『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・8
きっかけは、いつものようにニーニヤの読書に付き添っていたときだった。
読み終えた本を書架へ差し込んでもどってくると、ニーニヤが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「キミは、本の場所をすべて暗記しているのかい?」
読書の際、ニーニヤは本を十冊単位で持ってきて席につく。
装丁はどれも似たり寄ったりで、古いものになると書名がかすれて判読しづらくなっていたりする。
もっとも、ウィルはほとんど文字が読めないので、そこはあまり関係ないが。
にも関わらず、渡された本を、ウィルは迷いなく元あった場所にもどすことができた。
あまりに当たり前にやっていたので、言われて初めて気づいたくらいだ。
「こっちの本はどこにあったか憶えているかい?」
「ええと……一八〇番書架の三段目」
「こっちは?」
「二五八番の二段目だな」
「合っているね。じゃあこの本」
「それは表紙のほう? それとも中身か? だったら二二番の七段目だ」
「……すごいな。こっそり表紙を交換したのを見ていたのかい?」
「舐めんなよ。そっちのとそれとじゃあ厚さがちがうだろうが」
「わずか十ページほどの差なんだがね」
ニーニヤは本の表紙に手を置き、ほうっ、と息をついた。
「妙だとは思っていたんだ。この特技は前から?」
「いや……〈幽霊船〉に来る前は、こんなことできなかった」
「なら、これはキミの、フルーリアンとしての能力かもしれない」
それからふたりで実験を重ね、ひとつの結論にたどり着いた。
ニーニヤ曰く――ウィルの本当の能力とは、空間把握と瞬間記憶のハイブリッドである。
簡単に言うと、自分がいまいる空間にあるものを瞬時に把握できる、というものらしい。
たとえば、部屋の広さと天井までの高さ、置かれている家具、壁の模様といった膨大な情報を、一瞬にして頭の中に保存する。
しかもそれは、時間が経ってもほとんど劣化せず、まるで諳んじた歌を口ずさむように、言葉にして正確に伝達することも可能だった。
この能力を活用すれば、初めていく場所であっても帰り道がわからなくなるということはなくなるし、目を離している隙に道や建物の配置が変わってしまったとしても、すぐに気づくことができる。
おかげで、かつては〈図書館〉を大いに悩ませていた、外出のたびにニーニヤが迷子になるという問題が、劇的な解決を見たというわけだ。
「これまでは『人間コンパス』程度という思い込みが、能力の使い方だけでなく、成長にまで制限をかけてしまっていた。自分にできることを正確に把握することは、その制限を取り払うことにも繋がるはずだ。ウィル……キミの可能性は、キミが思っていたより、ずっとずっと広くて大きい」
戸惑うウィルに、ニーニヤは明るく笑って請け合ってみせた。
それは、ウィルの人生に初めて差した、一条の光だった。
意識はもどったものの、身動きは取れず、なにも見えなかった。
手足を縛られ、ずだ袋に入れられた状態で担ぎあげられているのだろう。始終激しく揺さぶられ、内臓が圧迫される。
たまらず腹に力を込めると、ニーニヤを運んでいた男がぴたりと足を止めた。
「どうした?」
「眠り姫がお目覚めらしいぜ」
「薬が切れたか」
乱暴に地面に降ろされ、袋の口があけられる。新鮮な空気を求めて、ニーニヤは口を大きくあけた。
「よう。気分はどうだい?」
「最悪だよ」
「そうかい。なら、すこし休んでいくかい? ついでにその気分も、快感に変えてやれると思うぜ」
男たちが下卑た笑い声をあげる。彼らのニーニヤを見る目は、獲物を前にしたけだもののそれだ。
ニーニヤは、男たちに聞こえぬよう、そっとため息をついた。
「狙いはボクの本だね? おおかた、どこぞの好事家にでも頼まれたんだろう。ボクを生かしてるってことは、セットで持ってくるのが条件か」
「己の置かれた立場ってのを、よぉく理解してるみたいだな」
「――の、割にゃあ、ちと危機感が足りねえけどな」
男たちがまた下品に笑う。
「たかが女ひとりのために、探索隊は本気で追いかけちゃあくるめえ。依頼主サマも、アンタが五体満足であること以外、特に条件はつけなかったしな」
「うん。それはそれとして、どうする気なんだい? このまま船までもどっても、検疫を抜けられるとは思えないけど」
「心配ねえよ。検疫官を買収してある」
ニーニヤは思わず目を瞠った。男たちの表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
我慢してやりすごそうと思ったが、あまりにも無邪気な彼らの姿を前に、ついにはこらえきれなくなる。
「アッハ……! フフ……ファハハハハッ! すごいなある意味!」
「てめ……ッ! なにがおかしい!?」
「……いや、ゴメン。知らないんじゃあしょうがないよね。でも、キミたち本気で信じてるのかい? 彼らが約束を守るって」
「なんだと?」
男たちの顔から表情が消えた。
ニーニヤはいったん、くちびるを舌で湿らせてから、おもむろに口をひらいた。
「いいかい?――〈幽霊船〉のクルーはねえ、ふつうの人間とはちがう常識の中で生きている。彼らにとって、ボクやキミたちとの約束なんて大した意味を持たないし、金銭なんて、それこそ無価値だ」
厳密には生きていると言えるのかすら疑問だったが、そこは置いておく。
「け……けど、話を持ちかけたとき、金をよこせっつったのは奴らのほうだぞ!」
「ポーズだよ。キミたちの常識に寄せて、演じてみせたにすぎない」
「デタラメだ! コイツの言うことには、なんの証拠もねえ!」
「だったら試してみるかい? 負ければ、キミたちは虚無の海に放り込まれて欠片すら残らない。そんな分の悪い賭け、ボクだったら恐ろしくて、とても乗る気にはなれないな」
ニーニヤが上目遣いに見あげると、絶句した男たちは恐怖に顔を歪め、全身をわななかせた。
「……だ、黙れ! 俺たちを担ごうったって、そうはいかねえ……ッ!」
さっきまで担がれてたのはこっちなんですけど、とニーニヤは内心呟いた。
リーダー格と思しき男が、鞘に収まったままの剣を振りあげた。いちおう、ニーニヤを傷つけまいという理性は残っているらしい。
だが、遅い。
彼らが狼狽えているあいだに、ニーニヤはやるべきことを終えていた。
立ちあがる。手足を縛っていたロープがハラリと落ちる。
「なっ!?」
ヴァンパイアの中でも力の強い者は、影を操ることができるとされるが、蝙蝠人《バッティスト》にもそれに準ずるような能力がある。
影と同様漆黒で、かつ己の肉体の一部でもあるもの――すなわち髪の毛を、自由自在に動かせるのだ。
さすがに影ほどの万能性はないが、束ねて手足の替わりとしたり、翼のかたちを作って飛行するくらいのことはできる。
もちろん、その辺のナイフ程度の切れ味なら、刃物を形成するのも容易い。
その能力を使って、会話で気をそらしているあいだにロープを切った。
同時に〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉を入れてある包みも引き寄せ、中身を取り出しておく。
地面に置かれた〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉がひとりでにひらき、パラパラとページのめくれる音をたてる。
ホドロたちが唖然として見守る中、ニーニヤの望む箇所で、それは止まった。
夜の闇をつんざき、ウィルたちの耳に飛び込んできたのは悲鳴だった。
絶望と恐怖。それに後悔の混じった男たちの声。
いったいなにが起きている?
限界が迫る両脚に鞭打ち、ウィルは走る速度をあげた。
最後のほうは強引に木立をショートカットし、声のした場所へと抜ける。
そこでウィルが見たのは、信じがたい光景だった。
血まみれの男が四人、地面に倒れている。
そのうちのひとりは、鋭い爪のある獣の脚に身体を押さえつけられていた。
その獣とは、昼間レムトたちが戦った、あのビークだった。
「ひっ……ヒィィッ!」
尻もちをついた男が後ずさりしながら剣を振り回した。顔に覚えがある。ホドロだ。
ニーニヤは、ビークのかたわらにいた。
美しい毛並みを持つ背中に手を置き、怯える男を冷ややかに見おろしている。
ウィルの到着に気づくと、一瞬嬉しそうに顔をほころばせたが、すぐにしかめっ面になって睨んできた。
「遅い!」
「どういうことだよ、この状況! っつか、なんでビークが!?」
危険ではないのか。はやく逃げろと叫ぶべきかとも考えたが、どう見てもこれは、ビークがニーニヤの味方をしてホドロたちと戦ったとしか思えなかった。
「ボクが召喚した」
「はあ!?」
ウィルの混乱に拍車がかかる。
つまり、これをニーニヤが呼び出したと? 彼女の言葉は、そうとしか解釈できない。でも、どこから? どうやって?
「ええい、畜生ッ!」
ビークに立ち向かうよりは、と思ったのだろう。鬼のような形相で、ホドロがこちらに向かってきた。
ウィルは身構えようとしたが、それよりも早く、ミツカがあいだに割って入った。
突き出されたホドロの剣を、ミツカの鎖が生き物のようにうねって弾き飛ばす。
くるくると回転しながら剣は落下し、地面に突き立った。ヒュウ、とニーニヤが口笛を吹く。
「すごいね。鎖を操るのがキミの能力なのかい?」
「ううん。ちがうわ」
狩りのときから、ミツカは一度も能力を使っていない。
彼女の能力は強力だが、能力なしでもビークと渡り合えるだけの実力を有している。
別の言い方をすれば、ビーク程度では能力を使うまでもなかったということだ。
そんなミツカを、ビークに敵わなかったホドロがどうこうできるはずもない。
「ウィル君、大丈夫?」
「あ、ああ……」
思わず顔をそむけた。
感謝よりも先に、悔しいという気持ちがきてしまった。
わかっていたはずだ。ミツカは、ウィルよりもずっと強い。
それでも傷つくのは、誰よりもウィル自身が、いまの自分を許せないと思っているからだ。
「アワ……アワ……ウアワアアアァァァァァァァ!!」
前門のミツカ、後門のビーク。
追い詰められたホドロは、狂ったような叫びをあげて左へ――つまりジャングルへと飛び込んでいった。
目の前にある脅威に比べれば、ジャングルのほうがマシだという判断はわかるが、やはり無謀だろう。
一度抜けられたからといって、そう幸運が何度も続くはずもない。
ザキザキ……ザキ……ザキザキ……
ここにくるまで何度か聞いた、謎の音が響き渡った。
今度は、かなり近い――というか、すぐ上だった。
道の両側の木立の上を、うっそりと影が通り過ぎてゆく。
それは、ウィルの知るどんな生き物にも似ていなかった。
いや、そもそも生き物といえるのかさえ、怪しく思えた。
一見ヘビか、巨大な芋虫のようでもある。
しかし、よくよく見ると、それは細長い針を束にして井桁状に組み、それをいくつも連ねたような姿をしていた。
移動する際は、それぞれの井桁をゆっくりと回転させ、針の先を樹にひっかけながら進む。
ザキザキ……という、あの不気味な音は、針同士がこすれ合うときに発せられるものらしかった。
軋むようなそれは、どこか笑い声にも似て、聴く者の神経を逆撫でする。
樹上を蛇行する井桁の怪物は、明らかにホドロを追っていた。
動きはゆっくりに見えるが、巨大さも相まってかなり速い。ジャングル内を駆ける人間など、簡単に追いつかれてしまうだろう。
グルル……というビークの唸り声で、ウィルは我に返った。
(シッ!……静かに!)
くちびるの前で人差し指を立て、他のふたりに目配せする。
ウィルたちが音をたてないよう身体を低くし、息を殺すと、ビークも真似をして地面に伏せた。
ザキザキ……ザキザキ……ザキ……ザキ……ザキザキ……ッ!
ほどなくして、ホドロの断末魔がウィルの耳に届いた。
木立に隠れて見えはしなかったものの、なにが起きているかは知覚できた。
井桁を構成する針は伸縮自在で、怪物はそれを伸ばして獲物をとらえる。頭上から矢の雨を射かけられるようなもので、回避はとても難しい。
しかも貫通力がまた半端なく、革鎧程度なら簡単に貫くことができるようだ。
針には毒があるのか、刺された獲物はみるみる動きが鈍ってゆく。
動かなくなったところで、井桁はさらに数十本もの針を打ち込んだ。ああやって、獲物から養分を吸いあげるのだ。
息を殺して、一分。二分。
食事を終えた井桁の、軋むような移動音が徐々に遠ざかってゆき、ふたたび静寂が訪れた。
「すごかったねえ」
ウィルとミツカがほっと息をつく横で、ニーニヤがいかにものんきな口調で言った。
「なんだろうね、アレは。あんな生き物見たことないよ。いや、もちろん、ここはボクたちの知らない世界なんだから、そういう生き物がいるのは不思議じゃあないんだが、膨大な〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉のどこにも類似するものが見出せない。これは、稀有なことだよ」
「ニーニヤ」
「さてさて、いったいどう分類したらよいものか。このままではあまりに情報が少なすぎるね。とりあえず独自の項目を立てるとして、まずは呼び名を決めないと。枝のようなものでできていて、かたちとしては巨大な芋虫のようでもあるから、ブランチ・クロウラーというはどうだろう?」
「ニーニヤ!」
「おっと。なんだい、ウィル。大声なんか出して」
「なんだいじゃねえよ。お前、そんな力があるって隠してたのか」
「召喚術のことかい?」
「そんなことができるなら、護衛なんていらなかったんじゃあないのか」
「そうだねえ。もし、そうなら、どうする?」
「どうするって……」
ウィルは絶句した。
お情けで護衛を任されていたとでもいうのか。だとしたら惨めすぎる。
「なーんてね。冗談さ」
「んなっ!?」
「この力は、好き放題使える類のものではないんだ。それに、ボク自身はあくまでか弱い乙女だしね」
「奥の手ってことかな?」
「見られてしまったから白状するが、そうだね。〈図書館〉の連中にも秘密さ」
ニーニヤがミツカにうなずいてみせる。
「もしかして、私がいたらマズかった?」
「不可抗力だよ、気にしないで。でも、お仲間には伝えないでくれるとありがたいかな」
ニーニヤは人差し指を一本立ててウィンクした。
軽く流してはいるが、実際のところ、あまりよろしくない状況なのだろう。
ミツカがどうこうという話ではない。能力を他人に知られることは、常に一定のリスクを伴う。
稀少だったり強力だったりすれば利用しようとする人間が現れるし、敵対関係に陥れば対抗策を講じられてしまう可能性も出てくる。
戦って名を売りたい傭兵や死骸漁り《スカベンジャー》ならば、ある程度は覚悟の上だが、ニーニヤはそうではないのだ。
「そこまで追い詰められてたってことなんだな」
「ウィル……キミも、そんな顔しないで。こうして助けに来てくれただけでも、ボクは嬉しいよ」
ふわり。
芳しい香りが広がる。
夜の闇よりもなお昏い、少女の髪が視界で踊る。
気づけば首に両腕をまわされていた。
ありがとう――耳許での囁き。
慌てて距離を取り、囁かれた側の耳をおさえる。
手のひらに、異様なまでの熱を感じた。ウィルを見つめる少女の口許に、いたずらっぽい微笑が浮かぶ。
「そ、そりゃあ……っ! いくだろ!……助けには……さあ……」
「それがキミの役目だから?」
「そ……そうだよっ! 今回は……その……なにもできなかったけど……」
「ふぅん」
ニーニヤは「ま、いいけど」と呟くと、ウィルに背を向けた。
なにがいいのか、あるいはよくないのか。
ウィルにはさっぱりわからなかった。