啓発への道程
ナイサロールの神秘的な教え
啓 発
啓発の哲学は、様々なグローランサのカルト、学舎、個人によって信奉されている。ラーショラン、ナイサロール、グバージ、そして時としてアーカットといった様々に認識される神格と関連するとされているが、啓発は厳密に言うなら信仰ではない。啓発には、入信者、侍祭、司祭といった位階はない。礼拝の儀式も無く、信者が利用できる精霊やルーン魔法も存在しない。啓発について、学者達は、その哲学の基本的な考えに同意しているわけではないし、その哲学を奉じる者の慣習や特別な賜物を認めているわけではない。
神話と歴史
この哲学を創始し、教え広めたのは、神々のうち最後に生まれた者、あるいは最初の混沌神とされるラーショランと呼ばれる神であると言われている。彼の神は、大暗黒の間のいずれかの時期にエントロピーの神に滅されたと言われている。
第一期の終わり頃、定命の者達は、“完璧なるもの”オセンタルカ、後に“輝ける者”ナイサロールと呼ばれる新たな神の創造に成功した。その後、その神はペローリアの人々から崇拝された。ジェナーテラの西方では、この神はグバージと呼ばれるようになるが、これは“裏切り者”“呪われるべき虚言者”という意味の卑語である。
この新しき神とその信者達は、「問う者」あるいは「謎かけ師」と呼ばれ、この哲学の彼等の解釈をジェナーテラの大部分に広めた。それは、クラロレラを除いて、ラーショランの教えのほとんどが、長期間、忘れ去られていたからである。
「解放者」たる“フマクトの息子”アーカットは、ナイサロールとその信奉者達と大いなる闘争を戦い抜き、三世代に渡ってその使命に従事し、最後の勝利を前に大地を横断する焼き尽くした轍を残していった。ほとんど誰もがこの神は滅ぼされたのだと信じた。彼の神の消滅後もその信奉者達が生き延びたかどうかについては諸説あるが、啓発の哲学が生き残ったことは疑いの余地はない。現在、ナイサロールはルナー帝国で公的に崇拝されているが、ある者は、第一期から現在に至るまで、グバージへの崇拝は秘密裏に続いていたと主張している。
第3期、赤の女神は大いなる道を歩み、その旅程において精霊界の虚空の影の更にその先を求めた。彼女はその影と出会い、打ち破ったが、その途中においてナイサロールによって啓発を受けた。以後、ナイサロールの信仰は、啓発の哲学も含め、赤の女神の信仰に不可欠なものとなった。その結果、この哲学はペローリア全土に広がり、それぞれ、啓発に関する独自の哲学を提唱する、幾つもの異なる信仰や学舎が存在する。ルナー帝国では、赤の女神、七母神、白の月の崇拝者の間でこの哲学は広く普及しており、それ以外にも多くの者が、この哲学の実践に手を染めている。
啓発されていることが公言されることは滅多になく、その影響力の大きさは定かではない。ペローリアが最も一般的だが、啓発はジェナーテラで広く知られており、特にクラロレラ、ラリオス、ジルステラ、ヴラロスでもそうである。また、「近しき者」、「パマールテラの友人達」も啓発されているのではないかと考えられている。
啓発の本質
啓発とは、宇宙についての特別な洞察を得ることである。この洞察力は、常にその個人の知覚と能力、そして世界の見方を完全に変えてしまう。啓発の洞察は様々な方法で身に付けられるが、最も広く知られているのはナイサロールの謎かけによる学習である。ナイサロールの謎かけで得られる神秘的な悟りは、世界とその中における自分の位置に対する認識を根本的に変化させる。洞察はまた、特定の詩やたとえ話、劇的な出来事、素晴らしい器物について思いを巡らすことで得られることもある。
ナイサロールの謎かけ
ナイサロールの謎かけは、それぞれ正しい質問と回答で構成されており、通常は広範な解説が伴っている。これらの質問と回答、そして解説は第2期、そして第3期のナイサロールに対する信仰が弾圧される中で、口伝によって受け継がれていたと考えられている。現在でも、口伝に拠る部分は大きいが、ルナー帝国においては、その幾つかは文書によって研究されている。最も一般に知られているものには、133の謎かけが記されているが、その他に謎かけの数が117個のものや144個のものがある。謎かけは、様々な技能に対応している(「登攀の謎かけ」、「盾攻撃の謎かけ」等)。
謎かけの一例;ナイサロールの謎かけ 第19番
謎かけ師は問う。
「高潔なる意志と高潔なる行いの違いは何だろうか」
この問いに対する者は、拳を自らの心臓の位置に当て、答える
「力なり」
この問いについての解説は、善意はそれだけでは実際には無価値であり、その善意を具現し得る力がなければ世に顕れないことを端的に述べている。行動という証によってのみ意志が認識され定義されることから、意志が必要であることを否定している。
さらに、解説では、物理的な力、精神の力、倫理の力、魔力等、複数の力とそれが相互に関連する性質を検証し、例を挙げて、全ての補助的な要素が欠如した場合の真の力の失敗を説明している。
結論として、無秩序な個人が善き行いを出来ないのは、自らの「力」を制御できていないからだと指摘している。そして、無秩序な個人が、どのようにして己の「力」を発見し、制御するのかについて、たとえ話を通して示し、その結果、意識されていなかった高潔な意志を、善き行いを通して明らかにするのである。
啓発への導入(一例)
エティーリズの司祭であるペリシッポスは、幸福に満ち溢れた第一期の時代のナイサロール信徒の歴史的な記録に並々ならぬ関心を抱いていた。「ナイサロールの謎かけ」に関する著作があると知り、知人・友人に広く問い合わせてみたが、貸し出したり、売りに出したりしているところは見つからなかった。しかし、嵐の季の始め、彼は旧知のペローリア人の商人、ドラチェマスから私的に夕食の招待を受けた。晩餐の宴において、ドラチェマスは、自分は啓発について詳しいのだと語った。そして、「ナイサロールの謎かけ、第1番」をペリシッポスに明かし、その問題と解答、解説を宴の中で話し合った。
ここでは、この第1番の謎かけを仮に「登攀の謎かけ」と呼ぶことにする。ペリシッポスは、この謎かけと解答と解説に十分に理解することはできなかった。自分の物わかりの悪さに落胆したペリシッポスは、商人にさらに説明してくれるよう求めたが、ドラチェマスは、「人によって別の謎かけから啓発を得ることもある」と言った。ペリシッポスは、ドラチェマスにもっと謎かけを教えてくれるよう迫ったが、彼は、それは啓発の妨げになると言い、「急いではならない」「焦ってはいけない」と断った。
啓発の秘密を悟ることに夢中になっていたペリシッポスは、同じ嵐の季の後半に、再びドラチェマスと晩餐を共にする機会を得た。ドラチェマスは、その晩餐の席において、「ナイサロールの謎かけ、第2番」を明かし、ペリシッポスはその謎かけに正しい答えを返すことができた。彼は、未だ啓発に至ってはいないが、その第一歩を踏み出したのだ。
特別な能力―啓発
啓発は、悟りに至った結果、ある種の能力を獲得する。これらの能力の正確な性質は、受けた啓発毎に異なるようであり、どのような教えを学んだのか(宗派によって異なる)、どれほどの教えを受けたのか、学んだ教えを啓発されたものがどれだけ受け入れたかが、その変化の要因となる。啓発された状態に抵抗したり、否定したりする者は、結果としてその能力の信頼性が低下したり、能力を持っていることを認識できなかったりする。グバージ戦争のあと、生き残ったナイサロールの謎かけ師の中には、彼等を狩りたてるアーカットから逃れるために、学んだことを意図的に忘却した者もいた。
啓発による能力は、主に多い順に以下の5つであり、啓発を受けた者は、ほとんどがこの5つの力のどれか、あるいは全てを持っている。啓発を受けた者は、必ずしもこの5つの能力に限らず、まったく別の力を持っている者もいるだろう。
啓発されたことによる能力の正確な性質と機能は、しばしば逆説的であり、論理的分析の対象とはならない。そのため、大抵の学者は、これらの能力は、個人がもつ性質の根本的な奇跡的編かを反映しているのではないか、あるいは何らかの形で神が授けたものではないか、と結論付けている(ただし、神の啓示の根源は明らかではない)。
1.秘密の知識。悟りに至った者は、混沌は、それ自体が悪でも敵でもないことを真実として知っている。これにより、混沌に対する生来の恐怖と、それを破壊しなければならないという強迫的な思いから解放される。同じく、混沌の生物を歪んだ信念から解放し、彼等の生を支配する憎しみを取り除く機会を与える。啓発は、このような気付きを与えてくれるが、他により強固な信念が介在している場合は、その個人が自分の生き方を変える必要はない。啓発は、しばしば、あらゆる種類の極端な行動、主張を控えるようになる傾向があるが、極端とは何かという定義は人によって異なる。
この気付きを呪いという者もいるが、啓発によって得られる能力としては最もありふれたものであり、啓発された者は、ほとんどがこの知識を持っている。
2.啓発を感知する能力。啓発された者だけが他の啓発された者を認識できる。これは、技能や感覚ではなく、啓発された者だけがもつ特別な知覚により、他者が啓発された状態を、非啓発者には感じることができない証拠から推測することができるのである。啓発された者がどの程度発見されやすいかは、啓発によってどれほどの能力を得ているかに左右される。能力を一つしか獲得していない者について、啓発されているかどうかを見抜くのは非常に困難である。この感知能力は、通常の会話をする距離で働く。
3.混沌あるいは法の技能や呪文による検知・感知に対する免疫。啓発されている者は、たとえ混沌の諸相を持っていたとしても、どんな種類の技能、呪文でも感知されない。
4.カルトの制約を無視する力。啓発された者の中には、個人に対して課せられるカルトの制約を、神からの報復を受けることなく無視出来る者がいる。例えば、啓発されたカイガー・リートールの崇拝者には、《火剣》の呪文を学び、唱えることができる。また、マルキオンの農夫は、魔道の全ての術を実践することができる。啓発された者は、通常の方法でフマクティの能力を得たり、祈祷師になったりしなければならない(悪なる男は報復精霊ではない)。しかし、啓発された者が、(例えば)フマクティの加護を得たならば、その者は、それに関連する加護を罰を受けることなく無視することができ、カルトの他の人々の不興を買う以外に悪い影響はない。
5.報復精霊に対する免疫。啓発された者は、たとえ、カルトの制約を無視したり、カルトの掟に従わなかったり、カルトを抜けたりしても、そのカルトの報復精霊の攻撃を受けることはない。ただし、神託については、啓発された者個人の行動が、カルトに影響を与えるものならば有効である。
6.他者を啓発する能力。啓発された者だけが、啓発の教えを適切かつ効果的に伝えることができる。
教えを正しく伝える方法を学ぶための正確なやり方は、教える者やその教え方によって異なる。1季に及ぶ学習、長い瞑想、または魔術的な手順が必要になるかもしれない。ナイサロールの謎かけ師の場合、ナイサロールの謎かけを教えるためには、それぞれ謎かけのために聖祝期の間に犠牲を捧げる必要がある。
内なる光の獲得(一例)
その後、ペリシッポスとドラチェマスは、より親密になり、多くの食事や謎かけを共にした。しかし、ドラチェマスは一度に複数の謎かけを解こうとしないため、悟りに達する過程はゆっくりと進んだ。
そして、ドラチェマスとの交友関係が3年目に及んだ頃、謎かけとその真意に気付いたペリシッポスは、ついに啓発に至った。
ペリシッポスは自分が啓発に至ったことに気付けているのだろうか。
ペリシッポスは、啓発されたドラチェマスと何度も食事や会話をしながら、ナイサロールと啓発について学んでいるので、この場合、自分の中で啓発に至る兆候を認識できるだろう。
ペリシッポスは、啓発の特別な力を手にしたのだろうか。彼は、新たに啓発された者として、まず、混沌はそれ自体が悪ではないという秘密の知識に気付く。次に、ペリシッポスは、他人の中にある啓発の兆候を感じ取れるようになる。ただ、彼が学んだ啓発の流派は、その教えが狭く、ドラチェマスによる独学の部分も大きいため、他のやり方で啓発を学んだ者について正しく感じ取るためには、やや困難が伴う。
ペリシッポスは、ドラチェマスと再び夕食を共にしたとき、彼の中に啓発の力が輝いているのを感じ取った。
望んでいない者が啓発に至ることはあるのか?
啓発についての歴史や哲学を知らない人でも、謎かけについて考えるだけで啓発に至ることは可能なのか? 啓発について意図的に拒否している者でも、ナイサロールの謎かけを聞くことで啓発されてしまうことはあるのか?
ナイサロールの謎かけのどれか一つに接しただけで、啓発に至ったと主張する者は何人もいる。ある者は、監禁され、ナイサロールの謎かけの朗読を聞かされたことで啓発されてしまったと言っている。こういった証言について、疑う余地はない。
しかし、啓発に至った者達の多くは、自ら望んで学んだり、考えたりすることで、自発的に啓発に至っている。また、啓発された者が、それは自ら望んだことではないと主張している場合でも、感情、精神、あるいは哲学等、様々な理由から、無意識のうちに啓発の神秘的な閃きを求め、受け入れることを望んでいたのではないかと考えられる。
教師がいなければ啓発に至れないのか?
伝統的には、啓発に至るためには、啓発を受けた教師に実際の教えを受けることが必要であり、ナイサロールの謎かけの記録を研究するだけでは不十分であるとされている。しかし、学者がナイサロールの謎かけを研究しているうちに啓発されたという証言は、いくつかある。これらの証言は、いずれも他の理由からその文書を研究した結果、意図せずに起こった事故であることを示唆している点で、特異と言える。啓発の秘密の力を得ることができると称して、原稿を売り付ける詐欺が横行している。書を読むだけで啓発されるという主張には、疑ってかかった方がよい。
啓発は公にはどのように受け取られているか
ジェナーテラではナイサロールとグバージの物語は広く知られている。ペローリアやクラロレラ以外の地域では、啓発は忌み嫌われており、奇妙な質問をする者は啓発されているのではないかと疑われることが多い。謎かけは、それ自体は普通の会話と変わらず、何が謎かけなのかは、啓発された者以外には判別不可能である。そのため、啓発の教えを受けているにも関わらず、それに気付かないまま啓発されてしまうことがある。
カルトの中には、混沌や混沌に汚染された存在を破壊することを自らの使命としているものもあり、ナイサロールやその信奉者を一般に敵視している。このようなカルトが混沌との戦いのために特化させた能力の中には、啓発された者には通用しないもの(例えば、ストーム・ブルの狂戦士による混沌感知の技能など)もあるが、そのようなカルトの信者は、奇妙な問いを発したり、あるいは哲学的な行動をする者に気付いたり、疑ったり、報告を受けたりした場合には、混沌のように思われるものが拡がってしまう前に、それを破壊するために、すぐに攻撃を仕掛けるかもしれない。
悟りに至る道程
ペリシッポスは、啓発に至った後は、憑りつかれたように啓発に関する難解な書物を読んだり、同じように啓発されている知り合いと哲学的な対話を交わしたりした。
ペリシッポスが学んだ啓発の流派は、世界の在り方にたいする認識の改変の他に、カルトの制約を無視する力、報復精霊への耐性、混沌を感知する技能や検知する呪文への耐性も与えるものだった。ペリシッポスが、これらの力に気付くためには、自らこれらの力を試してみる必要がある(彼が、自ら混沌の穢れを身にまとうことはないだろうが)。
この流派では、他人を啓発に導く能力は、優れた教え手の指導によってのみ得られるものだった。ドラチェマスは、エルス・アストの碩学アメラスから謎かけを学び、ペリシッポスも、この深遠なる賢者の下で学ぶために巡礼の旅にでることを待望している。もちろん、アメラスが現在では、他所に移っているかもしれないし、狂信的なウロックスに殺されていたり、この流派を捨て、別の啓発の流派に乗り換えているかもしれない。
啓発のゲーム的表現
グローランサのほとんどの場所では、混沌=悪と教条的信じられており、それに異を唱えるのは、いわば、殺人や近親相姦のようなタブー的行為をまるで問題無いとするようなものである。だから、グローランサにおいて啓発されるということは、衝撃的で発狂も同然の行いなのである。一度、啓発されると後戻りできない。この衝撃的な啓示を受けてなお、正常という仮面を被り続けることができる者は、最も強い心と意志を持つ者だけである。大虐殺の実行者、狂える予言者、錯乱、強迫観念など、あらゆる種類の狂気に囚われた者が、啓発によって生じる深刻な混乱の帰結である。
啓発に関する注意点
ルナーとの繋がり
赤い月を崇拝する者は、ナイサロールのカルトに入信する必要も混沌の穢れを負う必要もない。ルナーの学究や謎かけ師は、一般人には混沌を避けるように注意を促し、訓練された哲人や魔道士だけは混沌の力に内在する危険に対し安全に対処できると説明する。
裏側
ドラストールと光の帝国による第一期の歴史においては、ナイサロールの教えは黄金時代の平和と悟りの源泉であると一般に言われている。しかし、現在の一般的な考え方では、啓発は不吉で堕落した信仰であり、破壊的な混沌の黒い力と手を結んだと認識されている。現在、このように啓発が評価される所以は、ナイサロールと啓発を迫害した第一期の“破壊者”アーカットの教えと行動にある。
アーカットは、ナイサロールは裏切り者であり、約束を反故にする者だと主張した。アーカットは、ナイサロールに追従するものは善と悪を見分けることができず、そのため、自分の力と信念によって、必然的に堕落すると述べた。アーカットは、ナイサロールの暗黒面は、期待されるような、単なる混沌との調和などではないと教えた。それは、より巧みな誘惑である。混沌と法の間に、究極的な違いはないと信じている者は、個人的な倫理と個人的な欲望の間に、同様に、しかし誤った相似を為すかもしれず、前者に究極的な違いがないのなら、後者もそうではないのかと推論する。しかし、法も混沌も創造を異なる方法で成し、全ての創造性は存在の要素の協調に基づく。個人的な欲望だけで行動する者は、自然の制約を認めない。協調と創造性がないなら、その存在はいわば寄生虫であり、何も引き換えにすることなく、他人が生み出したものを利用したり、盗んだりして生きていくことになる。自分の種や文化の総体を増やすために、そのような者ができることはない。
様々な哲学者は、アーカットと彼の大敵グバージとの闘争の究極の皮肉は、アーカット自身が啓発を受けていたことだと指摘している。しかし、アーカットが啓発されていたという証拠は数多いが、どれも決定的なものではなく、いまだに多くの議論がなされている。アーカットの生涯について信頼できる資料は、今日では存在しない。アーカットのカルトは第二期に絶滅したが、ナイサロールの邪悪で堕落した性質と啓発の教えは、第三期のほとんど全てのジェナーテラ文化に根強く残っている。
啓発の何が問題なのか?
先に述べたような、啓発に関する中立的な説明からは、グローランサのほとんどの者が啓発に対して抱いている普遍的な恐怖や嫌悪感は読み取れない。実際、啓発を受けるために、恐ろしい混沌のカルトに参加したり、非道な犯罪に手を染めたりする必要は無い。実際、ルナー帝国には、啓発は誰もが最終的に到達すべき悟りの状態であると主張する哲学者が多く存在する。
しかし、ほとんど全てのグローランサの住人達は、あらゆる形態の混沌と戦い、啓発を切実な脅威とみなしている。代表的なグローランサの文化の視点を理解するために、マルキオンの賢者であるフルンス・ヴィ・オスボーンの言葉を引用する。
「ナイサロールの支配の下で、啓発のいわゆる暗黒面が光の面を駆逐することが明らかになった。ドラストールから来た謎かけ師達がラリオスを訪れた時、彼等は善良だった。彼等は子供を愛し、無知な人々に叡智を与え、敵を友に変えた。しかし、セシュネラが彼等の導きに抵抗を示すと、同じ謎かけ師達が、人為的に疫病を広め、何千もの人々を死に追いやった。そして、その病気を「癒す」こと(単に流行を止めただけだが)で、セシュネラで多くの信者を獲得したのだ。ラリオスでは、あれほど善良に振舞った人達が、なぜ、セシュネラでは偽善の怪物になってしまったのか?」
「啓発は、その性質上、そのような帰結が必然である。啓発を受けた者は、倫理、道徳、神話、神、魔術、そして世界を自己中心的に捉えている。彼を律する唯一の普遍的な道徳律は彼自身の意志であるため、他者の必要性を無視する傾向は抗い難いものがある。啓発された者が利己的であれば、他者を自らの目的を達成するための道具と見なす。啓発を受けた者が、仮に啓発される前は善良であったとしても、今では他者の最善が何かを自分は知っていると考え、他者の道徳を自分の道徳で書き換え、他者を「本当に幸せにする」ために必要だと考えることをするようになる。これがセシュネラで起こったことである。謎かけ師は、セシュネラの住人がナイサロールの黄金の支配の下で生きる方が良い事を知っていたので、セシュネラ人のことを思って、彼等に恐ろしい死をばら撒いたのだ。このような慈悲は、いわゆる「暗黒面」の行き過ぎた最悪の事態と同じくらい恐ろしい。」
「現在、ルナー帝国は、啓発を支持している。帝国の支配下では、全ての人々が幸福を享受できると主張する。では、問おう―クリムゾンバットはおとぎ噺なのか? バットはおそらく市民を守るのだろう―しかし、その裏で、どれだけの人が貪り喰われたのか? 噂が囁くのはルナー帝国に充満する恐怖だ。吸血鬼だけで編成された軍団が、次の戦争のために訓練されている。暗殺者共が古き名誉ある家系を滅ぼした。混沌の剣闘士は、見世物に飢えた大衆を満足させるために非情な闘いに明け暮れる。殺人者と売春婦は神として崇拝されている。啓発を安易に扱えるようになった帝国は、世界にとってグバージの闇の王国に匹敵する大きな脅威となった。そして、実際に帝国の脅威は増大を続けている。なぜなら、その脅威に抗うアーカットは未だ現れていないからである」
ナイサロール、グバージ、そしてアーカットの謎
アーカットは、ナイサロール=グバージとその邪悪な光の帝国を滅ぼすために多大な苦難を味わってその使命を果たした、時代を代表する偉大な英雄として広く評価されている。アーカットの人生に含まれる真の閃きと教訓を疑う者はほとんどいない。その数少ない疑いを書き残した一人が、懐疑論者ヌミドスである。以下の引用は、彼の『瞑想録』からのものである。
「アーカットは、ナイサロールと啓発の大敵だったが、彼自身も啓発されていた。」
「疑問だらけだ。」
「アーカットは、単に啓発された道具だったのか? アーカットは、ナイサロールの望むままに大陸を荒らしまわったということなのか? あの戦いは、大暗黒以来の混沌の理想と原則を最大に具現化したものではないのか?」
「あの戦いを物語るすべての伝説において、アーカットとナイサロールは、奇跡の都の正義の塔において最後の決戦をするに至る。そして、その決着についても語られる結末はただ一つ、どちらか一方だけが勝ち残った。ナイサロールを引き裂き、バラバラにした肉体を誰も知らぬ場所に埋めたのは“勝利者”アーカットだったのか? それとも、実は生き残ったナイサロールがアーカットに化けた姿なのか?」
「そして、アーカットが、敗北するたびに、別の姿になって現れたのだとしたら、ラルツァカークや赤の女神をそこに重ねるのはおかしなことだろうか? 歴史という劇場で帝国の激動を目の当たりにしながら、時代の英雄の登場を待望するなら、その舞台の袖にアーカットを探してしまうのは不思議なことだろうか?」