彼の勝ち
むかし昔の夏。
大学のゼミの飲み会にて。
隣に座った年上の男友達から耳元でささやかれた言葉。
「ねえ、キスしようよ。」
彼はかなり酔っていて、自分がどれだけ頑張っても教授には認めてもらえないことをぼやいていた。
3年生で編入してきて、1年生の私達に交じっての講義。
他大学の他学部からきたので、今まで学んできたものとは全く違う分野のことを必死になって勉強していた。
オレは、頑張っているのになぁ。
みんなの前であんな言い方しなくたっていいのになぁ。
あいつ(教授)の白髪を全部むしってやりたいよ。
普段の彼はそんなことを言うタイプではなく、クールで、優秀だった。
よほどつらかったのだろう。
彼がこれほど酔っぱらっている姿を見たことがなく、その場にいたみんながそれを面白がっている空気が流れていた。
「えっ?!」
びっくりして、一瞬どうしようかと迷った。……したことないし。
その時自分には恋人もいなくて、彼のことが少し気になっていた。
酔っているし、これ以上、普通じゃない彼を晒してはならぬ。
「しないでおこう、お互いのために。」
静かに返すと、間髪入れずに
「じゃあ、抱きしめさせて。」
え?あ、あっ、はい、それくらいならどうぞと座ったまま抱きしめてもらったのだが、私にとって、それは家族以外の異性との〝初抱きしめ”だったので(この当時は「ハグ」というワードが日常にない)冷静を装っていたが、心臓が飛び出そうだった。
周りは、私達が抱き合っているのに、誰も何も言わず、突っ込みも冷やかしもせず、見て見ぬふりをしてくれていた。
数秒抱き合って離れた後は、普通の会話をしていたと思う。
◇◇◇◇◇◇
後日、彼から
「めちゃくちゃ酔っぱらってて何も憶えてないんだ。ほんと、ごめん。」
丁寧に謝られたのだけれど、
ぜったい憶えてるな。
直感でそう思った。
悲しいなぁ。
ぜんぶ忘れていることにしたいのか。
ほら、しなくてよかったでしょお互いのために。
私の勝ちね、と
その時は負け惜しみのように思うしかなかったけれど。
今も忘れられないのは、
彼の勝ちなのかしらと思う夏の日。
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