『バラックシップ流離譚』 影を拾う・1

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「ヤバい。ダルい」

 シャービィ・グランソールは、埃っぽい部屋の底で呻いた。
 睡眠欲を満たせるだけ満たしたはずなのに、爽やかさは皆無だった。
 雑然とした室内に、窓から入る光が差している。
 脱ぎ散らかされた衣服、食べ物の包み紙、読みかけで放置された本。
 住居というよりは、巣と呼んだほうがふさわしい惨状である。
 いったいいつから、こんなふうになってしまったのだろう。
 昔はもうちょっとちゃんとしていたような気もするが、もはや思い出すのも困難《億劫》な彼方の記憶だ。
 テーブルの上にあった残り物を腹に詰めたのち、これからどうしようかと考える。
 なにも思いつかなかったので、とりあえずシャービィは出かけることにした。
 時刻でいえば昼頃のはずだが、頭上から降り注ぐクリスタルの光がやけに眩しい。
 のったり、のったり。まるで病人のように覚束ない足取りで進む。
 いくら暇を持て余しているとはいえ、さすがにだらけすぎだろう。
 こんな調子だから、仲間からもなんとなく距離を置かれてしまうのだ。
 通りからの喧騒や、子どもたちの甲高い声が徐々に頭に浸透していく。
 覚醒までもうすこし。よし、その調子。がんばれがんばれ。
 と、そこで足許を猫っぽい動物が横切った。
 蹴飛ばすまいとしたシャーリーは、バランスを崩して転倒した。
 派手な音をたてて地面に接吻する。眠気は吹っ飛んだが、べつの意味で意識を失いそうになった。

「えひゃい……」

 涙目になって起きあがる。周囲から、ひそひそという囁き声が聞こえた。
 口内に砂利が混じって不快だったが、鼻血は出ていない。
 裾を払い、左右を見回すと、小さな背中が見えた。
 建物のあいだの狭い隙間の前にしゃがみ込んでいる。
 傍らには、使い古した革製の鞄が置かれていた。

「なにしてるの?」
「わっ!」

 少年は大きな声を上げ、ぺたんと尻もちをついた。
 おどかすつもりはなかったのだが。

「な、なんだ、お姉ちゃんか。地の底から悪魔の声が響いてきたのかと思った」
「うら若い乙女に対して失礼な言い草だな」

 彼は近所に住む少年で、名はマキトという。
 どちらかといえば物静かで、独りでよくわからない遊びをしていることも多い。
 そんなところに、シャービィとしてはなんとなくシンパシーを感じている。

「今日もヒマしてるの?」
「そうなんだよ。ヒマすぎて腐っちゃいそう」
「だったら部屋の掃除でもしたら? それか、料理でも覚えるか」
「あー……だめだめ。人間らしい暮らしとか、拒絶反応が出る」
「仕方ないなあ。またやろうか? 家事代行サービス」
「マジ助かります」

 シャービィは顔の前で合掌した。

「感謝の印にお代を上乗せしたいけど、手持ちが少ないから体で払ってもいい?」
「子供相手になにいってんだよ」

 マキトは心底呆れた顔をした。

「ところで、そこになんかいるの?」
「ええと……」

 マキトは言葉を濁した。
 どう説明すれば変人扱いされないか、思案しているといった風だ。
 その右手に動くものが握られているのを、シャービィは目に留めた。

「黒い……影?」
「見えるの!?」

 マキトは意外そうに目を見ひらいた。

「うん。まあ」

 少年の指につままれてもがいているそれは、生きている影とでも形容する他ないモノだった。
 黒く、輪郭は曖昧で、光に近づけると嫌がって暴れる。

「これがなんだか知ってる?」
「いや、知らない……でも、ときどき見かけるような気もする。でも、気にしたことはなかったな、そういえば」

 明確に意識したのはたしかに初めてなのだが、以前から存在には気づいていたという感じか。
 こんな奇妙な生物を見かけて、まったく気にならなかったというのも変な話だ。

「こっちの鞄って、もしかして……」
「うん。捕まえたヤツが入ってる」

 シャービィはごくりと唾を飲み込んだ。
 鞄の口に手をかけ、おそるおそるひらいてみると、黒いものがうじゃうじゃとひしめいているようすが目に飛び込んできた。

「うわ、すご……」
「気をつけて。逃がさないようにね」
「こいつら、噛みついたりする?」
「さあ……? しないと思うけど」
「ふぅん」

 シャービィは鞄に片方の手を突っ込んでみた。

「な、なにしてるんだよ、お姉ちゃん!」

 あまりに無造作だったためか、マキトは慌ててシャービィの腕に縋った。

「はやく! はやく抜いて!」
「ほぉ~ん、変な感じ。動いてる気配は感じるのに、ぜんぜんさわれない。それこそ本物の影みたくすり抜けちゃう」

 何度か鞄の中をかきまわしてから、ゆっくりと手を抜いた。
 さわれないのだから、当然怪我などはない。

「だ、大丈夫なの!?」
「うん。びっくりした?」
「したよ!」

 マキトのようすはおかしかったが、あまりからかっても可哀相だと思い、心の中でニヤつくに留めた。


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