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私がこれを書けているのが

自分の加害性を語ることの難しさについて考えていた。
例えばTNR手術を、自分が関わる猫たちに施したことについて。
加害性をどう語れるのか。それを考えて立ち尽くしていてそうしている間に夏の盛りが来て、
彼女がみるみる衰弱していった。

彼女は猫である。
名前はパピ。
職場の敷地内で生まれたにも関わらず、猫が『いてはいけないことになっている』当該敷地内において彼らは“侵入者”だった。
私が人生で初めてTNRをさせた猫だった。パピは。
兄弟姉妹のまとまりに、テキトーに呼びかけられた名前、パピ・プペ・ポー。プペもポーもいつしかいなくなった。パピだけは、残った。
猫も、虫も、人間のこどもでさえ、生かそうと思って関われば分かる。それがどんなに泡沫の存在か。どんなに簡単に死んでしまうか。彼らを亡きものにしようと躍起になりがちな人は一度、彼らを本気で生かそうとしてみるといいと思う。あなたが恐れるまでもなく、彼らは消えてしまうのだ、恐ろしい数。それを知って、どうか、安心してほしい。僅かの生き残りに、あなたの不安をぶつける理由なんかないって気づいてほしい。
パピにもプペにもポーにも、その不安という名の皺寄せがグイグイ差し迫った。私は彼らを一匹づつ、TNRオペを処置してくれる医院へと運んだ。彼らに、ここで暮らしてもいいよと言えるなら…彼らが、『組織の課題解決能力の無さ』の生贄になるのを阻止できるならもう何でもよかった。

パピのおなかには赤ちゃんがいた。だからパピの体には、子宮がない。
耳には小さなカットが入った。彼女にとって、…いいえ我々人間にとって、『野に放たれていても問題ない』猫である証明。言葉少ない獣医の処置はとても丁寧で、傷が癒えて乾くほどに、その傷口はきれいなサクラの花びらになった。
こうしてパピはさくらねこになった。元より人間不信気味な彼女はなおさら、しっかり野良らしい距離を取る猫になった。人間の目の前で、物だけには愛おしげに顎をこすり付ける。その愛情表現、受け取りたい人間ここにおりますが。眼差しの鋭い、実に気丈な彼女は、ゴロゴロ喉を鳴らしながらとりあえず一発「シャー!」と威嚇をかますのがお決まりの挨拶で、そのアンビバレントな感情表現がとても、彼女という猫をあらわしていた。
賢くて、臆病で、直情的で。たぶんとても真面目な性格な分ちょっとおマヌケで、ちゃんと定められた時間にごはんを食べに来て、満腹になったらほんの少しの時間、幸せそうに日向ぼっこする。そういう猫だった。
なんだかケンカっ早いくせに弱いっぽい猫だった。よく後脚に怪我をして二、三日姿を見せなくなって、ああもうもしかして、と人間が思う頃にしれっと出てくる。そういう復活劇を何度も見ていたから。

この夏の衰弱もそうであってくれと願っていた。熱中症?寄生虫?一番認めたくないことは一番最後まで言葉にされない。

彼女は、ああもうもしかして、を五回くらい経たその日の夕方、お母さんを呼ぶような声で鳴いた。
姿を探して、見つけて、暗がりに横たわる彼女に名を呼びかけて、そしたら彼女は私たち人間に向かって鳴いた。
なんだかくるしい、こわい、たすけてほしい、そんな声を人間に寄せてくれるのか。そこまで弱って。そこまで、人間を信じていたのかお前。
古びたバスタオルと段ボール箱で彼女を家まで連れて帰った。彼女の顔を撫でるのはもちろん、抱っこするのも、名を呼びかけ続けるのも、初めてだった。こういうことがもっと早く出来ていればきっとパピの生涯は違うものにできた。でも、それは後出しジャンケンだ。

一番認めたくないことは一番最後まで言葉にされない。
彼女は白血病性貧血の末期だった。彼女の生育歴上、それはつまりこのあたり一帯が白血病に汚染されているという証明だ。つまり、彼女のいなくなった兄弟姉妹、それから今ごはん場を共有している猫たち、みんな。
みんな、泡沫みたいに生まれては消えていく。どこかへ押しやられる必要は、本当はどこにもない。

シャンと背筋を伸ばして、シリンジで流動食だって食べて、彼女は診察室を出た。荒い息を吐く飛び込み患者の彼女のためにやりくり奔走してくれた主治医は、「穏やかな看取りになるように」と応援のような言葉をくれた。主治医が血液検査の手配だの、両手に束ねる量の注射器などを準備する間、ほどよい気温の、すこしやわらかいシーツに横たわって、私の手を枕にして、パピは僅かの時間うつらうつらと幸福そうに揺れてから、しばしの間眠った。

私にとって、彼女からの贈り物になった時間だった。

私にとって人生で一番最初のTNR手術を施した猫は、手術から一年経たずに今日、旅立った。
とても厳しい生涯だった。
「あなたがここにいる限り。私ここを辞めないから。」
手術から帰って来た彼女を元いた場所へ解放した日、生殖器とそれから胎児、それらを奪った罪悪感に耐えかねて私は彼女にそう誓った。なんの慰めにもならない誓い。初めて、自分の家の子にはしない猫に給餌した時から、生殖も死も私は引き受けるつもりでいた、それでも結局、背負えやしないものばかりだった。背負えない。贖えない。
それでも、我々人間は地域猫を必要としている、土地があるかぎり猫は来るから。生まれてしまう命に歯止めを立てたいと、それが唯一、一番マシな方法なんだと、生きていていいよって彼らに言うためならと、やっぱり私はこれからもまだ、それを選択するのかもしれない、こんなふうにボロボロになってたった一年半の生涯を終える猫を、看取ってなお。
あほくさいな。

猫のためにしたことなんかひとつもない。
それなのにパピは、最後まで私を待った。私が傍に来るのを待ってから、旅立ってくれた。最後の最後まで彼女らしかった。最後の一息まで諦めなかった。ぜんぶ私に委ねて、文句も弱音も吐いて、目力を惜しみなく発揮して魂が去った体の、その瞼を閉じるようにと撫でていたら、笑ってるみたいに良い顔になった。

猫のためにしたことがひとつもないまま、そうやってパピはたぶん、私を“加害者”から“飼い主”にしてくれた。
私がこれを書けているのが、そういうことだ。
私を呼んで頼ってくれた。撫でる手を受け入れて、心地良さそうに目を閉じた。最後の瞬間を分けてくれた。そのきれいな炎が消えるまで、彼女が揺るぎなく彼女であるのを、見せてくれた。

これが猫のやることですよ。
どうして彼ら一頭一頭みんなが幸せに暮らせないのか、理解に苦しむよ。



パピもプペもポーもいなくなった。
それでも職場の敷地内には、猫が居る。居る。暮らしている。

さて、と私は考える。さて。
考える間は、たぶん、加害者でありながらも別の何かに、違うどこかに、辿り着けるかもしれないから。
違うどこか。それを見遣る。それができたらきっとパピが、この強情で賢くて炎のような猫が、私の中にずっと生き続ける。それなら背負える。そんな、気がする。

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