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〈わたし〉を形づくるもの

スロウな本屋さんのオンラインえほん哲学カフェ『もし、世界にわたしがいなかったら』に参加した。ナビゲーターはてつがくやさんの松川えりさん。
 


(以下、ネタバレを含む感想です)
 
哲学カフェ後、スロウな本屋さんがXにポストされていた通り、参加者皆さんの言葉に触発され続け、ぐるぐると〈言葉〉を巡る旅をした、濃い二時間だった。
終了後はTシャツに脇汗…!
参加して良かった!
 
本が自宅ポストに届き、表紙を見た時、帯に「大切な言葉についての哲学絵本」とあったので、「きっと〈言葉〉がキーワードなんだろう」と思って読んだ。そして、この本の中での〈わたし〉って何だろう?と探りながら一枚一枚ページをめくった。
読み進めると、〈言葉〉はキーワードどころではなかった。
 
この絵本で〈わたし〉は言葉そのものなのだ。
 
あらためて思った。〈言葉〉は道具であり、様々な力を持つ。〈言葉〉は文化だ。そして、〈言葉〉はアイデンティティであり、尊厳だ。
 
けれども、心にひっかかったのは、
「わたしが いるから、人が人に なる」
という箇所だ。
 
〈言葉〉には限界があるから。
そして、コミュニケーションは〈言葉〉だけに依らないから。
 
「何によって人が人になるのか」って、大きすぎる問いだ。
 
大きすぎるテーマだけれど、皆さんがどんなふうに考えているのか、「知りたいっ!」って強く思った。
 
皆さんの話を聞きながら、〈言葉〉についての捉え方も違いがあるのだと思った。

私は〈言葉〉を、話したり、書いたり、読んだりするためのコミュニケーションツールの一つと捉えていた。英語だと、〈word〉や〈language〉。だから、「〈言葉〉があるから人が人になる」とは言えないのでは?…とモヤモヤしたのだ。〈word〉や〈language〉は人にとってとても重要なものだけれど、それがなければ人にならないのか?と自問すると、「No」だと思うのだ。
 
「わたしが いるから、人が人に なる」という箇所については、何人かの方が共感や違和感とともに言及されていて、どの方の発言も興味深いなぁと思って聞いた。皆さんの発言を振り返ると、「〈言葉〉は人間だけが持つものなのか?」という問いについて3つの視点がある。
①〈言葉〉は人間だけが持つものではないのでは?例えばイルカは彼らの〈言葉〉で仲間同士交信している。
②〈言葉〉を使って架空の話をするのは人間のみでは?
③存在しているもの全てが〈言葉〉を持つのでは?石や草も〈言葉〉を持つと感じる。
私は、〈言葉〉を〈word〉や〈language〉として捉えていたけれど、③の方にとって〈言葉〉は〈message〉という意味合いを含むのかな?と思って聞いていた。
 
また、今自分が当たり前としている〈言葉〉の世界も、その人の特性や境遇、在り方によって異なるという指摘も興味深かった。
①目が見えない、耳が聞こえない、話すことができない、書くことができない、読むことができない人にとっての〈言葉〉とは?その方の世界の見え方は自分とどう異なるのだろう?
②母国語を日常で使えない方にとっての〈言葉〉の世界とは?
 
そして、〈言葉〉の持つ素晴らしさと暴力性や権力性について。
①〈言葉〉があるから、目が見えない、耳が聞こえない、話すことができない方と思いを共有することができる。
②外国の人に日本語を教える時、日本語教師は優位に立っている。多国籍の人が集まって話す時、往々にして、英語が母国語の人が優位に立っている。
 
この絵本の原書タイトルは“WHAT makes us human”。直訳すると「何が、私たちを人間にならしめるのか」。
〈言葉〉が私たちを〈人間〉にならしめる?
やはりひっかかる。モヤモヤする。
 
この本を聖書の価値観で西洋主義的だと指摘された方がいた。気になって、読書会後に聖書を引っ張り出して開いてみた。
「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」(ヨハネによる福音書 第一章)
 
ことばは神!
 
「〈言葉〉があるから人が人になる?」という問いから、「もう、〈言葉〉って何なんだ?!」って頭がグルグルする(おもしろい!)。
 
頭がグルグルしながらも、対話を通した皆さんの〈言葉〉を手掛かりに、自分の考えがだんだん輪郭を持ってくる。
 
〈言葉〉は不思議だ。
〈言葉〉は力にもなるし、〈言葉〉は無力でもある。
〈言葉〉は時に私を解き放ち、時に私を閉じ込める。
〈言葉〉は世界を開くけれど、〈言葉〉には限界もある。
 
モヤモヤした思いを〈言葉〉にできたり、誰かに〈言葉〉にしてもらえたことで、思いにつぶされずに立ち上がれることがある。
 
一方、苦しさやもどかしさを〈言葉〉にして伝えたいと思うけれど、そもそもそんな〈言葉〉が存在せず、その苦しさやもどかしさの行き場がなくなることがある。(もっぱら私の今のモヤモヤはパートナーの呼び方問題だ)
 
また、「思いを伝えたい」とたくさんの〈言葉〉を尽くしても、思いから遠ざかっていくことがある。
〈言葉〉を尽くせば尽くすほど、全く伝わらなかったり、思いが形を変えて伝わってしまうことがある。
 
そして、〈言葉〉などなく、ただ、手を握るだけで、背中をさするだけで伝わる思いもある。
 
コミュニケーションは〈言葉〉だけで成るものではないはずだ。
 
ただ、〈言葉〉は人間の全てではないけれど、〈わたし〉を形づくるものの一つだと思う。
そして、はやり、〈言葉〉は尊厳であり、自分を守り、また、自分を開く、強力な道具だと思うのだ。
 
哲学対話の後半、絵本をもう一度、松川さんの読み聞かせで皆さんと一緒に読んだ。
最初に読んだ時と違う力を持って、入ってくる絵と言葉たち。
 
読み聞かせ後、「最初、わたしは ひとりだった」の箇所を印象に残った箇所として挙げておられた方の言葉をきっかけに、その文と「あなたは 赤ん坊のときは、わたしのことを 知らなかった。そのうち、少しずつ 少しずつ わかるように なってきたはず。でも、年をとると、わたしをわすれはじめる」の箇所、そして、「わたしが いるから、人が人になる」という言葉がふと私の中で繋がってきた。
 
〈わたし〉はひとりでこの世に生まれて、ひとりでこの世から去る。
人が人になるということは、他者と出会い、関わり、別れる、その繰り返しなのではないか。
他者との繋がりが生まれ、違いが明らかになる、他者との出会いと別れが〈わたし〉を形づくり、また変化させていく。
 
その営みの一つが〈言葉〉だ。
 
発した〈言葉〉が受け取られ、発せられた〈言葉〉を受け取ることが、〈わたし〉を形作っていく。
 
 
明日からも日常は続いていく。
言葉にならない言葉を聴き、その人だけが紡ぐ言葉を大切にしたい。
 
この本に出会えて、哲学カフェに参加できてよかった。
スロウな本屋さん、松川えりさん、参加者の皆さま、濃く深い二時間をありがとうございました!
 
 
追記:なぜ近い人に強い言葉やひどい言葉を使ってしまうのか、と家族の文化の問題はまたゆっくり考えたい…!

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