感謝や尊敬が邪魔になるとき
感謝や尊敬が邪魔になる時がある。友達からのLINE「元気してた?」 「なんとか元気にやっているよ、ありがとう」と平気なふりして返事をする。確かに、それなりに元気なんだけど、職場からの電話で飛び起きる休日は最悪な気分。
とても恵まれた環境で生きて、仕事をして、周りからみたら「恵まれているのに不平不満をいうのかよ」と思われるだろうな。お昼ご飯の支度をするほど、体力はなくてぼうっとカーテンが揺れるのを眺めて息を吐く。
そりゃあ、感謝も尊敬も、心にはあるし、恵まれている事は重々承知だ。だけど、なんだろう。この違和感は。言葉にすれば簡単で、不平不満に消化するのは簡単で。私は、休日を消化して、仕事も消化して、生きる事を消化して。
感謝や尊敬があるからこそ、この違和感を人に伝える事に抵抗がある。だけど、自分の苦しさや、違和感を、感謝や尊敬が邪魔して抑圧して、それでいいのだろうか。私のこの気持ちはどこにいってしまうのだろうか。
あ、元気だと友達には伝えたけど、相変わらずの気分のジェットコースターはあるし。仕事の夢で起きて、夜中に起きて、発作はやっぱり相変わらず。食べ物もそんなに食べられないし、体重は減っている。それが、私の相変わらずの当たり前だから、「なんとか元気」という言葉になる。
自分が良い人だとは、一ミリも思わないけれど、素直に不平不満を言って、我儘を言えたなら、もっと楽になるのだろうか。よく分からない。すぐに「これ嫌だなぁ」「あの人嫌だなぁ」と言える人が私の周りにもいる。上司は怒るかもしれないけれど、私はその人が羨ましい。拒否が表に出せる人は私から見ると強い。
自動笑顔スイッチがあるのかもしれない、と思うほどに私は笑顔がはりついていると思うし、我ながら変だな、おかしいな、と思うけれど、ずっとそうやって生きてきたから自分の顔が分からない。
この文章を現実に関わっている人がみたらビックリするかもしれない。でもこれが本当の私だと思う。
感謝や尊敬はしているけれどさ、たまに邪魔くさくて、馬鹿馬鹿しく感じる。反抗期が奥底で地味に地味に続いているような。やっぱり私は良い人にはなれない。感謝や尊敬がある人が良い人かどうかは分からないけれど。
今日は、休日。休日出勤したから休み。職場からの電話が鳴っている。出たくないけれど、私は悪い人だから平然とした声で電話に出て、この画面を仕事用のウィンドウに切り替えるだろう。馬鹿みたいに頭を下げて「しょうがない」と気休めの覚悟を噛み締めて、いつできたか分からないアザだらけの足で踏ん張る。
「お疲れ様です」
「お先に失礼致します」