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希望だけでは進めない そうか
希望だけでは進めない。
そんな話は聞きたくないだろうなと思う。
私も別にしたくない。でもちょっとだけ、そんな話をしてみたくなった。ちょっとだけ、断定的な物言いをしてみたくなった。どうしてかってたぶん、「希望だけで進んだってどうにもならない」、みたいな印象が蔓延しているから。
眺めるタイムラインに。
拾い読みするニュースに。
不意にこぼされる同僚の愚痴と、
それに答えた自分の言葉に。
じゃぁ他に何があればいいのだろう。考えてみて、私の出した、というかこの体の内側にあった結論はただ小さな、生物の美しい死体のように、小さなこと。
「希望だけでは進めない、ただし他のどんなものでも、進めはしない」ということ。
進めない。
進めない。もう一歩もだ。それでもなお、進むしかない。
そんな時に、側にいてくれるものがあるとすれば希望か、もしくは絶望だけだ。だから“希望があれば進める”と言うのは、進むことができた人が呟く結果論・印象論でしかないと私は思う。
進める・進めないを基準に希望の価値をジャッジするなんてナンセンスだ。それは結局いつだってそこにある。進める/進めない、なんて素知らぬ顔で。結果に悶える私たちの、そばに。
進めない。希望があったって。
どうだろうか。「もう先がない」と思う時にだからどうか恐れすぎないでほしい。
そんなものだ。どこにも光がない、という状態の方がラクな時もある。なーんにも見えない。もうこのまま消えていけばいい。
たとえ、どこかに光を見たとて、私たちは…私は、そこでどうしようもなく立ち止まる。だって“光は、光るだけで何もしてくれはしない。”
けれどその、どこかに光るものを絶望と呼ぶのか希望と呼ぶのか、名付けはあなたの自由だと思う。
そのくらいの自己決定権は、握りしめていたいと私は願う、だからあなたにも自分で決めてほしい。
その光が絶望でも、希望でも、そこから進めない、と立ち止まったあなたに寄り添うなら、それは間違いなく光だろう。
進めない、と思う時、光が照らすのはただその事実だけだ。『進めない』その事実だけ。
その点は希望でも絶望でも変わりがないのに、希望だけはその点において無力かのように扱われる。がっかりされる。“希望”というものにつまりみんな、ドリームを見すぎるんだと思う。
希望だけでは進めない。だからなんだよ、じゃぁ手放せるのかよその光を。その気になればすぐに絶望と呼び替えが効くその程度の、そのちっぽけなものに最後の何かを託して立ち止まるあなたの進めなさに、一緒に立ち止まってくれるその光を。
恐れすぎないでほしい、と願う。
希望だけでは進めない。けれどそれはつまり他のどんなものでも進めないということだ。あなたはそんな人だ。
誤魔化せず、呑み込めず、欲しいもの以外はガラクタで、けれどその唯一のものに辿り着く方法をまだ知らない。
ただ、それだけの人だ。
諦めが、景色を変えるだろう。時間が、あなたを置き去りにして周りを運んでいくだろう。けれどそれだけだ。進むがいい。進めない道を。どこにも行けないままで、どこにも行けないと嘆くままのあなたで。
握りしめた光を何と呼ぶかはそれぞれの自由だ。その光はどこまでもあなたの世界になって、いつまでもそばにいて、ただあなたの自由になるのを待っている。
そこから進んでも、進まなくても、進めなくても変わらずに。
ただあなたのためだけに。ずっと。