『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・11
闇の中、蝶が舞った。
それと知れたのは、光を放っていたからだ。
青白い、燐光にも似た輝き――
酔いどれるような動きで、それでもなお上を目指し飛んでゆく。
だが、ここは〈幽霊船〉の居住区だ。
目指す先に天はなく、かならず天井につきあたる。
進めない。先はない。
だが、闇を舞う蝶にそんなことはわからない。
わからぬまま、昇って昇ってその末に、儚く燐光を散らして消えるのみだ。
はは――と、蝶を見上げて女は嘲笑《わら》った。
あれはまるで、自分ではないか。
その夜の酒場〈酔鯨〉には、看板娘が勢揃いしていた。
猫人《マオン》のリアット、鳥人《バーディアン》のイルドラ、人族のレックスの三人だ。
リアットは口調が乱暴なものの、ふわふわの茶毛と大きな金の瞳がとにかく愛らしく、どんなに邪険に扱われても男たちが彼女を嫌うことはない。
イルドラは美しい朱色の冠羽《かんむりばね》が自慢で、明るく客あしらいに長けている。
レックスは三人の中では最年長。大人しやかな外見に反して芯が強く、よきまとめ役として他の二人にも慕われている。
三人とも酒場勤めは長く、給仕の仕事をこなしつつ、素早く情報をやりとりする余裕もある。
「ほら、あの人来てるよ」
空いた食器を集めて戻ってきたリアットが、レックスに対して意味ありげな目配せを送った。
「あの人?」
「レックス姉さんのお気に入り」
厨房から渡された料理を運ぼうとしていたレックスの動きがぴたりと止まった。
「べ、べつにレムトさんはそんなんじゃ……」
「あれー? オレは誰ともいってないんだけどなあ」
耳まで赤くなったレックスを見て、リアットがにししと笑った。
「ちがいます。入ってきたときに気づいただけ」
「その瞬間わかっちゃうのも、それはそれで」
「馬鹿なこといってないで。今日は忙しいんだから」
なんでもバーゴノフ工房で請け負っていた大きな仕事が片付いたらしく、そこの職人が大挙してやってきたのだ。
ただでさえ人数が多い上に、バーゴノフ工房はディドラス人が半数以上を占めている。
彼らは巨人族とも呼ばれ、身長は平均的な人族より頭三つ分は高く、体重なら優に倍を超える。
そんな連中がひしめき合っているのだから、ホール内を移動するだけでもひと苦労だ。
しかし、三人娘の中でもっとも身軽なイルドラだけは、そんな状況をものともせず、ひらひらとダンスでも踊るような足取りで厨房前まで戻ってきた。
「緊急事態。例のあの人に相席のお客さんだよ」
「それがどうして緊急事態なの?」
「だって女の人だよ。レックス、ピンチじゃない」
「だから、そんなんじゃないって――」
新たな注文を告げる声があがったため、レックスは反論を中断して客席に向かわざるを得なかった。
「ふたりとも、あとで話があるから」
「へーい」
「ありゃりゃ。やりすぎた?」
リアットとイルドラが顔を見合わせた。
口では否定しつつ、レックスの目はしっかりと件の席に向けられていた。
レムト・リューヒ。
凄腕の死骸漁り《スカベンジャー》。
その横顔は、悍馬にも似た美しさがあると湛える者もいる。
彼の対面に、数分前にはいなかった人物が座っていた。
細身ながら鍛えあげられた肉体を、これ見よがしに晒す露出の多い格好。
顔、脇腹、そして太ももに、獣の骨を思わせるギザギザの刺青が彫られている。
豊かな赤毛は背に届くほどの長さで、頭の上からは節のある二本の角が、ゆるくカーブを描きつつそそり立っている。
山羊人《ガラドリン》――比較的数の多い亜人種で、性格は穏やかな者もいるにはいるが、大半が荒っぽい。
レムトの前にいる女は一見後者に思える。
だが、その美しい顔からは、一切の表情が抜け落ちていた。
目は虚ろで、話す際にもくちびるをほとんど動かさない。
まるで人形が言葉を発しているようだ。
「近頃、楽しそうにしているな」
かすれるような声で女はいった。
見たのか、というレムトの問いには沈黙で応じる。
「なかなか、生きのいい奴だよ」
「丸くなったものだ。お前が弟子を取るとは」
「そんな上等なもんじゃあない。だが、すこしは張り合いが出ていい」
女が鼻を鳴らした。
馬鹿にするというほどでもないが、かといって賛意はまるでなさそうだった。
「そういうお前はどうだ? ラ=ミナエ」
「べつに。相変わらずだ」
「まだ傭兵を?」
「前にいたところは追い出されてな。いまはギヨティーネの世話になってる」
「ギヨティーネ? 最近よく聞く名前だな。たしか、モールソン一家と縄張りで揉めているとか」
「その、モールソンよ」
ラ=ミナエと呼ばれた女の顔に、はじめて感情がのぼった。
くちびるの片端を歪め、ニタリと笑みを浮かべる。
山羊人《ガラドリン》でありながら、獲物を前にしたヘビを思わせる顔つきだ。
「近々、大規模な出入りがある。その相手が奴らだ」
「なぜ俺に話す?」
「誘いに来たのさ」
ラ=ミナエは胸をそらし、マグの酒を一気に飲み干した。
「昔の仲間を連れて来いと雇い主にいわれたか?」
「それもあるが、こんな愉しい催しにお前を誘わん手はないだろう」
「愉しいだと? 殺しがか」
「違う違う。命のやりとりが、だよ」
卓に叩きつけるようにマグを置き、ラ=ミナエはレムトににじり寄った。
「最高だったなァ、お前と遊んでいた頃は……毎日がヒリついていて、いつ死んでもおかしくない状況が生きていると実感させてくれた」
「酔っているな、ラ=ミナエ」
大きく息をつきつつ、レムトはいった。
「なにをいってる。まだ一杯だけだぞ」
「いいや、お前は酔っている。あのときから、ずっとだ」
憐れむような口調と視線――だが、それらを向けられたラ=ミナエの目にも、かすかな憐憫の色が浮かんでいるかのようだった。