ぼっちでいる事を選んでいるのかもしれない
人間関係の構築が苦手だ。嫌いだ、と言い換えてもいいかもしれない。小学校では一度いじめを経験した。(いじめっ子よりも成績がよかったのが気に食わなかったらしい。)「優しい」とか「人当たりがいい」と言われてる人が皮を一枚剥いだら全然そうじゃなかったりとか、内側に入れた人間には無頓着だったりとか。自分は都合いい2番手で決して立ち入れない親友がいたりとか。そういう例も幾度となく経験してきた。それは大人に近づくにつれて目にする数が増え、結局どこに行ってもどんな場所でも付き纏うものなんだな、といつしか悟った。
大学生になって、3つのサークルに所属した。バイト先で知り合った人間も含めると知り合いは100人くらいいたかもしれない。それでも友達の数は10にも満たなかった。そして気がつけば半分以下になっていた。
「ぼっちだった」
そう述べる事や言われる事が多いが、今思い返せば選んでぼっちになっていた気がする。
わたしにはひとつ特技がある。人の表情や話し方でその人のその時の感情がすぐにわかる。裏側にある複雑な感情とか背景まで読み取れる場合もある。そして大体の場合当たる。高校の頃には身についていた。
初見の人でもできる場合もある。LINEで来た文章も知り合いなら「今日はなんか嫌なことがあったな」「今日は機嫌がいいなあー昨日飲んだのか」などの判断がすぐにできる。けどそこまで読まなくてもあからさまな場合が多い。そして気づく側だからこそ気を遣う事が多かった。分かっていても気に食わなくて反発することも多かった。だから人間といるのが嫌いだった。人といて自分の精神が安定することがほとんどないから。フラストレーションもストレスも人間関係がほとんど原因だから。
わたしが思っている以上に他人というのは浅はかだ。優しさなんてすぐに消えてしまうしうわべだけのものだ。人間関係なんていうが結局は他人同士でしかない。都合よく使われるのがオチだ。優しさを無条件に振り撒く人はそれに対する見返りや対価を求めている場合が多い。うわべに騙されちゃいけない。本質が見えるまで信用してはいけない。
経験上ずっと思っている。わたしの根底にこびりついている多分簡単には変えられない価値観だ。
軽蔑とかに近いものがあるのかもしれない。嫉妬とか羨望も混ざっているかもしれない。人に以前「お前は人を見下している」と言われたがそれはあながち間違いではないと思う。見え透いているものに対して軽蔑せずにいられない事が多い。本質を見抜けない人間にも腹が立つ。なんで見逃すのか。なんでわからないのか。なんで都合のいいところだけ見てるのか。なんでうわべに踊らされてることに気づかないのか。なんでそういううわべで生きる人間ばかりが評価されるのか。常にぐちゃぐちゃになって考えている。
そうしてわたしは現在も概ね社会不適合者である。多分普通に就職活動をする事も就職をする事も無理だろうと半ば諦めている。人間の顔を見るのが怖い。人間に負の感情ばかり抱くのが怖い。そういう自分も嫌だ。
わたしがよくいう言葉がある。
「わたしを好きでいてくれる人には優しくしたいしもらった愛を返したい」「わたしを好きでいてくれる人の絶対的な味方でいたい」
アイドルになって人間関係にひとつ変化が生まれた。自分から構築するのではなく、「相手がくれたものに返す」という新しい形ができた。これまでは一方的に気を遣うことや尽くす事が多かった。だからこそアイドルとオタクの関係に初めて「対等」が見えた気がした。それは気のせいかもしれないし間違いかもしれない。都合がいい考え方かもしれない。お金が絡んでいるから正しくはないのかもしれない。それでもわたしは現に救われている。
これがわたしがよくいう言葉の裏側である。
これからも多分ずっと変わらない。わたしができる精一杯の人間関係がこの言葉なのである。
実は大学時代VTuberになりたかった。小学生みたいな夢。人間関係と一番遠いところにある存在な気がしたから。自分を表現しつつ他人が入ってこない空間がある気がしていたから。
そして今似て非なるものになった。自分を好いてくれる一方的じゃない関係の構築ができる。そして普段ぼっちで人生できてることに異常なまでに喜びを感じている。いつもどこか生き苦しさとフラストレーションを抱えてるが、どこに行ったって同じようなものだろう。あとは一人暮らしできたらもうちょっと希死念慮も薄れるかもしれない。ので早くそれになりたい。
もうちょっと生きるしかない。