AI小説に価値があるか
結論から言えば「AI小説に価値があるか」は、写真や動画と同じだと考えている。
モデルを撮影した広告写真やセンスを感じる映画って、事前に高価な機材を用意したり、撮影場所や構図、ストーリーを入念に考えたり、撮影したものを加工・編集することで価値が生まれている。
一方、偶然生まれた瞬間を撮影したり、生配信でアドリブやリアクション、ハプニングを積み重ねることでも別の価値が生まれる。
つまり「意図的創作」と「偶然的創作」で、価値の測り方が全く違う。AI生成物の話でこれをごちゃ混ぜにすると的外れになってしまう。(※ボーデンによる創造性の分類にも通じる話だと思う)
例えば、ネコがご飯をおねだりする動画があったら、単純にかわいいから「いいね」が押される。
でも実は飼い主がわざとご飯を与えずにおねだりさせているということが分かったら、それは虐待動画として評価される。
つまり、作成者の意図があるかどうかで受け手は判断する基準を「無意識にスイッチ」している。
SNSのタイムラインも、企業の広告と個人の日常がおもちゃ箱のようにぐちゃぐちゃになっている。でもたいていの場合、ぱっと見ただけで「これは広告だな」とか「これは自分で撮った写真だな」と分かることが多い。
どうやって区別しているのと言われると表現するのが難しいけれど、なんとなく分かる。これも「無意識のスイッチ」だと思う。
一方、猫の動画の例でもそうだったように、写真や動画でも「ヤラセ」を判別できないものはある。
むしろ知らないだけで、実際は「ヤラセ」が意外と多いのかもしれない。現代人は、SNSでいいねを稼ぐためにスマホのカメラボタンをタップしている。おしゃれなカフェで休憩している写真も、休憩が目的なのか、休憩しているおしゃれな自分の写真をSNSで見せることが目的なのかは、もはや区別できない。
人々は「無意識のスイッチ」がある前提で、当たり前のようにそれをハッキングして利益化している。すなわち、見せられているものが「意図的創作」か「偶然的創作」かは重要ではなく、「意図的創作」に見えるか、あるいは「偶然的創作」に見えるかが重要となっている。結局は「受け手のイメージの問題」ということである。
では「他人がAIに書かせた小説」はどうか。一見、「意図的創作」か「偶然的創作」かは判別できない。たしかにそれは事実であり、AI生成物を否定する理由としてよく挙げられる。でもそれは重要ではない。「受け手のイメージの問題」だからだ。
AI生成物も「意図的創作」もしくは「偶然的創作」として「見える」ように提示されていれば、判断基準に迷うことなく作品を評価できる。
例えば「ポン出し選手権」と銘打ってコンテストをやれば、ポン出しで作ったことがある人にはどこまで作れるかの感覚が分かるから評価もされやすい。
ただ、現状はAIで生成したことがない人が多いし、今のAIでどこまでがポン出しできるのかというクオリティのラインが日進月歩で変わっているので、評価できる人は限定的なのだと思われる。
要するに、AI生成物が評価されるためには、多くの受け手の中に「AI生成物がどういうものを表現できるのか」という「共通のイメージ」が必要なのだろう。
写真だって、「意図的創作」も「偶然的創作」も同じカメラで作れてしまうが、何を使って作ったのかを気にする人は一般的に少ない。
ただ多くの人は、カメラで適当に撮ったらどんな写真になるのかを知っている。だからモデルが綺麗に写っている写真にいいねを押すし、自分もそういう写真を撮りたいという気分になる。
あるいはタカが大きな魚を脚でつかまえて飛んでいる写真を見て「こんなことあるんだ」とか「この一瞬で画角とピント合わせているのすごいね」という感想が生まれる。撮影者に聞かなくても、タカの撮影ポイントを選んでわざわざ出向き、長時間撮影している中で偶然撮影できたのだろうと、苦労を想像できる。
「共通のイメージ」というものさしができて初めて、「これを使えばここまでは作れるよね」と同じ前提に立てる。そして作れる人と作れない人が可視化されて、そこに価値が生まれる。
逆に言えば、その文脈が分からないと評価がしにくい。自分で作ったAI生成物を自分が楽しめるのは、どこまでが自分が指示したもので、どこからが偶然性によるものかを自分が一番よく分かっているからだ。他の人は、その文脈を説明されない限り、どう評価していいのか分からず、すでに持っている既存のイメージを無理やり当てはめるだろう。
たぶん画像生成AIを使ったことがない人からしたら、AIで生成した雲の浮かんだ空の画像を見せられても「きれいだね!今のAIってそういうの簡単に作れるんでしょ?」という感想になってしまう。
「いや、今のAIでも正確な積乱雲は作れなくて」とオタク語りをしても、相手にはたいてい伝わらない。
しかも面倒なことに、明日には正確な積乱雲画像を簡単に作れるAIが出てきてしまう可能性が割とある。まだ「共通のイメージ」は不安定だ。
だが、詳しい人が見たらどのモデルを使っているかの見当もつくというから、AI生成画像の「共通のイメージ」は作られている方だ。
問題はAI生成小説である。
「AIで生成した長編小説がどのレベルまで作れるのか」を把握するためには、それなりの数を読まなければならない。文庫本1冊12万字を1分あたり500字で読んだら4時間かかる。10作読むなら40時間。毎日1時間読んでも1ヶ月以上かかるが、そんな暇人は多くない。
それに、10作読んだとしても統計を取るには試行回数が足りない。
半年かけて40作くらい読んで「共通のイメージ」がようやく固まった頃には、新しいモデルが出て「共通のイメージ」を再修正しなければならない。
しかも精度が上がっているから、検証すべきポイントを全て変更する必要もあるかもしれない。例えば前回は伏線を回収したかどうかのみに注目していたけれど、今回は伏線回収までの間の長さを計測した方が良いとなったら、半年かけて読んだ作品たちを、もう一度隅から隅まで読むことになる。私は正気でいられる自信がない。
つまりAI生成小説に対して「共通のイメージ」が作られることはほぼ不可能である。
言い換えれば、AI生成小説は人間が書いた小説と同じものさしで評価される期間がかなり長くなる可能性が高い。
AI生成小説を「意図的創作」あるいは「偶然的創作」として受け手に見せても、その文脈を受け手が考慮できないから無意味なのである。
AI生成小説は人間の書いた小説と同じ土俵に立たされていて、既存の小説によって作られた「共通のイメージ」にぺこぺこと頭を下げて従いながら、こてんぱんに蹴散らす必要がある。
それってバカみたいな話だし、ちゃんとAI生成小説の文脈でも評価されるべきだと私は思うけれど、おそらく私が理想的だと思う未来にはならない。
「共通のイメージ」がアップデートされるのは「AIがプロレベルの作品を書けるようになった」、つまりAI生成小説が人間のプロを蹴散らした時だろう。
私は文学フリマでAI生成小説のアンソロジーを企画しようかと考えているけれど、ここまで話した内容がひとつのハードルになっていると感じている。
私は、AIで小説を作るだけではなく、AIで作られた小説が正当に評価される環境も作らなければならない。
これは鶏と卵のようなもので、AI生成小説のまっとうなコミュニティがなければAI生成小説は正当に評価されないし、誰かがAI生成小説を正当に評価しなければAI生成小説のまっとうなコミュニティは作れない。
文芸の歴史を紐解いていくと、原点には少数の同好の士によって作られた雑誌や同人誌があることが多い。そこから文芸の「共通のイメージ」はつくられてきた。「ブランディング」や「パッケージング」とも言えるかもしれない。
では「共通のイメージ」がないAI生成小説において、心の中に熱い炎を秘めている同好の士が、今どれだけいるだろうか。彼らを集めて歴史的特異点となる狼煙を上げることができるだろうか。
そこまでの情熱が今の自分にあるのか、私には自信がない。実際、私はAI小説を1日1時間読むような暇人ではないし、ここに書いた私の考えが正しいのかも分からない。
人付き合いが苦手でコミュニティをどう作るのが理想的なのか延々と考えてしまう私には、あまり向いていないような気もする。そんなことをしている暇があったら、自分の生活のために時間を使ったほうが良いとも思う。
さて、駄文を連ねましたが、うだうだしていても始まらないので、「AI小説に興味のある人が集まったらいいな」という軽い気持ちでDiscordのサーバー「鴎文街」を作ってみました。読みは「おうぶんがい」です。
相談や質問に葦沢が必ず答えるというものではありませんが、情報共有や交流の場になればと思います。
まずはこの記事を最後まで読んでいただいた方にだけお知らせするので、ベータテストだと思って参加してみてください。
初めてなので問題が発生するかもしれませんが、その際はご容赦ください。しばらく様子を見て、大丈夫そうなら私もXとかで告知していきます。
参加者の方が本サーバーを紹介するのはご自由にどうぞ。
管理が面倒だと感じたらそこで閉じるつもりです。
永遠のベータテストにならないことを祈って。