『バラックシップ流離譚』羽根なしの竜娘・10
「嫌です」
リーゼルは即答した。
「嫌ですよ、勝負なんて。わたしにメリットないじゃあないですか」
「ちょっと! そこは素直に受けるところでしょ!」
フローラは慌てて言った。
「そんなことないんでしょう。だいたい勝負ってなにするんです? 先に言っておきますけど、わたし戦いとか嫌いですから」
「もちろん拳と拳、爪と牙と各々が持つ全能力を駆使しての闘争よ。決まってるじゃない」
「やっぱり。だったら答えは同じです。嫌です」
フローラの顔が怒気で赤く染まった。
「あなたの言う通り〈虚無の海〉に投げ込んだっていいのよ。それを慈悲の心から、あなたにもチャンスをあげるって言ってるの。いいから勝負しなさい!」
「ああ、もう、ほんっと! ほんっと竜人族《フォニーク》って……!」
リーゼルは頭を抱えた。どうやら逃れるすべはなさそうだった。
「そうそう。ぐだぐだ言わずに最初からそうしてればいいの。セレスタからも、強くなれって言われてるでしょう? いい戦闘訓練になるんだから、手なんか抜かずに思いっきりきなさい」
「はいはい。それじゃあ……」
言い終わらないうちに、リーゼルは地を蹴った。
こんなことは、とっとと終わらせるに限る。
一撃で相手を無力化させるならあごに一発食らわせるのが常道だが、竜人族《フォニーク》や人竜族《ツイニーク》の頸は長くて柔軟なため、衝撃が殺されてしまう。
ならば――
「おっ……ふ……!」
フローラの両足が宙に浮く。
渾身の力を込めたこぶしが、みぞおちを突き上げたのだ。
すかさず身体を捻ってソバットを繰り出す。フローラの側頭部をかかとが捉え、そのまま地面に叩き落とした。
「ふうっ」
ぶっつけの奇襲だったがうまくいった。
不承不承ながら、戦い方はセレスタに日々仕込まれている。その成果が出たのだ。
「お、なんだなんだ?」
「喧嘩だ。嬢ちゃんふたりがやりあっとるぞ」
「キャットファイトっちゅーやつか」
「いやしかし、どっちも竜っぽいぞ」
ギャラリーが群がってくる。居住区の住人は基本的にお祭り好きだ。
彼らは口々に囃したて、野卑な声援が乱れ飛んだ。
(盛り上がってるなあ。でも、仕留めるつもりでやったから、もう――)
リーゼルは目を丸くした。
気絶してのびていると思っていたフローラが、何事もなかったかのように起き上がったからだ。
「いったぁ……まあまあ効いたわ」
「え、嘘?」
「これはサービス。あまりに一方的だとつまらないから、先に殴らせてあげたの」
スカートについた埃を払いながら、フローラはにこりと笑った。
わぁっ、と歓声があがる。
「ここからはもう、一発だって入れさせないから」
フローラの金瞳が、妖しく煌いたような気がした。
同時に、いったいどこから湧き出したのか、白い霧が周囲を覆った。
「まずい……!」
これではフローラを見失ってしまう。
リーゼルは慌ててフローラのいた辺りに手刀を振り下ろした。だが、手刀は空しく霧の一部を切り裂いただけだった。
どこに?
霧はミルクのように濃密で、すでに一メートル先すら見えなくなっている。
風でも起こせる能力がリーゼルにあれば使うところなのだが、そんなものはもちろんない。
足首になにかが巻きついた。尻尾? と認識する間もなく、物凄い力で引っ張られる。
きれいな半円を描き、リーゼルは地面に叩きつけられた。肺から空気が一気に押し出され、呼吸困難に陥る。
さらに二度、三度と左右に振り回され、身体ごと地面にキスをする。
四度目。空中に持ち上げられ、頂点に達して動きが止まる、その一瞬。
尻尾を引きはがそうと、リーゼルは足首に手を伸ばした。
だが、それは相手も想定済みだったようだ。しゅるりと解かれた尻尾は素早く霧の中へと消える。
また、見失った。
着地の際に四肢を地面につけて姿勢を低くし、油断なく辺りを見回す。
視界だけでなく、霧は音さえも遮断する。
気配を探ることすら困難だったが、それでも五感を研ぎ澄まし、かすかなそれをとらえようと試みた。
見えないし聞こえないという条件はフローラも同じ。
格別彼女ほうが鋭敏という話も聞いていない。
霧の中での戦闘に慣れているというのはありそうだけれど……。
(でも、動かないのは……まずいか)
息を殺し、そろそろと移動を始めたあたりで、霧が晴れつつあることに気づいた。
ハッとなり、視線を左右に走らせる。
いた!
小柄な影。こちらに背を向けている。
這ったまま接近、立ち上がる勢いを利用して突き。手応えが――ない!
どうして? という疑問はすぐに解けた。
リーゼルが攻撃したのは、霧に映った虚像だったのだ。
「わたしの特技は、水と光を操ること」
ななめ後ろから声が聞こえた。
「鱗から発した光を空中の水分に反射させ、分身を浮かびあがらせる。言ってしまえばただの目くらましなんだけど、大抵の相手にはこれで一手先んじることができる」
唐突に、フローラの姿が眼前に現れた。
大岩の突進を受けたかのような激烈な当身。息もできずに吹っ飛ぶ。
「あなたもよーっくわかってるでしょうけど、竜人族《フォニーク》のような桁外れの身体能力を持った相手に、この差は決定的なのよ」
いまのは効いた。
ことさら急所を打たれたわけでもないのに、全身の骨が軋んでいる。
咳き込むと、血の味が口内に広がった。
「虹の……フローラ」
それが彼女の異名だった。
単に、鱗の色を指していたわけではない。
彼女の能力と、それを十全に活用した恐るべき戦闘スタイル故なのだ。
そのことに、リーゼルは否応なく気づかされた。