映画『ウトヤ島 7月22日』『THE GUILTY/ギルティ』感想

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 自分で予定を組んでおきながら、しんどそうだと思ってしまった。
『ウトヤ島 7月22日』と『THE GUILTY/ギルティ』を続けて鑑賞。『ウトヤ島』は2011年、ノルウェーで実際に起きた銃乱射テロを観客に体験させるという作品。『ギルティ』は緊急ダイヤルを受信した警官を主役に据え、電話のやり取りだけで進行中の誘拐事件に挑むサスペンス。
 気の休まる暇もなさそうだが、得難い映画体験になりそうなので敢えて強行してみた。

『ウトヤ島 7月22日』

 予告編

 フィクション、ノンフィクションに限らず、この手の「映像の中の出来事をあたかも観客自身が体験しているかのように錯覚させる」作品は昨今の流行らしく、数多く作られている。『サウルの息子』『ダンケルク』『暁に祈れ』、すこし前の『ゼロ・グラビティ』もそうだろう。
 本作の特徴としては、オープニングを除いて全編がワンカットで撮影され、テロ発生から収束までの72分間、観客は被害者の一人として島内を逃げ惑うことになる。ワンカットという点では『ゼロ・グラビティ』が同様の手法を取っている。

 日本に住む我々にテロや戦争の脅威は遠いが、本作の主人公たちにとってもそうだった。ウトヤ島はその日まで「世界一安全な島」だと思っていたし、戦争についてマジなトーンで議論するのは空気を読まない行為だった。
 しかし、突如鳴り響いた銃声によって世界は一変する。

 それからはひたすら、主人公たちは身を隠しつつ島内をさまようわけだが、奇妙なことに、銃声が鳴り続けているあいだはかえって気が休まる。音によって犯人の居場所がわかるからだ。銃声が遠くで鳴っている限り、命の危険はない。
 むしろ、作中でもっとも怖いと感じたのは、妹を捜して主人公がテントの中に入っていくシーンだった。
 この間、銃声はやんでおり、さらには外の様子がまったく見えなくなる。もし、いま、テントのすぐそばで足音がしたら? 自分がここにいると犯人に気づかれ、いきなり銃を発射されたら? 想像力が恐怖をかきたてる。

 全体を通してみると、ずっと凄まじい緊張感が続くのかと思いきや、案外ほっと息をつけるシーンもある。アクション映画のように、次から次へと危機が迫ってそれを回避していくとか、そういう映画ではないからだ。とはいえ、それとても常に死と隣り合わせであり、いつ均衡が崩れるかわからない。
 こうした肌感覚を味わうためにも、本作は劇場での鑑賞を強く推奨する。

 この記事を執筆中、ニュージーランドでも銃乱射事件が起こってしまった。ウトヤ島同様、平和とされる地域での出来事であり、移民政策への反発が動機のひとつとされており、国内では過去最悪の犠牲者を出した。
 嫌な話ではあるが、そのことがいま、本作を観に行く価値を高めてしまったように思う。
 もし、あの場に自分がいたら、はたして‟正しい”行動を取れるのか? それとも……

『THE GUILTY/ギルティ』

 予告編

 面白かった。
 ロッテントマト満足度100%は伊達ではないということか。昨年はパソコン画面だけでストーリーが進行する『sarch/サーチ』という作品があったが、アイディアで勝負するサスペンスという点で共通しており、まあだいたい、どこのサイトでも名前が挙がっている。邦題も明らかに寄せてるよね。

 本作は、とある事情で緊急ダイヤルの電話番をしている警官アスガーを主人公に、音声だけで進行する。通話者との会話や電話の向こうから聞こえる音をヒントに状況を把握し、解決法を導き出していかなければならない。
 まあ、この辺の説明は、あの秀逸な予告編を観ればだいたいわかるので。一見して面白そうだと思ったならば間違いないと思う。その期待を裏切らない出来ですよとはいっておく。

 いままさに起きている事件に対し、電話という手段でしか介入できないアスガーは焦りを募らせ、徐々に暴走を始める。別室に閉じこもり、ブラインドを降ろすという行為は、文字通り彼が盲目状態に陥っていることを示す。暗闇の中、着信を報せる赤いランプが不気味に彼の顔を浮かび上がらせる。そこへまったく関係のない入電があれば、そりゃあブチ切れますわな。
 しかし、こうした一連の行動は、アスガーの抱える問題とも関わってくる。ぶっちゃけ、誘拐事件を解決するだけでも十分面白い作品になったはずなので、この辺は蛇足にならないか心配だったのだが、そこは脚本が見事で、きちんとストーリーに絡めてくれている。特に好きなのは、アスガーが友人に対して発した「俺のために嘘をつくな」というセリフが直後にブーメランとなって彼に突き刺さってくる部分。そういうシーンではないにも関わらず、ニヤリとしてしまった。
 それと、観た方ならぜったい「うえぇ……」となるであろうヘビのくだり。
 ヘビはサタンの象徴であり、本作のタイトルや、アスガーたち登場人物の抱える「罪」の暗喩でもある。
 サタンをはじめとする悪魔とは、キリスト教において人間の罪を背負わされる存在であり、ある意味でイエス・キリストの同類である。
 余談だが、宗教学者・高尾利数によれば、キリスト教の定義とは「イエスを絶対的・唯一的・最後的‟キリスト(=メシア)”と信ずる宗教」となる。つまり、キリスト教徒以外にとってキリストは一人とは限らない。私も特定の神に帰依しているわけではないので、この定義に則ってイエスを「キリスト」とだけ呼ぶことはしない。
 要するに、中世的な感覚では、人間が悪事を為すのは悪魔に誘惑されたからであり、最終的な責任を人間は負わないことになる。だが、アスガーは事件を通し、己の罪と向き合うことを決意する。
 ラスト、彼は自分のスマホを使って電話を架けるが、その相手が誰なのかは、実際に観て考えてほしい。

                             ★★★☆☆
                             ★★★★☆

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