ロマンティック街道

 がむしゃらに好きな本ってありますよね。内容は大切ですが物質的に好きになることもしばしば。装飾だったりタイトルだったりが理由で。『吐き気―ある強烈な感覚の理論と歴史』って本が私にとってのそれにあたるわけですが、内容なんてほとんど理解してませんよ、著者には失礼ですが。私には難しい。これ美学の本なんですね。ここ250年のテクストから「吐き気」を言説しているものを研究して理論立てていくわけですが、なんか文章に使われている語彙とか、なんかすごい一文とかを見た目に楽しんでいます。
 甘みと苦味を無理やり快・不快に分けるとしたら、まあ甘み=快・苦味=不快と分けるのが一般的ですよね。苦いのは不快である。でも、当然ですが「極度に甘いモノは不快である」んです。これ、美学的観点からしたら大切なことで、快を強調すると不快になるんですね。とても不条理ではないですか。どれだけ綺麗で多くの人間から賞賛されているクラッシク音楽も耳が破裂せんばかりに音量上げたら圧倒的に不快なのと同じ事です。どれだけ不可欠だといっても塩を過剰に摂取すると体を壊してしまうように。さて、貴様は私が次に言わんとしていることがお分かりかと思いますが、これ逆に言うと「極度に苦いモノは快である」という推論が立てられるのですね。つまりですよ、不快を強調すると快になるのでは私は考えたのです。私にとっての不快とはもちろんただ唯一一つ、私自身です。これには私も困った。私が快を得るためには私が不快だと思っている私を強調せねばならない。とどのつまり、この顔立ちを強調せよと(なぜなら私の一番キライな箇所が他でもないこの顔なのだから!)。これは逆説的ナルシシズムですね。よく言うじゃないですか、自意識過剰な奴がいて、誰かが俺を笑っているんだって嘆いては、そんな奴に誰もお前なんて見てねえよという問答。つまり一見自虐しているようでみんなが私に注目しているというナルシシズムがそこには隠れているのですね。もちろん本当に強迫性な例外もありますが。というかどちらかと言うと、このナルシシズムの方が例外の方ですね。私が快を得るにはその逆説的ナルシシズムが手がかりとなりそうです。
 吐き気とは「非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字通りの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である」と華麗に定義づけます。そこには自分とは相容れないものに対する強制的防衛とあり、人間に備わった緊急脱出スイッチ的な機能を仄めかすのです。ん~、こんな私にもそんな便利機能があったなんて。あ、ただアレですよ、自分で指を突っ込む嘔吐反射はまた別問題ですよ。痙攣的な面では価値のあるものですが、嘔吐的には問題が変わってきます。
 エドワード・ホールという人類文化学者の造語に「エルボーディスタンス」というのがあります。日本語訳では「密接距離」とされています。まあ、つまり肘から届く距離ってことで、とても近いってニュアンスですね。人類文化学者の言葉ですからその距離は人と人の物理的距離のことです。愛撫や格闘とかする場合はこの距離に相当しています。吐き気は体内に侵入した歓迎しないものを対象とします。精神的な面で言ったら「エルボーディスタンス」に侵入した人間に対して発生しましょう。嫌いな奴が近づいたらゲロを吐いちゃいましょうよ。

 相変わらず論点のまとまらない文章で。まあ、吐き気がしないのだから、許容出来る範囲です。


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