千年紀末に降る雪は
人間には癖というものがありまして、なんでこんな癖が自分にあるのかなんて考えながらもすこし愛着を持っちゃたりね。よく物を捨てたり空っぽにしたりするのですが、当時は飽きっぽいだけだと思っていました。やはり過去の偉人はすごいもので、それにもしっかり理由があったのです。それがずばり禅宗に通ずる考えです。枯山水に代表するいわゆる「寂び」の精神。そこにないことで、何かを感じるのです。
気まぐれで10万近くはたいてオーディオ買ったのですが、その素晴らしい音響環境に身を悶えさせていた頃ふとそのオーディオが要らなくなってしまったのです。正確には音楽を聞くのが好きすぎて音楽のない音楽を楽しみたかったのですね。ショートケーキを食べてばかりいたらチョコレートケーキも食べたくなってしまうのと同じです。僕にとっては音楽がある環境も、音楽がない環境も、音楽を楽しむ一環なのです。そして、オーディオを知人に譲ってしばらくは音楽のない音楽生活を楽しみました。どう楽しんだかは省くとして、そういう自分の癖は「寂び」と関連していいたのでしょう。歌人の藤原定家の歌でこんなのがあります。
見渡せば花ももみじもなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ
おかしな話だとは思いませんか?秋の夕暮れ、そこにあるのは苫屋だけ。あとはなんにもない、これ大事、“なに”もないのです。それなのにわざわざ「花ももみじ」もないと言う。言ってしまえば、鳥も木も雲もないものはキリなく挙げることが出来るのに、敢えて「花ももみじ」もないと表現する。なにもないところからこの歌人は巧みな表現でそこに花ともみじを存在させたのです。これが私のオーディオを手放した理由を全く説明させます。「引き算」の美学です。この歌に強く共感致します。
こういう自分の何気ない癖がしっかりと哲学を持って機能していたことに感動します。恥ずかしい話、自分の家の宗派が曹洞宗であることを知ったのは最近で、それまでは興味がなく知らなかったのです。しかし、こういう「引き算」の美学は自分が禅宗であることを知らずとも実践していて、そうした偶然という言葉がぴったりなのか不安ですが、自分の癖が収斂していく感覚は得も言われぬ感覚でこのためだけに人生を生きていると言っても過言でない。
穴もそうです。なんの違和感もなくみなさん穴を概念として使用していますが、では穴とはなんでしょう。例えば蓋の空いたマンホールがいい例です。それは穴でしょうが、そこになにがあるのでしょうか。何もないから穴なのですが、なにもないのならその蓋の空いたマンホールの側に立って空を仰いでも雲とあなたの間には同じように何もないでしょう。しかし、その間に私たちは穴を感じることはありません。強いて言うなら私たちはマンホールの淵からかろうじて穴を感じるのです。こうなるとおかしな話です。穴とはマンホールのように丸い何もない空間ではなくマンホールの淵の存在に依存して存在していて、つまり私たちはマンホールの淵を穴と呼んでいたのです。穴とはとても深いです。ここにも「引き算」の美学が関係しているように思えます。
シュルレアリスムに見られる無意識による客体の並列、そのように自分の好きなように生きて選んでいたはずなのに、すべてが自分のルーツをかってに歩んでいた。こんなことを勉強して気づくのです。こうなると、なにか認知できない巨大な存在を認めざるを得ないように思えるのですが、みなさんはこのような体験があるでしょう。
私がなんとなく冬が好きであったのも、すぐにアカウントを消してしまうのにも、こうした理由があったのです。冬が好きというのはこの季節がいちばん「寂び」の働く季節であり、アカウントを消すのはないからこそ存在を感じるからなのです。
こう、自分が日頃感じていたことを誰かが文章で体系化してくれるのを知るととてもすっきりしますね。頭の良い人は書物を読んで実感を理解できるのでしょうが、私は読解力がないので、実感から書物の理解という順番でないといけません。だからいろんなことを実感することを強いられています!