歴史ロマンと脳内循環
歴史の迷宮に足を踏み入れるとき、誰もが自分の影を引き連れる。
長髄彦の最後の叫びは、いまも風に溶けているのか。大國主皇子は、果たして運命を呪ったのか、それとも受け入れたのか。ワカタケルが掲げた剣には、一体何が宿っていたのか。秦河勝が隠した秘密とは何だったのか。厩戸皇子の微笑みの奥に潜む真意、そして蘇我蝦夷が目にした最期の光景…。これらの断片的な問いが、僕の思考を絡め取る。
飛鳥と奈良の狭間には、時の霧が立ち込めている。倭国と出雲、大和と吉備、あるいは筑紫の遠い血脈…そのどれもが、消えかけた炎のように断片的な痕跡しか残していない。それでも、その炎は時折、奇妙な形で現代を照らすことがある。
国津神と天津神、スサノオとアマテラス、海の民と山の民——彼らの軋轢と調和の物語。それは単なる神話か、あるいはこの国の誕生の記録そのものか。柳田國男と折口信夫が見つめた視線の先に、何が潜んでいるのだろう。僕は、歴史という名の深い井戸を覗き込み、その底に渦巻くものを探してしまう。
中華文明の影が差す時代、日本はどのようにして独自の形を保ちながらもその影響を受け入れたのか。そして、明治以降、西洋という新たな光源に照らされる中で、この国の奥ゆかしさと排他性はどのように拮抗してきたのか。その背後に見え隠れするのは、受け入れと拒絶を繰り返してきた民族の葛藤だ。
だが、日本の謎はそれだけでは終わらない。むしろ、それが始まりだ。
古代の霧に包まれた時代から、現代に続く東と西の隔たり。その亀裂はいつ生じたのか。倭国と出雲の力関係が崩れた瞬間に?それとも藤原氏が東国に裂け目を作り出したときに?いや、それすらも単なる表層に過ぎないのかもしれない。
そして、最後に問いが突き刺さる。
日本人——?
僕らは当たり前のように、この列島に暮らす人々を「日本人」と呼んでいる。だが、ほんの150年前まで、そんな意識すら存在しなかった。
歴史を見つめ直せば、思わず立ち止まらざるを得ない問いが浮かび上がる。僕らは果たして、一度でも「日本人」であったことがあるのだろうか?いくつもの断絶の中で、何が消え去り、何が今も残っているのか。その痕跡を仮説の手摺に変える。
その答えを知る者は、どこにもいない。
もしかしたら僕らは、ただ無数の断片が折り重なり、やがて「日本人」という幻を紡ぎ出した存在なのかもしれない。その幻が、いまも僕たちを縛りつけているのか、それとも解き放とうとしているのか。
歴史は静かに、そして深く息づいている。
その影に問いかけ続けること。それこそが、この果てなき旅の理由だ。そして、この問いの先に見えるものが、僕という人間のどこに繋がっているのかを知るために——。
さあ、歴史のロマンから何を感じてどう進もうか!