『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・2
地の底で巨大な獣が惰眠を貪っているかのような独特の駆動音は、〈幽霊船〉に住む者なら誰しもなじみ深く思っていることだろう。
外から来た者ではなく、船で生まれた世代であればなおのこと、誇張なく子守歌がわりに聞いて育ったといいきってもいい。
あまりにも日常に根づいているので、それが鳴りやむ瞬間は、まるであらゆるものが凍りついてしまったかのように錯覚してしまう。
しかし、すぐに船内は祭のような喧騒に取って代わられる。
駆動音の停止はすなわち、船がどこかの「世界」に到着したことを示しているからだ。
昨夜、ニーニヤは予定していた行き先を急遽変更した。
もしも着いた先がはじめて立ち寄る世界なら、彼女の愛してやまない未知の品が運び込まれてくるのは確実だろう。
出発前のひと悶着は、もはや恒例行事といってもいいので、さほど水を差されたとは当人も感じていないらしい。羽根の生えたような足取りで門から飛び出したニーニヤは、そこでいきなり両手で顔を覆った。
「ぎゃあああああああ! 目が! 目がアァァァァァ!」
門の外は、書物を保存するために光量が調整されている敷地内の何倍も明るい。そのうえ蝙蝠人《バッティスト》であるニーニヤは、体質として光の刺激を他種族よりはるかに強く感じてしまうのだ。
「はいはい。毎回それやらないと気がすまないわけ?」
ため息をつきながら、ウィルはニーニヤの頭につば広の帽子をかぶせた。
「いやあ、この肌と網膜を灼かれるような痛みは、ちょっとクセになるんだよ」
「変態なの?」
「気合を注入するようなものだと思ってくれたまえ」
わかるようで、よくわからない理屈だった。
〈幽霊船〉の甲板上に築かれた居住区は、無数の建物がでたらめに積み重なったような外観をしている。
部分的にはハチの巣のようだったり、塔のようだったり、神殿のようだったりもするが、およそ様式も建築技法もばらばらで、なんらかの法則性を見出すことは不可能といっていい。
数万人とも数十万人ともいわれる住民が、各々の世界でのやり方で好き勝手に家を建てていったのだから、そうもなるだろう。
〈図書館〉の建っている区画は、居住区の中心からだいぶ左舷寄り。高さはだいたい中の下に該当する六層から八層のあたりになる。
階層の数字が曖昧なのは、建物の高さがまちまちなので、明確にここが第何層だということができないからだ。
住民の暮らしは、階層を下るほど貧しくなるのが一般的で、このあたりの建物も、ほとんどがみすぼらしいものばかりだった。
まず左舷側に進んでから、木製でぎしぎし軋む階段を降りて甲板を目指す。ウィルはニーニヤと並んで歩きながら、油断なく周囲に目を配った。
比較的安全な区画であっても、いつなにが起こるかわからないのが〈幽霊船〉である。
居住区を歩いていて思うのは、実にいろんな連中がいるということだ。
獣と人が混じっている程度では珍しくもなく、虫や魚、植物だとか、どう見ても半分機械だろ、というような見た目の亜人もたくさんうろついている。
醜い者も、美しい者も――中には、言葉は喋るけれども人の姿をしていない者さえいて、ペットかと思っていたら、いきなり話しかけられてびっくりする、なんてこともあった。
ここではウィルのような、まったくふつうの人族など、むしろ少数派なのだ。
「よう、ニーニヤちゃん。元気かい?」
「晩飯頃にまた来なよ。ごちそうするよ」
よく通る道には顔なじみも多い。明るく物おじせず、しかも器量よしのニーニヤは、なかなかの人気者だった。
一方で、彼女のうしろにくっついているウィルには誰も声をかけない。金魚のフンだと思われているか、そもそも認識すらされていないのか。
いつだってそうだ。誰にも顧みられない、無力でちっぽけな、ただのガキ。所詮はひと山いくらで売られた身だ。
奴隷商人の倉庫で、おなじような身の上の子供たちといっしょに、不潔な檻に押し込まれた記憶。抗議の声をあげれば鞭で打擲され、動物以下の扱いを受けた。
売られた先では、すこしはマシな生活ができるかと淡い期待を抱いたが、それもすぐに裏切られた。
ウィルに将来性がないと判断した飼い主は、鼻をかみ終えたちり紙を捨てるように、彼を路傍に放り出した。
そのあとのことは思い出したくもない。
這いずるようにして見知らぬ街を延々さまよい、ゴミを漁り、泥水をすすった。
食べ物を盗んでつかまり、散々に殴られて何日も呻いてすごしたこともある。気力も尽き果て、死が近いと自覚したときは、むしろこれで楽になるとさえ思った。
そのとき、倒れていた場所が〈図書館〉の庭だった。
いったいどうやって入り込んだのか。
ともかくも、そこで彼女に出会ったのだ。
「ウィル!」
弾んだ声がウィルの思考を現実に引きもどした。
駆け出すニーニヤの背中が見えた。甲板に着いたのだ。
空を見るのは久しぶりだった。
世界ごとに異なる色をしているのがふつうだが、やはりもっとも多いのは青系だ。
この世界の空は、ウィルの元いた世界によく似た、明るい水色だった。
潮の匂いが鼻をつく。甲板はおそろしく広いため、ウィルのいる場所からは舳先も船尾も遠く霞んで見ることはできない。
荷役はすでに始まっており、肌脱ぎになった大勢の人夫がいそがしく立ち働いていた。その周囲には憲兵隊の姿もあった。
彼らは青のジャケットに白い軍袴。腰にはサーベルを佩き、険しい目つきで周囲を警戒している。
憲兵隊は、船内の治安を守る組織で、〈幽霊船〉の正規クルーでもある。どこかの世界に到着したときには、こうして彼らがやってきて、人と物の出入りをチェックする。
特に病原菌の持ち込みには厳しく、消毒薬入りのボンベを背負った検疫官に指示を出し、外からやって来たすべての生物と物資を消毒するといったこともおこなう。
「ちょ、ちょっと待ってください! 薬は困ります! これはナマモノなんですから!」
「そいつがいちばん危険なんだ。……やれ!」
銀色のボンベを背負い、防護服とゴーグル、マスクで全身を覆った検疫官が、手にした管の先から消毒薬を吹きつけた。
木箱に詰められた異世界の果物が、たちまち白い粉で埋めつくされる。
商人風の男は、木箱の前で膝をついた。おおかた、異世界の物品は高く売れると聞いた新しい住人だろう。
儲かるという話自体は間違いではないが、モノは選ばないとこういう目に遭う。
それに、近場で入手できるような品ならどの道たいした値はつかない。
消毒を命じた憲兵は、ひと際人目を惹く容姿をしていた。
黄金の滝のような髪に、一切の無駄を削ぎ落としたかのような細身の身体。隊長の印である厚手のマントを羽織り、白い手袋を嵌めた手を腰に当て、怜悧な美貌を不機嫌そうに歪めている。
ぐ、と踏み出しかけていたウィルの足が止まった。
「どうしたんだい、ウィル」
もどってきたニーニヤが、ウィルの視線をたどって「ははぁん」と呟く。
「今日は隊長さん自らお出ましかぁ。もしかしてウィル、あの人の洗礼を受けたのかい?」
ニヤニヤと、実に愉しそうな顔をしているのが腹立たしい。
「……いや、受けたのは主に、おれの最初のご主人様なんだけどね」
これもまた、あまり思い出したくない記憶だ。
渋面を作り、ウィルは語って聞かせた。
およそ半年前のこと。
ウィルはロアンギ・グラッタという男に連れられて〈幽霊船〉にやってきた。
ロアンギは、元いた国では高級官僚のひとりだったが、政争に敗れ、処刑されかけたところをギリギリ逃れてこの船にたどり着いた。
「なんだと? 艦長は会わぬというのか」
「そうだ。あの方は決して、このような場所には現れん。よって、この私……レギル・フォルカーが貴様たちを臨検する」
憲兵隊長はサーベルを杖がわりにして一行の前に立ちはだかり、威圧するように深緑の目を左右に走らせた。
このとき、ウィルは他の使用人たちいっしょに固まっていたが、レギルの視線が自分の上を通り過ぎた瞬間、氷でできた手で首根っこをつかまれたように、全身に震えが走った。
なんという冷たい目。ゴキブリを見るときでさえ、もうすこし温かみのある眼差しを向けるのではないか。
「ふふん。たおやかな見かけに似合わぬ物言いよ」
怒りに顔を赤くしかけていたロアンギだったが、すぐに下卑た笑いを口許に浮かべた。
彼はまだ、美女と見まごう憲兵隊長の容姿に惑わされ、その眼差しの意味にも気づいていないようすだった。
このレギルという男は、ロアンギのかつての地位や立場などに一片の価値も見出していない。
それどころか、この場にいる全員、彼にとっては塵芥以下の存在でしかない。
(なんなんだ、この……住んでいる世界そのものがちがうとでもいうみたいな態度は……)
指一本動かせない戦慄に、ウィルは囚われていた。
ロアンギが、手にしたアタッシェケースをひらいて、中の札束をレギルに見せた。
「……なんだ? これは」
「全部で一億ギリーある。これでわしを、この艦で最高の住処に案内せい」
「ほう」
レギルの顔に、はじめて表情らしきものが浮かんだ。
おそらくは嘲笑。
あまりに滑稽なものを目の当たりにして、思わず漏れ出てしまったという感じだった。
レギルはアタッシェケースを受け取ると、ロアンギの顔を見て、からかうように小首を傾げた。
それから突然、腕を振りあげてケースを後方に放り投げた。
「な――ッ!?」
バラバラと音を立てて札束が降り注ぐ。ロアンギはパクパクと口を動かすばかりで声も出ない。
「こんなものは、この船ではただの紙クズでしかない。尻をふくか、焚き付けにするか。あとは……そうだな。山羊人《ガラドリン》どもの餌くらいにはなるだろうが、その程度だな」
「お、おのれ! 無礼な!」
予想外の対応に憤怒の声をあげ、ロアンギは護衛の兵に命令を下そうとする。だが、音もなく忍びよっていた憲兵たちが、あっという間もなく彼らを取り囲んだ。
たまたま列の外側にいたウィルの喉許にも、憲兵のサーベルが突きつけられた。
速い。憲兵隊の動きに、ウィルはもちろん一行の誰ひとりとして反応することができなかった。
「んな……ッ……な……ッ」
ロアンギは腕を振りあげたまま硬直し、ぷるぷる震えた。
ここで彼や護衛兵がわずかでも逆らう素振りを見せれば、たちまち鋭利な切っ先に喉笛を切り裂かれていただろう。
「勘違いするな。べつに、貴様たちを受け容れないとは言っていない」
傲慢さをまとった猫なで声で、レギルは囁いた。
「この艦は、いかなる者も拒まない。そして、そやつらがなにをするも自由だ。もちろん、長生きするための暗黙のルールは存在するがな。そのひとつが、我ら正規クルーには逆らわぬということだ」
わかったな、というように、レギルはロアンギの肩を叩いた。
ロアンギの膝から力が抜け、へなへなとその場にへたり込んだ。
「規定により、ひとり頭二十パールを支給する。パールというのはここ独自の通貨で、だいたいひと月分の生活費にあたると思え。それをどう使うかは貴様らの自由だ。家が欲しければ空き家を探すか自分たちで建てろ。もちろん、誰かから奪うのもアリだ。その後どうなるかは保障せんがな」
憲兵隊の恐怖を散々植えつけられた後、ウィルたちは荷物ごと消毒され、居住区に放り出された。
消毒薬はひどい味がしたうえ、目に入ると激痛が走った。
「最初にきっちり、誰が上なのかを叩き込む。そうしないと秩序が保てないと彼らは思っているのさ。でも、それはある程度正しい」
そういって、ニーニヤは笑った。
「アンタもやられたのか?」
「まあね。元いた世界から追われ、辿り着いた先でも粉まみれなんて、まったく惨めというほかない」
でも――と彼女は続ける。
「あのような扱いをされたのははじめてだったからね。〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉に項目を書き加えるときは手が震えたよ。筆がすべらないよう自分を抑えるのに苦労した覚えがある」
「えっ、なにそれちょっと引く」
べつに、ニーニヤは乱暴に扱われることに興奮を覚えるタイプというわけではない。
知識にせよ体験にせよ、とにかく「新しいもの」を吸収することに貪欲なのだ。
ウィルに言わせれば、常軌を逸するほどに。
知らないものを目にすると、どこであろうと誰といようと、ニーニヤは〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉を広げ、筆を走らせる。会話の途中や移動中であってもおかまいなしだ。
現にいまも、彼女の手は休まず動き続けている。
「それで? それからどうなったんだい」
「聞いてどうすんだよ。ありふれた話だろ?」
「そんなことはないさ。キミの過去は、キミという人間の意識と五感を通して創造された独自の事象といっていい。とても、興味を惹かれる」
ずい、と顔を近づけられた。
曇りのない目をして言わないで欲しい。恥ずかしくなるではないか。
「い、いいから。はやくそれ、終わらせろって。門限破ると、おれまで罰を受けさせられるんだからな」
「つまらないねえ」
ニーニヤはくちびるをとがらせた。
ウィルは内心ため息をつく。護衛の仕事は神経を使うし、危険も多いので大変だ。
そのうえ、ニーニヤはなにをするかわからないし、寄り道で時間ばかりかかる。わがままをとがめて口論になったことも一度や二度ではない。
いっそ、なにか問題を起こして外出禁止にでもなってくれたほうが楽なのに、とさえ思う。
「やあ、隊長さん」
たまたま近くにやってきたレギルにニーニヤが声をかけたので、ウィルはドキリとした。
まさか、あの話題のあとでソイツに話しかけるか?
ニーニヤの神経を疑ったが、レギルは視界にウィルが入っているにも関わらず、なんの反応も示さなかった。
しかし、すぐに「それもそうか」と考え直す。向こうにしてみれば、いちいち臨検した相手の、しかも集団に混じった子供ひとりの顔など、憶えていられるはずもない。
「これはこれは〈記録魔《ザ・レコーダー》〉。そろそろお見えになると思っていましたよ」
心の底から敬っているという感じではなかったが、それでも憲兵隊長は一定の礼節を保っていた。
初めて乗船したときには有象無象のひとりにすぎなくても、その後それなりの立場を築いた相手だからなのだろうか。
「ここは、なんという世界なのかな?」
「さてね。はじめて立ち寄る世界なもので。便宜上、ヤルヒボール5.3と呼んではおりますが」
「いつまでいるつもり?」
「規定通り、一週間。探索組が、いま出ています」
「いいねえ。ボクもいってみたいな」
「いや、無理だろ。時間もないし、だいいち予定にない行動は――」
思わず口をはさんだが、ニーニヤはキラキラと目を輝かせ、ウィルの声など聞いていなかった。
「気候は温暖……いや、むしろ暑いくらいかな。生き物はたくさんいるのかい?」
「陸のほうはまだわかりませんが、魚は獲れていますな。いま、いくつかの調理法を試しているところかと」
「生でもイケるといいな。サシミというものを、一度味わってみたい」
「ご希望ならすぐにでも。貴重な実験データが取れます」
レギルの言葉は、まるで冗談に聞こえなかった。さらに信じがたいことに、ニーニヤはノリノリで首を縦にふった。
「そういう開拓精神は大好物だ。知的探求に殉ずることができるというなら、ボクも本望だよ」
「ば、バカ! よせって」
さすがに慌てた。異世界のものをうかつに口にするなど、軽率にもほどがある。
「なんだい、ウィル。キミまでリミュアやマーカスみたいなことをいうのかい?」
「アンタを守るっていう役目をきっちりこなしてると思ってほしいね。なんでそうやって、考えなしに動こうとするんだよ」
「思考の前に行為がくるというのは、べつに不思議なことでもなんでもないよ。こと、ボクのように情熱に突き動かされるタイプにはね」
「黙れ。それに振り回されるほうの身にもなれってんだよ!」
「なに。イヤなのかい?」
いい争うふたりの横で、レギルが肩をすくめた。
「仲のよいことで」
本気でどうでもいいと思っていそうな口振りだった。
お前がよけいなことを言うだろうが、と怒りを覚えたが、初対面時のあの恐怖を思えば面と向かって悪態はつけない。
そんなウィルとは対照的に、ニーニヤは軽い調子で彼の背中を叩く。
「それで、ねえ。隊長さん? ひとつ頼みを聞いて欲しいのだけれど」
「頼み?」
レギルは露骨に嫌そうな顔をしたが、いい気味だとは思えなかった。
素敵な思いつきをした、とでも言いたげなニーニヤを見れば、悪い予感しかしてこない。