アミ小さな宇宙人 第10章 宇宙親交と救済計画
さまざまな世界から来た、さまざまな人種?の人たちがグループになって輪になってそれぞれの星の踊りを披露している。1グループが踊りを終える毎に観客は大喝采を送っている。円形の劇場の周りは沢山の旗で飾られていた。
※ちょうど現代の地球のオリンピックのようなような催し?
ペドロは「どのグループが勝っているの?どのグループが一番上手いか?を競っているんでしょ?」
そうじゃない、とアミ。
では一体なんのために行なっている催しなのか?
一人一人が自分の感じているものを表現して、観客に喜んでもらったり自分でも楽しむため。だから“勝ち負け“は存在しない。
進歩した文明には同胞との競争は存在せず、競争とは「自分自身とするもの」という概念がある。
「勝つ為の努力」はエゴであり、最終的には分裂を生んでしまう。
“輪“は円、それは宇宙のシンボルであり“親交“を象徴しており、国によって隔てられていない「ひとつの世界」を意味している。
アミの胸には円の中に翼の生えたハートのバッチがついていて、
円は「ひとつの人類」を示し、翼の生えたハートは自由で囚われのない愛を表している。
オリンピックの起源について詳しく知っているわけではないけど、表現に言語の必要のないもの、特に身体一つで技を見せたり自分を鍛錬していくスポーツは本来、もっと芸術的なものであり、競うためのものじゃない、という事なんじゃないかなと思う。
オリンピックは、国を超え、言葉の壁を越え、その芸術を披露しあって感動を与えたり、普段は理解しにくい他の国の人と共感しあったり気持ちを一つにするための行事として始まったのではないだろうか?
いつから”競い合って、メダルを争うのが目的”になってしまったのだろうか。。
それぞれの国がメダルを競い合うような、「お国主義」「地方主義」(自国や、自治体、など自分が属する社会しか愛さない)は狭くて貧しい愛。まさにエゴイズム。執着せず大きく広く愛するべきなんだと、アミは言う。
国境を無くし平等に、地球にたった一つの国を作ることだ、と。
どこに住むのも誰の許可もいらなない、国境のない自由にどの世界にも行ける世界。
藤井風さんがオリンピックの舞台裏を描いた映画のテーマ曲を手がけることになったと聞き。(映画はこれから見に行く!)
この本を読み、かねてから思っていた「オリンピックの本来の姿と、彼が言いたいことはきっと同じ」というのがまさに繋がり、とても驚いた。
彼の言う「ひとつ」は、まさにこの、本来オリンピックのあるべき姿と重なるし、この仕事に関わることは必然であったように思う。まるでどちらからともなく引き寄せたかのような。(映画の内容見てないから断定はできないけど。見て気づく事があったら追記します)
話してもいないのに、繋がり引き寄せることは、外部に払うのと同じくらい自分に注意を払っていたら、感じることができる。
まるで赤い糸のような繋がりに気づくことができる。
そんな風にして繋がる時、それは偶然などではなく全てが必然なのではないかと思う。
アミがこの章の中で語るもうひとつの事は「宇宙親交」。
宇宙親交とは
全ての人はみんな兄弟だし友達。誰にも迷惑をかけない限り行き来は自由に行われている。何の秘密もなければ禁止もない。戦争も暴力もない。
皆健全に人生を楽しむことだけを望み人々を愛しているから、最大の幸福は人に奉仕し援助する事、人の役に立っていると感じられる事によって得られる。
エゴイズムや人間不信を克服できたときはこの宇宙親交の仲間入りができる。それが実現すれば、生き延びるための過酷で激しい生存競争から解放され、全ての人に幸せが訪れ始める。
アミは、ペドロにアミのメッセージをまとめた一冊の本を書くように言う。
その本に書かれた事が、ひとつの声となり、一粒の砂となり、第一歩となるために。
子供と、子供のような心を持った人はきっとその本に書かれた事を信じる。
大抵の”大人”は恐ろしい事しか信じない(恐怖によって心を動かされる。「〇〇しないように」しか動けない。「転ばないように」「後で苦労しないように」それは行動が恐怖やマイナスの思考から生まれていると言う事。「○○したい」から動くような感情に優位の行動は、子供っぽいとか、劣っている、と考える)、
物欲ばかりに目が行き、武器を崇拝したり、美しいものや真実には全く興味がない。
「人生の価値」を取り違えている。これらの”大人”は君が書く本には興味を示さないいだろう。
子供(子供のような心を持った人も含む)は、君が書いた本を通してアミのメッセージを普及させることに貢献するだろう。
度々、自分の”度数”(地球が滅亡したときに救われると言う、700度以上の水準)を気にするペドロ。「僕は700度以上ある?」
平和のために何かしている人はその水準に達している。
「何もしないしない人」は愛が不足している共犯者。
ー余談ー
アミがペドロに一冊の本を書くように、といった事。
「君の本がひとつの声となり、一粒の砂となる」という表現で思い出した映画があります。
イエスに従い、イエスと共に福音の旅をしイエスの磔刑と埋葬、復活に立ち会った女性マグダラのマリア(私は映画ダヴィンチ・コードを見て彼女にとても興味を持ちました)を扱った初の映画「MARY MAGDALENE」という映画の冒頭で、「神の国とは種のようなものであり、私はその種を撒く」というような言葉が出てきます。
いろんな見方をされて、存在については立場によって様々な見解のあるマグダラのマリアですが、クリスチャンではない私のフラットな見方ではこの人は本当にイエスの教えを広めようと、ただそのために奔走した人なのではないかと思っています。
「種を撒く」というこの言葉は、通じ合える人との暗号のような言葉だと感じます。
※うろ覚えだったので、少し修正いたしました。