『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・24
〈図書館〉の中庭には、来館客にほとんど知られていない一画がある。
真ん中に白いテーブルがひとつ置かれ、周囲の芝生も木々も手入れが行き届いている。
外からの喧噪は届かず、小鳥のさえずりや虫の声が聞こえてくるだけの穏やかな空間。
利用できる者はごく限られており、それ以外の人間が訪れることはほとんどない。
そんな場所に、ふたつの人影があった。
ひとりは特別客員司書ニーニヤ・レアハルテ。
テーブルを挟んだその向かいに、年老いた猿人《エイブン》の男が座っていた。
「このたびはご無理を聞いて下さり、ありがとうございました」
ニーニヤは胸に手をあて、老爺に感謝の意を示した。
そこには、いつもの彼女に見られる‟芝居がかった”ようすはなく、どこまでも真摯で敬意に満ちた態度だった。
「なに、無理というほどのこともない。ギヨティーネ一家の残党狩りは行わず、痛手を受けた組織の立て直しに専心せよ――あんたの頼みがなくとも、そうするのが一番じゃと考えたろうよ」
「それでも、今回の一件はひとりの人物によって引き起こされたもの、両組織は互いに被害者なのだと、あなたの口から説明されたのは大きかった」
この老人こそ、モールソン三兄弟の実父にして一家の当主、ファルタン・モールソンその人であった。
かつては居住区じゅうに悪名を轟かせ、モールソン一家を有数の武装組織に育てあげた豪傑も、いまや好々爺の趣さえ漂わせている。
「ファビリオなんちゃら、といったか。そやつを討ち取ってくれたこと、モールソンとしては大きな借りじゃ。……まあ、できれば自分たちの手で始末をつけたかったというのが、うちの子猿どもの本音じゃろうがな」
「討ち取ったのはボクではなく、‟私”の護衛です、ファルタン翁」
「そうじゃったな。失敬失敬」
あの戦いの直後、ニーニヤとウィルはモールソン一家と接触し、ラ=ミナエは自分たちが殺したこと、ギヨティーネとその妻子は、すでにラ=ミナエに殺されていたことを伝えた。
後半はまったくのでまかせだったが、気絶して瓦礫に埋もれているところを助け出されたミツカが口裏を合わせてくれた。
モールソン一家が引きあげたあとで、ニーニヤたちはゆっくりギヨティーネを捜索した。
そうして彼らの身柄を確保したのち、中庭の数少ない利用者でもあったファルタンと密会し、協力を取りつけたのであった。
「それで、有益な話は聞けたのかのう?」
「まあ、それなりに。ギヨティーネ氏としては、もう彼女のことは忘れてしまいたそうでしたので、早々に解放してさしあげました」
「それでは、お前さんの求める完全な記録はとれないのではないか?」
「言葉や記憶はいつだって不完全ですし、伝聞や感情といった要素が差し挟まれるならなおさらです。それでも、残るものはあると信じて、‟私”たちは記し続けるのです」
「魔書を継ぐ者としての覚悟、あるいは諦念かのう」
「そんな大袈裟なものではありませんよ。後世に記録を残そうとする者ならば、皆が心得ていることです」
「そうか」
会話が途切れ、ふたりは手許に置かれたカップに口をつけた。
「ときに、お前さんの護衛についとる小僧じゃが」
「ウィルがなにか?」
「そう、そのウィルじゃ」
ファルタンが目を細めると、まぶたの下で一瞬、往時の彼を思い起こさせる鋭い眼光が走った。
「聞けば元々、うちの子猿のひとりだったそうじゃないか。わしが許すゆえ、いまからでも戻って来ぬかと訊いてみてはくれまいか?」
「お断りいたします」
ニーニヤはカップを持ったまま即答した。
ファルタンは「ほっほっ」と口をすぼめて笑う。
「それほどに大事か」
「はい」
「野暮を承知で訊くが、どこをそれほど気に入っておる?」
「そうですね。しいていうなら――」
ひと呼吸置き、ニーニヤはにっこりと微笑んだ。
「彼の血が、とても美味しいからです」
「どうする? その腕だ。稽古は休むか?」
レムトの声はいつになく優しげだった。
原因はわかっている。ラ=ミナエの死を告げられたからだ。
決別した相手とはいえ、元仲間だ。なにがしかの情はあったのだろう。
しかし、そのことと自分は無関係だ。
ウィルは首を横に振った。
「気にしないで下さい、師匠。左手は無事ですから」
レムトは嫌がったが、結局「師匠」という呼び方が定着していた。
木剣を左手に持って素振りをしていると、レムトが前にやってきた。
「打ってこい」
「はい!」
慣れない左腕一本での掛かり稽古。
打ち込みにはうまく力が入らないし、体さばきもぎこちなくなる。
だが、今回のように利き腕が使えなくなることもある。
動きが雑にならないよう注意しつつ、ウィルは黙々と剣を振った。
「すまなかったな。あいつのことは、本来俺が始末をつけるべきだった」
ウィルの攻撃をいなしながら、レムトがいった。
「あの人と出会ったのは偶然です。師匠はなにも悪くない」
「あいつが狂気に陥った一因は俺にある。それに、俺の教えた技のせいで、お前はころされかけた」
「救ってくれたのも師匠の技っスよ」
嘘ではない。
本当にそう思っているから、自然と言葉が出た。
だが、レムトは虚を衝かれたように目を丸くした。
「隙あり!」
ウィルは渾身の一撃を放ったが、あっさりかわされたうえ、足をひっかけられて顔面から地面に突っ込んだ。
「んぐ……痛ってぇ!」
「甘い」
レムトはにやりと笑った。
「べつに、師匠は全知全能の神ってわけじゃないでしょ」
「まあな」
「しがない死骸漁り《スカベンジャー》で、おれの師匠です」
「そうだな。元より、大した男じゃあない」
ほんのすこしだけ晴れやかな顔になって、レムトは息をついた。
「そういえば、亡骸はどうしたんだ?」
「ちゃんと埋葬しましたよ。そうしないと山羊人《ガラドリン》は祟るって、モールソンの奴らを脅したんです」
「あの狂暴な連中を相手に、お前もいい度胸してるな」
呆れるような口調だったが、ウィルを見つめる目には感謝の色があった。
レムトとの関係がなくとも、ラ=ミナエの遺体がどう扱われるかを考えたら、モールソンに引き渡すことはなかっただろう。
それでも、あの選択は間違っていなかったと、ウィルは改めて確信した。
「墓参り、いくんですか? ってか、いって下さい」
「……そのうちな」
ぶっきらぼうに、レムトはうなずいた。
時を告げる鐘の音が鳴り、ライトクリスタルが発する光の赤い色が濃くなっていた。
夜の訪れが近づいているのだ。
石畳にのびた幾つもの影が、せわしなげに行き交う。
家路につく者も多いが、これから活動をはじめようとする者もいるのだろう。
あらゆる世界から隔絶された船上都市でも、人々は息づき、日々の営みを続けている。
結局のところ、人が生きる場所というものは、どこであってもそういうものなのかもしれない。
〈図書館〉の水晶塔も街並みと同じく赤味を帯びつつ、沈黙する賢者のように人々を見おろしている。
閉館間際の門扉。その一方の柱の横に、ニーニヤ・レアハルテは一時間も前から立っていた。
外出日以外はほとんど館内に籠っている彼女としては極めて珍しい。
〈図書館〉から出ていく来館者たちは皆、この貴重な見世物に目を丸くし、しばし足を止めたり、何事だろうと囁き合ったりするのだった。
やがて通りの向こうから、ひとつの影が現れた。
怪我をした右腕を吊っている以外には取り立てて目を惹くところもない、凡庸な雰囲気の少年だ。
しかし、彼の姿をみとめた瞬間、ニーニヤの顔はパッと花が咲くように輝いた。
彼女は少年の名を呼ぶ。
人目もはばからぬ、大きな声で。
少年は驚き、慌てて足を速めた。ぴょこぴょこと跳ねる少女が、自分の名前を繰り返し呼んでやめなかったからだ。
「おかえり」
少年が目の前までやってくると、ニーニヤは満面の笑顔でそういった。
「お前な……恥ずかしいだろ、こんな」
「ちがうだろう、ウィル」
咎めるように、ニーニヤは少年に指を突きつけた。
少年はため息をつき、仕方ないといいたげに頭をかいた。
「……ただいま」
◇
――ウィル。ウィル。ボクのウィル。
キミと出会った夜を、ボクは昨日のことのように憶えている。
なんでもない夜に、ボクはキミを見つけたんだ。
光降る〈図書館〉の庭。
草の上で、キミは仰向けに倒れていた。
ボロボロで、薄汚れて。
いまにも息絶えてしまいそうなほど疲れ果てたありさまで。
上から覗き込んだボクを見て、キミは「天使?」と訊ねたね。
おかしくって、ボクは笑い転げた。
「ああ、そうか。この髪が翼に見えたんだね。でも、全身黒づくめの天使というのは、かなり珍しいんじゃあないかな?」
「なんだ……なら、おれは……まだ……生きて、いるのか……?」
「そうだね。残念ながら」
「……そうか……ほんとうに……残念……だな……」
そういってキミは、悔しそうに微笑んだ。
ウィル。ウィル。
ボクは、見つけた、と思った。
長いあいだ、ぽっかりとあいていた胸の穴。
ずっとずっと、足りないと思っていたパーツの欠片。
これはきっと、そういうことだ。
月並みな表現でいうならば、運命というやつだ。
なんでもない夜に――なんでもない夜になるはずだった夜に。
ボクはキミを見つけたんだ。