように見えてしまう。そして、この理解をさらに推し進めると自分が満たされないのは、社会的な評価が足りないからだと誤解する。しかし、これはこれまでの議論を前提に置くと、自己本性を見ないようにすることが生じさせる不可解な誤謬でしかない。

「現実的な生活諸問題」を優先させる危険性について

 そうして生じる社会的態度が、「自己本性の欠如したロールプレイング的態度」だ。これは、役柄にのめり込みすぎることで、本来の自分を見失ってしまう役者に近い。社会的な役割を積極的に演じるがあまり、本来の自分が何者であったのかを見失ってしまうのだ。明らかに手段と目的が倒錯しているが、現代社会に広くみられる倒錯でもある。そうして、社会的な役割の達成度を最大化させるため、自己本性を抑圧し、黙殺する。自己本性はどんどんと深い闇の中に消えていく。これは当然、自分自身の足場自体がどんどんと深い闇の中に消えていくことを意味する。

 そのような自己本性が欠如したロールプレイングを行う人間は、長期的に自らの精神的健康や幸福感を得る道から離れ続けながら、社会的要求に基づくベルトコンベヤーに自らを置く。そこにおいて、人間は社会という大きな機械式人形を構成するひとつの部品へと成り下がり、自己本性は社会性によって目的合理的にはく奪される。そのベルトコンベヤーが目的とするのは、人間本来の個体的な豊かさではない。社会という大きな機械式人形を持続・拡大させることにある。さらに、その目的に沿わない”非生産的な”人間は非難し、排斥される。21世紀の現代において、それは以前ほどあからさまではないが、社会的プレッシャーや世間体などの形で、我々の日常生活に現れる。

再び現実の生活に戻って考えてみる

 ふつうはそこまで小難しいことは考えないのかもしれない。それよりも以前に立つ、目の前の即時的で生存本能に関わる「現実的な生活諸問題」の解決が求められるのだろう。現に、18世紀以降の近代社会はそのような「現実的な生活諸問題」の多くを解決・向上させてきた。しかし、ここまでの議論を前提に考えると、この「現実的な生活諸問題」には別の視点が与えられる。つまり、「(とりあえず外部から与えられた社会的な)現実性に基づいた(仮初の)生活諸問題」という視点だ。

 「自分らしさの追求」よりも先立つ「現実的な生活諸問題」というのは、外部から与えられた不確かなる現実性に基づく生活諸問題であり、それは社会的圧力により強制される(ように見せかけられる)類の仮初の問題としての側面を持つ。そのような生活諸問題に対応することで得られる「現実的な満足感」や「安定」は、一時的なものであり、持続的な満足感や充実感を得るためには「自分らしさの追求」が不可欠なのである。

 人生において、まず「自分らしさの追求≒確かなる現実性の確保」に取り組まない場合、それはまるで他者や社会が用意したベルトコンベヤーの上でただ転がされるだけの存在であり、そしてそのベルトコンベヤーの終着点が死であることだけが知らされているような状態だ。それに気づいたとき、人は狂気的な絶望の淵に立たざるを得ない。厭世的にならざるを得ない。自分自身の足場自体がどんどんと深い闇の中に消えていったとき、世界はモノクロに染まる。

 「自分らしさ」よりも「社会的要請」を重視する世界観を追求すると、その構造上・原理上の帰結として「自己の世界から自己を排斥する」ことになる。そのような世界観を持つ場合、誰しもが狂気の谷へ目を向けずとも、足を向けているのだ。そして、この世界観はある種、普遍的なものとして現代人の多くが抱える時限爆弾でもある。

では、多様性の語る真理、多様性の語る倫理とは、どのようなものだろうか?それは、メアリー・キャサリン・ベイトソンが最近述べたように──そしてニーチェがずっと以前に述べたように──、我々はみな自分自身の神話を持っているということ、生において我々が実現すべき、自分独自の真の可能性をそれぞれ持っているということにほかならない。言いかえれば、我々はみな「自分自身の最良のメタファー」なのだ。

モリス・バーマン. デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化 (文春e-book) (pp.412-413). 文藝春秋. Kindle 版.

〇参考文献
自由の哲学 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2002/7/1 ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原名), 高橋 巌 (翻訳)
デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化 単行本 – 2019/7/25 Morris Berman (原名), モリス バーマン (著), 柴田 元幸 (翻訳)


 

 

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