『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・1
必死にならざるをを得ない状況というのも、考えようによってはプラスに取れる。
じっとしていると考えてしまう、諸々の嫌なことを忘れられるからだ。
たとえば、思い出したくないな記憶。
たとえば、いまの自分に足りないもの。
しかし、さすがに何度も続くとなると鬱憤もたまるし、それをときどき爆発させて憂さを晴らしたくもなる。
「ああ、もう! いい加減にしろってんだよ!」
怒声を吐き出しながら剣を振りおろすと、子犬大の醜い人型の魔物が、ギャッと叫んでうしろ向きに跳ねていった。剣にはべっとりと、紫色の血が残った。
血を払っている暇も惜しみながら、ウィルは連れの手を引いて走った。
追ってくるのは一匹ではない。
道中遭遇し、うっかり刺激してしまった子鬼ども。
甲高い警戒音を発して仲間を呼びはじめたので慌てて退散した先で、さらにべつの巣穴に踏み込んでしまった。
かくて総勢二十数匹。
一匹いっぴきはウィルでも余裕で倒せる程度の強さだが、数で押されてはたまらない。
衣服に汚い爪をひっかけられそうになるたび、習いたての剣を力任せにぶつけつつ逃げ回っていると、いくらかは見かねた他の探索者が片づけたり追い払ったりしてくれた。
それでも、怒りに我を忘れ、凶暴性を剥き出しにして追いかけてくる子鬼は何匹か残っている。
すべりやすい段差を飛び越え、植物に擬態した生物が足に絡みつこうとするのを勢いをつけて引きちぎる。
息があがり、折れそうになる膝を何度も叱咤して、気がつけば最下層に到達していた。
〈幽霊船〉の甲板上に築かれた居住区――そこにいくつも存在しているダンジョンのひとつ、ウィスキア緑洞。
巣食っている魔物も比較的弱めで、駆け出しの探索者が挑むにはうってつけである。
むしろ、探索者の九割を占める〈死骸漁り《スカベンジャー》〉のほうが危険だといわれるくらいで、そんな場所で魔物相手に命の危機にさらされていると、やっぱり自分には向いていないんじゃないかと思えてくる。
壁も天井も植物に覆われ、差し込む光が鮮やかな緑を浮きあがらせる。
適度な湿度が保たれ、涼しく新鮮な空気が循環する過ごしやすい環境。
魔物さえいなければ、ほんとうにいいところだ。
しかしウィルは、美しい景色を顧みる余裕すらなく走る。走る。走って走って、細い通路を抜けると、とてつもなく広い空間に出た。
木の根やツタが複雑な迷路のように絡み合い、巨大な繭の内側を思わせるドームを形成している。
壁をつたい落ちた水が、足許で清らかな流れとなっていた。
ここが、最奥部。
今日の探索の目的地。
その中心には、途方もなく巨きな樹があった。
「わはっ」
連れの少女が喜色を浮かべ、ウィルの背負っていたひと抱えもある本を奪い取ると、手頃な岩の上でそれを広げた。
さらにその横に鞄から取り出したインク壺を並べ、羽根ペンを右手に構えた姿勢で舌なめずりする。
「なんたる感動! これがウィスキアの大樹……聞きしに勝る威容ではないか!」
はっ、と息を呑むような空白があり、次の瞬間、少女は流れるような動きでペンを走らせた。
まっさらな雪原を思わせる白紙のページに、次々と文字の連なりが生まれてゆく。
一瞬、その光景をいつまでも眺めていたいという欲求に駆られたウィルは、慌ててその考えを振り払った。
そんなことをしている場合ではない。振り返ると、通路を抜けてきた子鬼の群れが見えた。
「はやくしろよ! 終わったらすぐに逃げるからな!」
「こんな愉しいこと、簡単にやめられるわけがないじゃあないか!」
少女の横顔が愉悦に染まる。
勢いあまって跳ねたインクが白い頬を汚したが、彼女はまったく気づいたようすはなかった。
ああ、もう。ほんとうに、いつもいつも。
護衛はウィルの仕事だからそれを果たすのにやぶさかではないが、いいかげんにしろと叫びたい。
危険な場所をひっぱりまわされて死ぬ思いをするのは、いつだって自分なのだ。
◇ ◇
緑きらめく空間に、あたたかな光が降り注いでいる。
小鳥のさえずりに、ウィルは顔をあげた。
しん――とした庭に、それだけが生きているものの発する音であるかのように胸に刺さる。
危ういバランスを崩すのを恐れるように、ウィルは息を吐きだした。
そっと目をとじ、光のぬくもりをしばし肌で味わう。その心地よさは、とても人工的に作り出された光とは思えなかった。
うすくまぶたをひらくと、水晶を削って築かれた塔の姿が見えた。
半透明の壁や、上から見ると花のようなかたちをした瓦屋根を、繁茂した植物が覆っている。
静かでまばゆい、平穏そのものといった光景。ウィルのこれまで歩んできた人生を思えば、現実感がなさすぎるほどに。
ここは〈図書館〉。
ただ単に〈図書館〉と――そう、呼ばれている。
もぞ……と、背中で動く気配がした。
ぱら――と、紙のめくれる音。
はあ……っ、というため息。
かすかに感じる鼓動が、いつもより早くなっている。
ああ、琴線にふれる記述があったんだな、とウィルは思った。
「なあ」頃合いを見計らって声をかける。「腹、減らない?」
「もう、そんな時間かい?」
眠りから醒めたばかりのような、少女の声がかえってきた。
背中にかかっていた重みが消え、「ん~っ」と、のびをする気配。
「すっかり、時が経つのを忘れてしまったな」
「そんなに面白い? その本」
「それもあるけれど」
ふふっ、と少女が笑う。
はらりと落ちたのは、夜の闇をくしけずってできたかのような、くせのない黒髪だった。
ほっそりとした身体の線が浮き出る薄手のローブもまた漆黒。
すこし吊りあがった切れ長の目。その中で、金色の瞳が妖しく光る。
顔の横から左右にのびる、先のとがった耳。
病的なほど白い肌。
かすかに色づく口許からは、二本の牙が覗いていた。
「キミの背中が、あんまり心地よかったものだから」
「んな……っ」
不意打ちを喰らって、ウィルは言葉を失った。
みるみる顔が熱くなる。
反則、だろう。動揺をおもてに出さずにいるのがやっとだった。
幸い、少女はすぐに視線を元にもどしたので気づかれずにすんだ。
何度か深呼吸して鼓動を落ち着かせてから、ウィルは首筋に貼ってある絆創膏をはがして待機の姿勢をとった。
「では……失礼して」
少女がウィルの背後から両肩に手を置き、その噛み痕に顔を近づける。
ぴちゃ、という音。
すこしざらざらした感触。
くすぐったいというよりムズムズしてきて、ウィルは身体をよじらせた。
「さっさと済ませてくれよ」
でないと――
その分、ウィルの昼食が遅くなる。
「いいのかい? それはつまり、この傷をさらに深くしろと言っているようなものなんだが」
「う……ゆっくりやってくれ」
少女の唾液には傷の治りを遅らせる成分が含まれているらしく、一週間前につけられた噛み痕には、いまだかさぶたができる気配すらない。
吸うのではなく、滲んでくる血をなめ取るのが彼女のいつものやり方だ。
牙を突きたて、傷口を広げればもちろん出血も多くなるが、そうはしない。
いちおう、ウィルの身体を労わってくれているのだと思う――たぶん。
少女の名はニーニヤ。
吸血鬼《ヴァンパイア》とよく間違えられるが、コウモリの亜人、蝙蝠人《バッティスト》だ。
様々な世界を巡るこの〈幽霊船〉には、様々な亜人種が住んでいるが、蝙蝠人《バッティスト》は比較的珍しい。
年齢はよくわからない。見た目だけならウィルよりすこし上――十代後半くらいだろうか。
ウィルの身長がちょっぴり低めなせいで、よけいに歳が離れて見えるけれども、とにかく若いのはたしかだ。
若年にもかかわらず、彼女は〈図書館〉の特別客員司書として、職員みなから敬われる存在だった。
そんな彼女の護衛役として、ウィルは〈図書館〉に雇われている。
いや――給金をもらっているわけでもないし、“おやつとして飼われている”といったほうが正確かもしれないけれど。
朝起きてから昼食という名の吸血までの時間、ニーニヤは読書しているか、書き物をしていることがほとんどだった。
〈図書館〉には、〈幽霊船〉がどこかの世界に立ち寄った際に持ち込まれたり、ダンジョンや廃墟から「発掘」された書物が収蔵されている。
ニーニヤはそれらを片っ端から読み漁り、新しく得た知識を、彼女個人の所有物である、一冊の馬鹿でかい「本」に記してゆく。
それが、特別客員司書としての彼女の仕事だ。
ニーニヤの「本」は〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉と呼ばれている。
曰く、これは「この世のすべてを記録するための書物」なのだとか。
彼女が羽根ペンを手にし、新しい項目を書き加えようと〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉をひらくとき、そこにはまっさらなページが現れる。
さらに不思議なことに、この本は、どんなにページをめくろうとも、決して終わりに到達することはない。厚さが増減したりすることもない。
「これ自体が、一種の魔術的な法具だと考えるべきだろうね」
そんなふうに、ニーニヤは説明した。
「ほら、ここ。見てみたまえ」
表紙、タイトルときてその次には、上から三分の一ほどが細かい文字で埋め尽くされたページがあった。
「全部名前さ。歴代の〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉の所有者の……最後にあるのがボクの名前。ニーニヤ・レアハルテ」
所有者が死ぬと、〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉は次の記述者に受け継がれる。
本を受け継いだ者が最初に記すのが自らの名だった。
「余白がまだ、こんなにあるってことは……」
「“この世のすべて”を記録するには、一人の人間の生涯程度ではとても足りないということだろうね」
つまり彼女は、いま、この時点で、その仕事に一生を捧げることが決まっているということだ。
「ん? どうしたんだい、変な顔して」
「いや。なんか……その、想像もつかないっていうか……」
「曖昧な表現だね。言葉とは、曖昧な世界を明確にし、秩序を構築するための道具だよ。だから、キミはもっと、ボクに伝わるよう言葉を尽くすべきだ」
くちびるをとがらせ、説教じみた口調で言う。
そんなことを言われても、もともとロクな教育も受けていないのだから無理がある。たいして頭もよくないし。
「で」
ニーニヤは金色の瞳を、じっとウィルの顔に向けた。
「食べ終わったかな?」
「あとちょっと」
皿に残っていた蒸かしイモを、ウィルは大急ぎで口に放り込んだ。
ニーニヤの「食事」のあと、彼にも昼食が供される。
献立はだいたい、裏の菜園で採れた野菜をどうにかしたものと、かちかちのパンにミルク。あとは、たまにハムだとか、豆のスープがついてくる。
正直、あまり美味ではないけれど、贅沢をいえる立場でもない。でも、せめてイモに塩くらいふってほしいとは思う。
「では、いこうか」
ウィルがイモを飲み下すのを確認すると、ニーニヤは満面の笑みを浮かべながら席を立った。
生活のほとんどを〈図書館〉内ですごしているニーニヤだが、週に一度、午後の外出が認められている。
好奇心の塊といってもよい彼女にとって、それはなによりの楽しみだった。
〈図書館〉にやってきたばかりのウィルにはいまいちよくわからないが、特別客員司書というのは、とても大事な役職であるらしい。
つまるところそれは、ニーニヤという少女その人が、極めて貴重かつ重要な人物ということでもある。
週一のみという外出制限は、VIPを危険から守るための措置ということなのだろう。
「問題ありません。本日の外出を許可いたします」
リミュア・クラントットは、そういって書類に判を押した。
ニーニヤが外出するためには、踏まなければならない手続きが他にもある。
許可証の申請がそれだ。
外出理由と目的地。同行者。帰還予定時間等の項目欄を遺漏なく埋め、前日までに提出する。
基本、ニーニヤが外出するのは〈憶万の書《イル・ビリオーネ》〉に記述する対象を実地で見分するためなので、外出理由の覧にはその日見にいく予定のものを記すことになる。
同行者とは、主に護衛だ。
ニーニヤに拾われて以来、ここに書かれるのは常にウィルの名前だが、たまに現地の案内人の名が併記されたりもする。
「よしっ。では、いってくる!」
「待ってください、ニーニヤ様。まずは落ち着いて。持ち物の確認はしましたか?」
リミュアが心配顔で訊ねる。
茶トラの猫人《マオン》である彼女は、司書となってまだ日が浅い。
真面目な性格で、いつもちょこまかと館内を駆けまわっている印象がある。
ニーニヤのお目付け役を任されることも多く、なにかあるとすぐガミガミ小言をいってくるのが、滑稽でもありうっとうしくもある。
「大丈夫。完璧だ。このボクに抜かりのあろうはずがない」
「適当いわないでください。こないだだって、大事なコンパスを忘れていたじゃありませんか。ウィルさんが道を覚えていたからよかったようなものの……なにかに夢中になると、すぐに周りが見えなくなるのは悪いクセです」
「わかった。わかったから出発前にお説教はやめてくれ。時間がもったいない」
すぐにでも出かけたくてウズウズしているニーニヤを引き留めて、リミュアは荷物のチェックをはじめている。
自業自得だ、とウィルは思った。ニーニヤがもっとしっかりしていれば、リミュアもここまで心配はすまい。
「毎度飽きもせず、よくやる」
ウィルの背後に気配が立った。
思わず顔をしかめてしまう。聞こえないフリをするのも不自然だと思ったので、嫌々ながら振り返る。
長身の男がそこにいた。
人族の青年。均整の取れた体つきで、純白のローブの上から上半身を覆う金属鎧を身につけている。
名はマーカス・ファルン。
〈図書館〉に保存される知的財産を保護するために組織されたライブラリ・ガーディアンズ――通称エルガードの若きホープである。
文武に優れた資質もさることながら、その端正な顔立ちで周辺に住む女性たちから絶大な人気があるが、本人は勤勉に職務をこなすことに注力し、浮いた噂はいっさいない。そうしたストイックな姿勢も、憧れをかきたてる要因となっているようだ。
もっとも、ウィルはマーカスに対し、
(他人に興味がないだけなんじゃねえの?)
と、辛辣な見解を有している。現にいまも彼は、道端の石ころでも見るような目でウィルを見おろしている。薄水色の瞳が、まるで氷のようだ。
「くれぐれも頼むぞ。ニーニヤ様の御身に、万が一のことがあってはならん」
「いわれなくたってわかってるよ」
「どうだかな。ウィスキア緑洞では、えらく不様をさらしたそうだが」
「あ、あれは……ニーニヤの奴が無茶するから……っ!」
「あの程度の場所で手こずる時点で話にならんといっている。すこしは成長したというから様子見のつもりで黙っていたが、あれではな」
「だったらお役御免にしてくれよ。他にどっか人手の足りないとことかあるだろ?」
腕の未熟さについてはウィルも自覚している。適材適所を考えるなら、べつの仕事にまわしてくれてたほうがずっといい。
「悪いが、特にないな。与えられた仕事も満足にできないなら、出ていってもらう他ない」
「ダメダメ! ダメだ! そんなのボクが許可しない!」
いきなり、泡を食ったようすのニーニヤが割り込んできた。
「誰がなんといおうと、ウィルを解任なんてさせないからな」
「いますぐにとはいいません。今日の予定地は、さほど危険でもないことですし。しかし、いつまでもというわけには――」
「大丈夫。ウィルが強くなっていけばいいだけのことさ」
「なっ」
それはたしかにそうかもしれないが、自信満々にいい切られても困る。「悠長な話ですね」とかのたまっているマーカスはくたばればいい。
「自分の命を預けるんだ。相手くらい、自分で選んでもいいだろう?」
挑むようなまなざしでマーカスを見あげ、ニーニヤは鼻を鳴らした。だから、その自信はどこから?
「あなたの意思は尊重します。我々にも納得のいく根拠を示してさえいただければ」
「そうだね。迷子になることが減った」
「それだけですか?」
「けっこう重要な変化だと思うけどね。あとは……うーん、そうだねえ……」
「ないのですか?」
「べつに、そういうわけではないが――説明したところで、キミにわかるとは思えないね」
やんわりとした煽りにも、マーカスの無表情は変わらなかった。
冷たい視線が、ひたりとウィルに向けられる。
「まあいいでしょう。死ぬ気になれば、身代わりくらいにはなる」
「ンだと、この野郎」
「そういきり立つな」
身構えたウィルの肩に、マーカスが手を置いた。力を込めているようには思えないのに、それだけで身動きがとれなくなる。
脂汗が滲んだ。気圧されているそぶりを見せまいとするが、どうせ見透かされているのだろう。
「せいぜい励め」
だから、いわれなくてもわかってる――ウィルは心の中で毒づいた。