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今から、練習してみよう

スロウな本屋さんのオンライン読書会『ヘルシンキ生活の練習はつづく』(朴沙羅・著、筑摩書房)第一回に参加した。
充実の二時間!
今回は特に仕事をする上で大切な視点を、本や読書会参加の皆さんの言葉を通して得ることができた。
このタイミングでこの読書会に参加できて良かった。
 
また、本を読みながら、学生時代(四半世紀前!)北欧三ヵ国(フィンランド、スウェーデン、デンマーク)を旅した日々も懐かしく思い出した。


(以下ネタバレを含む感想です)
 
この本は、2人のこどもと海を渡った社会学者の現地レポート『ヘルシンキ生活の練習』の続編だ。
幸福度世界ナンバー1のフィンランド。その教育や福祉は理想的に語られることが多い。この本で著者は生活者として、フィンランドでの日々を現在進行形で綴っている。
そこには「良し悪し」ではなく、ただ、「違い」がある。
 
前作に引き続き、続編の本作も目から鱗で、時々クスリと笑いながら頁をめくった。読後は少し息がしやすくなっていた。
そして、読書会後はもっと息がしやすくなった。
 
日本で私が当たり前だと思っている数々のことは、実はとても特殊なことなのかもしれない。
 
いつも感じることだが、今回も思った。
読書や対話を通して他者との違いを知るって、エキサイティングだ。
そして、心を自由にしてくれる。
 
今回の読書会の範囲は、「はじめに」「大人と働く」「戦争と平和(前・後編)」「特殊なのは誰か」。
 
「はじめに」での筆者の問いかけ( “「私は何者か」という問題は、「なぜ、いかなるときに私はその問いを問題として感じるのか」という問いに変換できる。” p.12、 “「私にこの問いを問わせる状況では、何が起こっているのか」” p.13)、
「大人と働く」での健康診断の看護師さんの言葉(「一日八時間労働だったら、三時間ちょっと、ぼんやりしてください」)、
「戦争と平和(前・後編)」でのロシアのウクライナ侵攻に伴うフィンランド情勢、そして、筆者の「国」や「国旗」、「個人」の捉え方、
どの章にも、皆さんとゆっくり対話したいテーマがたくさんあった。
 
読書会では、まず本の中で印象に残った箇所を一人ずつ挙げる。
本の中の色々なテーマに惹かれながらも、私は今自分にとって切実なテーマである「特殊なのは誰か」を選んだ。
選んだ頁が何人かの方と重なっていたので、驚き、嬉しかった。
 
私が今回印象に残ったのはこの箇所だ。

「誰もが支援を必要とする、だから、支援を必要とする人は特殊ではない。誰もが特殊であり、あなたも私も必要に応じて支援を受けられるべきだ。そういう建前だ。多様であることを無視することと、最初から多様であることが当然であることは、同じであるかのように見えて、まったく違う」

p.137‐138

このような人間の捉え方は、特別支援教育でとても重要なことだと思う。
もちろん、人員や時間の余裕を前提として。
 
日本と比べて、フィンランドでは一クラスあたりの教員数が多い。
そして、私が本を読んで驚いたことは、子どもをエンターティンしないということだ。
 

「先生たちが静かだ。というより、私が見るかぎり、公園で子どもを遊ばせていても、大人は遠くから見守っているだけで、子どもと遊んだり、子どもを楽しませようとしない」

p.137‐138


フィンランドといえば、幸福度と学力の高い国というイメージだ(そしてムーミンとマリメッコ!)。
(※実際は、OECDが行う世界的な学力調査PISAにおいて、2000年代はフィンランドが上位だが、現在は日本など東アジア諸国が上位である。…幸福度と学力の高さは相関がなさそう?…)

私はなんとなく、フィンランドでは幼少期から、教員がこども達にアクティブラーニングを促すような積極的な関わりを持っているように思っていた。どうもそうではない、のかもしれない。
あえて、エンターティンしなくても、こどもの育つ力を信じて見守り、困った時にサポートすれば、こどもは安心感を持って育っていけるのかもしれない。
 
読書や対話を通して、自分の根拠のない思い込みに気づけるって、貴重なことだ。
自分が「正しい」って思ってることって、とてもとても狭い場所でのことなんだな。
 
私は読書会に参加している皆さんに、日常生活で感じる「息苦しさ」を感じているか、感じるとすればそれはどのような時なのか聞いてみたいと思った。日本社会の息苦しさについては、前作で作者も挙げていた。
 
私が息苦しくなるのは、狭い場所で「正しさ」にがんじがらめになっている時だ。
一生懸命な時こそ、そんな状況に陥って八方塞がりになる。
そして、駅は一つだけで、そこへ向かう線路は一つしかなくて、そこから落ちてしまったら何にも道がなくなるような恐ろしさを感じてしまうことがある。
 
この本で挙げられている「誰もが特殊である」という人間の捉え方は、誰もが支援され、支援できるということだ。
駅は一つだけではないし、道は一つだけではない。
自分や誰かが決めた「正しさ」にがんじがらめになる必要はないんだ。
 
読書会では、皆さんの経験を踏まえた実感を聞き、共感したり発見したりしながら、社会の中で感じる息苦しさの正体とそこからどうしたら自由になれるのか考えることができた。
 
法律違反であるような校則がなぜあるのか?ルールが個人のためではなく、集団のためのものになっているのでは?
発達検診での指摘に動揺したり安堵してしまう。この感情はなんなのか?
「発達障害」の多様さ。
アメリカの大学で感じた息のしやすさ。
 
などなど、興味深い話がたくさんあった。
 
最後に、店主の小倉さんから、この本のタイトルにもなっている「練習」について、問いかけがあった。
(この“「練習」したいスキル”(p.141)という本書で知った発想も、目から鱗だった。私が「強み」「弱み」などと表現してきた「気質」「性質」「素質」も練習していける「スキル」ということ。人は練習して変わっていける、という考えは、なんだかとても自由を感じる。こういう捉え方は自己肯定感や幸福感に関連していくんじゃないかなぁ。今うまく言語化できないけれど。)
 
皆さんが挙げて下さった練習していきたいスキル、興味深かった。
 
・感情を言葉にする練習。
・「問う」練習。
・相手の話を聞き、話す練習。(哲学教室の例になるほどと思った)
・人と違う意見を書く練習。
・余裕、余白を持つ練習。
 
そういえば、このnoteは私にとって、「感情を言葉にする練習」と「問う練習」だ。
また、「てつがくカフェ」も続けて参加したいな、と皆さんの話を聞きながらあらためて思った。
そして、共感も大事にしながら、違う意見も言葉にしてみよう。
わくわくする練習のために、生活の余白を大事にしよう。
やらないことを決めて、やりたいことを大切にしていこう。
 
読書会の最後の最後で、なぜ自分がいつも「成長」にこだわっているのか、自分の「成長」、こどもの「成長」を求めながら、時に苦しくなるのか。
その理由が見えてきてハッとした。
 
私がこだわってしまうのは、結果にあらわれる、目に見える「成長」だ。
それって、目に見えるものって、「成長」のごく一部なんじゃないか。
 
何をもって「成長」とするのか?
まだわからないけれど。
 
先の結果や目に見えるものだけを求めるんじゃなくて「今」を大切にしてみよう。
「余白」を大切にして、自分や目の前にいる人のありのままをみつめてみよう。
 
そういう練習、してみよう。
 
企画・進行をして下さったスロウな本屋の小倉さん、参加者のみなさま、ありがとうございました。
 
次回も楽しみ!

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