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大林宣彦のイリュージョン(映画『青春デンデケデケデケ』レビュー)

私は高校生の頃、軽音楽部だった。今思えば、激しく勘違いをしていた時期で我ながら笑える。なにを勘違いしていたかと言えば、皆が経験していることだとは思うが、どう低く見積もっても、自分は格好良いという自己評価が、世間の人の評価の100倍位あった気がする。バンドをやろうなんて人間は、自己顕示欲が強く、マトモじゃないことは言わずもがなだが、思い返すと恥ずかしい思い出ばかりだ。まさに現実を直視せず、夢の中を生きていた時期だと思う。ただ、恥ずかしいから悪かったのかと言われればそうでもない。勘違いしながら生きてはいたが、それなりに充実していたし、バンドをやっていたからこその仲間もできたし、バンドを通じて色んな人生経験をさせてもらったと思っている。そんな私の青春時代よりは、かなり上等な部類の高校生バンドマンが主人公の「青春デンデケデケデケ」という映画を紹介したい。

この映画は、1991年に刊行された芦原すなお原作の同名小説の映画化だ。物語の舞台は1960年代の香川県観音寺市。観音寺市は、原作者である芦原すなおの故郷である。そのため、ロケ地も観音寺市を中心に行われた。さらに観音寺市は、この映画の監督大林宣彦の故郷、広島県尾道市とも近い。両地はちょうど瀬田内海を挟んで反対側に位置している。そのためか、大林監督の『転校生』、『時をかける少女』、『さびしんぼう』の尾道三部作ともどこか通じる雰囲気が漂っている。脚本は、大林監督と多数組んでいる石森史郎が担当。音楽監督は今やすっかりジブリの人の印象だが、久石嬢が務めている。俳優陣の方は、主人公の高校生藤原竹良(チックン)役に、現在は刑事モノなどの数多くのテレビドラマで、素晴らしいバイプレイヤーぶりを発揮している林泰文が演じている。また主人公のチックンが結成するバンド「ロッキングフォースメン」のリードギター役は、なんと若き日の浅野忠信だ。脇を固める大人の俳優陣は、岸部一徳、尾美としのり、佐野史郎、原ひさ子、南野陽子など豪華な顔ぶれである。

さらにこの映画の要素で忘れてはならないのは、演奏指導のエド山口の存在だろう。主人公のバンド「ロッキングフォースメン」の演奏、ベンチャーズやチャック・ベリーのコピー演奏が、この映画の重要な要素になっているのだが、その演奏はとても上手い。そして格好イイ。それもそのはずで、エド山口は、自らのバンドを「エド山口&東京ベンチャーズ」と名付けるほどベンチャーズに造形が深い。(実は最近、このロッキングフォースメンの演奏は、エド山口が録り直しているということを自身のYoutube暴露しているが、)このサウンドを聞くだけでも価値ある映画だ。

ストーリーは、1960年代の観音寺市、主人公チックンは高校入学前の春休みに、ラジオから聞こえてきたベンチャーズの「デンデケデケデケ」というギターサウンドに、下半身の男性シンボルが反応するほどの衝撃を受ける。そして高校へ入学すると、すぐバンドを結成し、高校生活をバンド活動を中心に過ごしていく。その高校3年間、バンド活動を通じて、友人関係や恋愛関係を発展させ、大人になっていく姿を描く青春ストーリーだ。

バンドを媒介にして、今までの自分の交友範囲外の友人が出来たり、楽器を買うために生まれて初めてアルバイトをする。アルバイト先には、バイクに乗る年上のお兄さんがいて、大人の遊びを教えてくれようとする。バンドで合宿練習をして友情を深める。女の子にモテた勘違いをしたり、バンドを見て自分に好意を寄せる女の子とデートをしたりするなど、誰もが経験しそうな様々な青春エピソードが散りばめらている。

そんなストーリーで進むこの映画の特徴は、時に主人公が画面の観客に語りかけたり、主人公の夢の中が突然現れたり、登場人物たちの未来の姿が出てきたり、想像のシーンが現実に割り込んくる。つまりリアルとイリュージョンが混在して進んでいく。その混在は時にはセリフで直接表現される。岸辺一徳演じる英語教師、寺内先生の「人生はホンマとウソでできている」というセリフが作品中数回出現する。ホンマとは現実、ウソは夢や想像力の世界だろう。その現実と夢を行ったり来たりすることがこの映画の面白さだ。そしてそんなホンマとウソを表現するのに、大林監督の演出が非常に効果的だった。

実のところ私は、この映画を見る前まで、大林宣彦監督の作品にあまり良いイメージがなかった。大林作品の特徴である揺れる手持ちカメラ、不必要なほど数多くバツバツ切れる編集。それはまるで、私が高校生の頃、学校の映画研究部、いわゆる「映研」が文化祭で上映していた16milフィルムのチープな特撮映画を見ているようで好きになれなかった。ところが、この作品をみて、そのチープな特撮が実は、夢、イリュージョン、リアルではないが確実に他人が理解できるモノを表現することに、こんなに適しているものはないという感想に変わった。なぜか?これを落語の「考え落ち」で説明したい。落語には、「考え落ち」というものがある。その名の通り、ちょっと考えないと分からない落ちのことだ。例えば『頭山』という話がある。

サクランボを種ごと食べてしまった男の頭から芽が生えてきて、大きな桜の木になった。その頭の桜で近所の人が花見をする。男は、頭の上がうるさくてたまらず、桜の木を引っこ抜いて、頭に大穴が開いてしまう。今度はこの穴に雨水がたまって大きな池になり、近所の人たちが船で魚釣りを始めだす。釣り針をまぶたや鼻の穴に引っ掛けられた男は、怒り心頭に達し、自分で自分の頭の穴の池に身を投げて死んでしまう。

こんなストーリーだ。いかがだろう。決して現実ではありえないが、ありありと情景が浮かぶし、面白さが共有出来る。落語は演者が落語家だけ。舞台装置も音楽もない。つまり演出はとてもチープなものだ。しかし、とてもチープな演出だからこそ、このイリュージョンが表現できるのだと思う。かの落語の大家、立川談志が言った「落語とはイリュージョンである」の言葉通りだ。

この良い意味でのチープさが、人間の想像力の介入を容易にし、落語や、大林宣彦演出が、夢やイリュージョンを観客の脳内に届ける技なのだと思う。つまり、詳細な説明やリアリズムは、人間の想像力の入る隙間を失くしてしまう。チープさとは、上手くやると人間の想像力の入る隙間を生み出す場合があるのだ。

さらにこのようなイリュージョンがこの映画に最適なのは、青春時代を描く映画だからだ。何故なら青春時代とは、ホンマとウソが1人の人間の中で混沌としている時代である。幼児期よりは現実世界の認識は進んでいるが、成年期ほど現実世界にドップリはまっておらず、半分想像の世界に生きている時代である。また、ホンマではないが確実に他人が理解できるモノを共有出来る仲間が身近にいる、という非常に楽しい時期が青春時代だ。

この映画は、そんな想像力の力、想像力から生まれる行動力が現実世界に多大な影響を持つことを教えてくれる。そしてその力は、周りに伝染して巻き込み肥大していくことを教えてくれる。この映画を見る意義は、この想像力の再認識なのだと思う。青春時代は終わっても、想像力は終わらないのだから。


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