人外視点のファースト・コンタクト 『シン・ウルトラマン』感想
『シン・ゴジラ』『シン・エヴァンゲリオン』に続くシン・シリーズ第三弾。
1966~67年に放送された『ウルトラマン』、いわゆる初代ウルトラマンのリメイクにして総集編。
今作では庵野秀明は脚本・総監修、その他諸々関わっているものの、監督は樋口真嗣が務めている。
『シン・ウルトラマン』は、公開前から多数の予想、考察、憶測がなされていた作品だ。
そもそもエヴァンゲリオンが庵野版ウルトラマンといってよい作品で、シン・ゴジラがそのエヴァに通じる設定が多数見られたということもあり、‟シン・ユニバース”とでも呼ぶべきなんらかの繋がりがあるのではないか、と思われていたのである。
ところが、蓋をあけてみれば本作は、至極まっとうな『ウルトラマン』のリメイクであり、映画枠でたまにTV放送されていた総集編を思わせる作りであった。
かろうじて主人公の名前「神永新二」と竹野内豊演じる「政府の男」が過去作との繋がりを匂わせる。
しかし、さすが特撮への造詣の深い作り手の作というべきか、単なる焼き直しに終わることなく、今の時代の観客の目にも新鮮で、ウルトラマン初心者、マニア双方が楽しめる、なかなかの良作になっていたように思う。
『ウルトラマン』は、もはや古典といってもよい作品で、視聴方法はいくつもあるにせよ、若い世代が0の状態からふれるにはなかなかハードルが高い。
そうした観客にとっては入口として機能し、対して古いファンには、かつては様々な制約により観ることの叶わなかった原典に近い映像、かつ古い作品にありがちなツッコミどころへの、メタ的な視点も絡めた理由付け(着ぐるみの使いまわしとかね)がなされていたり、作中に散りばめられた高密度の小ネタといった楽しみを提供してくれている。
(余談だが、ウルトラマンのパロディに、高遠るい『ミカるんX』という漫画作品がある。小ネタの密度でいえばシン・ウルトラマンといい勝負な上、怒濤の伏線回収が見事な作品。エヴァとも互いに影響を与え合っており、興味のある方は一読を勧める。望めば強く応えてくれる変身アイテムも出るよ!)
シン・ウルトラマンは、作品全体のクオリティのみを見るならば、残念ながらシン・ゴジラやシン・エヴァに比べて一段以上落ちるだろう。
だが、ウルトラQの怪獣たちが次々登場する冒頭シーンや、外星人ザラブのお面のような造形と美しい光線技、山本耕史の怪演光るメフィラスなど秀逸な要素も多く、出来不出来だけでは量れないチャーミングな作品になっているといえよう。
さて、本作は総集編であると述べたが、かつてあったようなオムニバス形式のそれとは異なる。
具体的には、作中を一貫するひとつの軸に沿ってストーリーが展開していくのだ。
それは、超越者ウルトラマンが地球人を理解していく過程であり、宇宙人視点のファーストコンタクトものとでもいうべきものである。
地球の観測者であったリピア(ウルトラマン)は、自らの命を顧みず子供を守った神永を目にしたことで地球人に興味を抱く。
終盤、迎えにきたゾーフィとの会話で、結局地球人のことはわからなかったと彼はいう。
わからないまま、それでもなおウルトラマンは、神永と同じ行動を取るのである。
ストーリーの都合上、それは「自己犠牲」と表現されているが、庵野自身も「軽々しく扱うべきではない」とデザインワークスのインタビューでも述べている通り、曲解されやすく、また悪用もされやすい言葉でもある(『銀河英雄伝説』において、自己犠牲を賞賛するのはトリューニヒトという悪役だ)。
より穏当かつ普遍性を加味するならば「無償の愛」といったあたりか。
ウルトラマンは超越者であり、神のような存在である。
キリスト教における愛が神由来であり、人間のそれは神の模倣とされる点を踏まえると、ウルトラマンが愛にふれて地球人に寄り添うという構図は面白い。
以前シン・エヴァ感想で、人間未満のモノが人間になっていく物語が好き、と語ったが、それに近い、というより同種の話である(超人も過剰な部分は欠陥と同じなので)。
また、一見オムニバス形式のように見えてそうではないといえば、先にあるエピソードで提示された要素をきっちり踏まえた上で次のエピソードに繋げていくという手法は、実は最後まで徹底されており、ウルトラマンが去った後の地球に今後も禍威獣や外星人が現れる理由付けになっているのも心憎かった。
セブンか。それとも新マンか。
これからも「シン」ウルトラ・シリーズに続いてくれるのならば、こんなに嬉しいことはない。
★★★★☆