『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・7

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 ジャングルの夜は、思っていたよりも肌寒かった。
 しかも、地面は湿っていて、横になっているだけでも体温を奪われる。
 もっとそばに来て寝たまえよ、とニーニヤが提案してきたが、それは断固として拒否した。
 ついさっきあんなことがあったばかりだというのに、ミツカの誤解をさらに深めてどうするのだ。
 しかし、いまはすこし後悔している。
 深夜、尿意をもよおし、目が覚めた。
 寒さと、意外なほど美味で、思わず何杯もおかわりしてしまったたシチューのせいもあるのだろう。
 眠っているとはいえ、ニーニヤから見える場所で用をたすのははばかられる。すこし不安だったが、ウィルは森に踏み込んで、周囲から見えなくなる場所を目指した。

 チリリリリリ……
 スッチョン……スッチョン……スッチョン……
 ジギギギギギギ……ギィ……ジギギギギ……

 笛の音に似たものや、跳ねるようなリズムのもの、あるいはやすりを擦り合わせるようなものと、さまざまな虫の声がそこかしこから聞こえてくる。
 なんだか昼間よりもやかましい。
 一方で、ジャングルを包む暗闇は、ウィルの知るどんな夜よりも深い。
 レムトの指示で絶やすことなく焚かれている火は、木立の向こうで心細げに揺れている。
 茂みがガサガサと鳴るたびに、凶暴な肉食獣が飛び出してくるのではないかと、ウィルは身体をこわばらせた。
 いちおう、交代で見張りが立てられ、声をあげればいつでも手練れが駆けつけてくれることになってはいるものの、昼間戦ったビークに匹敵する怪物がふいに現れでもすれば、逃げる間もなく命を失うだろう。
 手早く済まそう。
 ちょうどよさそうなスペースを見つけ、ウィルはズボンを降ろした。

「……ふう」

 ぶるっ、と身体が震えた。
 緊張続きの探索行にあって、数少ない安らぎの一瞬だった。
 ゆっくりと目をあける。
 そこに、ミツカがいた。
 ミツカは驚きの表情のまま、視線を下げ、また元にもどし、ひくっ、と口許をひきつらせた。
 二人分の悲鳴が、闇夜に響きわたった。


「力」を得る――それがラムダの行動原理だった。
 船尾にもっとも近い貧民街で、彼は生まれた。
 両親の顔や名前は知らない。大方、べつの地区に住んでいて、生まれたばかりのラムダを売るか捨てるかしたのだろう。
 そこは人がましい倫理観など皆無で、誰もが浅ましくその日その日を這いずって生き、明日への展望など、どこにも欠片も存在しない場所だった。
 クソのような匂いのするゴミ溜めにあって、ラムダの才能は傑出していた。
 彼は自分とおなじような境遇の子供たちを集め、大人たちにも負けない組織を作りあげた。
 盗み、物乞い、恐喝等々、あらゆる手段を駆使して金を集め、奪われる側ではなく奪う側に立つべく奔走した。
 頭角を現したラムダに周辺の組織が目をつけないはずはなく、モールソン一家の幹部、グラッド・モールソンが直々にスカウトにやってきたのが去年のこと――目論見通り、と内心ラムダはほくそ笑んだ。
 ここまで、仕事はできるだけ派手におこない、名を売ることにも心を砕いてきたが、それはより強大な組織に存在を誇示するためだった。
 グラッドは一家のボス、ファルタンの二番目の息子で、慎ましいラムダの隠れ家では入口を壊して入らなければならないほどの巨体を持った猿人《エイブン》だった。
 粗野で凶暴。よく言えば豪放磊落な性格だが、自分だけはなにをしても許されると思っているようなタイプで、ラムダが一家に加わったのち、直属の上司となった三男イグラッドに至っては、次兄から知性を除いて凶暴性をマシマシにしたような、極めて物騒な男だった。
 しかし、それでも彼らは、誰の目にも明らかな「力」の所有者だった。
 無法という法の支配する船内にあって、力を持つことがなによりも重要なのはいうまでもない。

 食うため。身を守るため。快楽を得るため。軽んじられないため。

 すべては力あってこそ、叶えることができるのだ。
 力を得るための競争、闘争には犠牲がつきものである。
 貧民街で暴れまわっていた頃も、たびたび身内から死人は出たし、ときには血を分けた兄弟すらも切り捨ててきた。
 加入当初から幹部候補のひとりと目され、手始めにこいつらを率いてみろと、奴隷市場から買われてきた少年少女を引き合わされたとき、果たして何人が最後まで自分についてこられるかと、密かに値踏みしたものだ。
 ニッカは虎の威を借る鼬、サタロは臆病で強い者には無条件でひれ伏すといった欠点はあるものの、手駒としては悪くない。
 臆病というならミツカのほうがよほど酷いが、彼女にしても、戦闘ではニッカたちより良い動きをする。
 それに、他者に警戒心を抱かせにくいという特性は、使いようによっては役に立つかもしれない。
 初顔合わせでのこの評価は、〈天啓の詞《フルール・クルーレ》〉での覚醒を経て確信に変わった。
 ニッカたちの手に入れた特殊能力は、いずれも戦闘の助けとなるもので、幹部たちからも「使える」というお墨付きを得た。
 一方、ラムダのそれは、「炎」だった。

 ――いいじゃあないか。

 思わず、そうつぶやいた。
 地獄の業火。
 灼き尽くす燎原の火。
 魔を払う浄化の炎。
 いずれも力そのもの。ラムダは己の未来が一気にひらけるのを感じ、恍惚となった。
 しかも、ただの炎ではない。
 掌中より生まれた炎はラムダの思い描いたとおりのかたちを取る。
「剣を」と念じれば剣に、「盾を」と念じれば盾に、「馬を」と念じれば騎乗もできる駿馬となった。
 もとより純粋な破壊力に優れるうえに、極めて汎用性の高い能力に、彼は満足を覚えた。
 実際、この能力を駆使すれば、イグラッドから命じられるどんな困難な仕事も、容易く完遂することができた。
 イグラッドも、ラムダをスカウトしたグラッドも大いに喜び、先日ついに、一家のボスであるファルタン・モールソンとの面会も叶った。

「お前ももう、立派な我が家の一員だ。これからも励むようにな」

 世間からは悪鬼のように恐れられる老猿はさすがの威厳の持主だったが、元気な若手を見やるしわ深い顔には好々爺といってよい色が垣間見えた。
 まさに順風満帆。
 そんなラムダにとって、ウィルという少年は、道端の石ころや雑草ほどの印象すら残らない存在だった。
 競争には犠牲がつきものである。
 誰かがのし上がればべつの誰かが振り落とされる。それはこの世の絶対的な摂理であり法則だ。
 勝者は敗者を顧みる必要などなく、もっといえば、その権利さえ持たないのだと、ラムダは考える。
 だから、取るに足らない能力しか獲得できず、一家を放逐された少年のことなど、すぐに記憶の片隅に追いやってしまった。
 ――誰だ……?
 再会したときも、正直すぐには思い出せなかった。
 いまもすこし、自信がない。
 本当にウィルなのか? 実は、ウィルとはいっさい関わりのない別人で、なにかの事情から皆で示し合わせて騙そうとしているのではないかという疑いさえ浮かんだほどだ。
 向こうはなにやら、こちらに含むところがあるらしく、親の仇でも見るかのような目つきで睨まれたりもしたが、これもとんと思い当たらない。
 いったいなにをしたというのか。あるいはしたと思われているのか。
 それほどに、ウィルとやらとラムダとの接点は薄く、どうでもよかったということなのかも……きっとそうにちがいない。
 しかし、それでもほんのすこしだけ、気になるとすれば、彼が今日までどうやって生き延びることができたかということだ。
 彼が本物の、かつてラムダと会ったことのあるウィルだったとして。
 ニッカたちは、ウィルがどれほど期間、船内で生き延びられるか賭けをしていたらしい。
 記憶にはないが、ふたりはラムダにもその話を持ちかけ、ラムダは適当な答えを返したはずだ。
 ミツカ以外はひと月以内に賭けた――と、ニッカはいっていた。
 ウィルの能力と船内の危険度を量りにかければ、その答えはかなり妥当性が高い。
 あのときのウィルが現在のウィルであったとしても、きっとおなじ答えを選ぶ。
 なのに、彼は生きている。
 ラムダは、ウィルといっしょにいた少女の姿を思い浮かべた。
 噂くらいは聞いたことがある。
〈図書館〉に飼われている〈記録魔〉のこと。
 ニーニヤ・ザ・レコーダー――奇妙な〈本〉に、見たものを手当たり次第に書きつけてゆくという蝙蝠人《バッティスト》の少女。
 美しい容姿をしていたが、種族も違うし、そのこと自体にさして興味は惹かれない。
 それよりも、彼女と目を合わせた瞬間、背筋を駆け抜けた戦慄にも似た感覚だ。思い出すだけで、いまも嫌な汗が滲む。
 あれは、本当に見たまま、聞いたままの存在なのか?
 もっと恐ろしいなにかではないのか?
 口許がひきつり、我知らずラムダは笑みを浮かべていた。
 あんなものがそばにいるというのなら、なるほど納得もできよう。
 非力で無力な少年を、あれが庇護しているというのなら。
 しかし、そうなると――
 なぜ、そんな奴が取るに足らない少年をそばにおいているのかという、新たな疑問が湧いてくる。
 男女のことか?
 それとも、他に惹かれる理由でも?
 わからない。考えたところで正しい答えにたどり着くとも思えない。
 それでも、そんな疑問をぼんやりと考え続けることが、ラムダにはさして苦痛ではない。
 いい暇つぶし、とさえ思っている。
 だから、なんとなく彼らのいるほうを眺めていて、異変に気づくこともできた。
 目を覚ましたウィルがどこかへゆき、ひとり残った少女を、数人の男が連れ去った。
 たまたまミツカが起きたので、そのことを告げると、物凄い勢いで飛び出していった。
 べつに、どうでもいいだろうに、とラムダは思った。
 所詮、関わりのない人間の運命だ。
 なにより、あれが――
 あの得体の知れない女が、ごろつき程度にどうこうされるとも思えない。
 あとでミツカになりゆきを聞こうと考えつつ、ラムダは波のようによせてきた睡魔に身を委ねた。


 ひとしきり慌てふためいたあと、それどころではないとミツカが告げた報せは衝撃的なものだった。
 というか、ウィル自身、そこまで衝撃を受けるとは思っていなかった。

「そんな……ニーニヤが……」

 頭が真っ白になり、出てくる言葉はまともに意味を成さなかった。

「落ち着いて。まだ、そんなに遠くにはいってないはずよ」

 大丈夫。大丈夫だから。
 包み込むようにウィルの手をにぎり、ゆっくりとした口調で、まっすぐに目を見つめてくる。
 ミツカの手はやわらかく、とても温かかった。

「あ、ありがとう」

 狼狽えている場合ではない。
 気を取り直したウィルは、ミツカとともに野営地に駆けもどった。
 ニーニヤの寝ていた場所には彼女の使っていた毛布が残されていたが、争ったような形跡はない。
 寝込みを襲われたのだから、抵抗すらできなかったのだろう。

「他にいなくなってるのはホドロって人たち。きっと、その人たちが犯人ね。レムトさんたちも探してくれてる」

 ホドロ――名前は記憶になかったが、たぶんあの連中だろうという顔は思い浮かぶ。小汚い身なりをした死骸漁り《スカベンジャー》のパーティだ。メンバーは、彼を入れて五人。
 目当てはおそらく〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉だ。
 外界から隔絶された〈幽霊船〉では書物自体が貴重だが、中でも〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉は特別と言える。
 一冊しかないことに加え、ニーニヤ曰く、「それ自体が強力な魔法具」なのだとか。
 船の外から書物が持ち込まれたり、ダンジョンで発見された場合、もっとも安全かつ高額で買い取ってくれるのが〈図書館〉である。
〈図書館〉は人の「叡智」を保存し、要請があれば写本を制作して貸し出す。
 そのとき、謝礼というかたちで支払われる代金が〈図書館〉の主な収入源となっている。
 しかし、仮に〈億万の書〉が売りに出されれば、どれだけ金を積んででも手に入れたいと望む好事家は多いだろう。

「本だけ……かな?」

 ミツカが不安そうに訊ねた。
 言わんとするところはわかる。
 ニーニヤを生かしたまま連れていけば、特定の店に高く売れるのは間違いない。
 だが、検疫を抜ける際のリスクを考えれば、殺してしまったほうが話は簡単だ。
 連中がニーニヤを始末するつもりにも関わらず、その場で殺さなかったのは、自分たちで愉しむためだろう。
 いまある情報で判断するなら、可能性は五分五分といったところか。

「とにかく、急がないと」
「う、うん。でも……」

 ミツカが樹々に目を向けた。
 ラムダによれば、荷物を抱えたホドロたちは、ジャングルに踏み込んでいったらしい。
 見ていたなら止めろよと思ったが、ともかく連中は、迂回路を取りつつ船を目指していると思われる。

「どうする?」

 夜のジャングルは、昼間とは比べ物にならないほど危険だ。

「おれたちは元来た道をいこう。奴らだって、なるべくはやく道にもどりたいはずだ。うまくすれば、先回りできるかも」

 ウィルは松明をかかげ、昼間通ってきた道を逆行した。

「ま、待ってってば!」

 ミツカが追いかけてくる。
 つきあってくれるのはありがたいが、だからといって歩調を合わせるつもりはない。
 気が急いているのだろう、自分でもかなり速いペースだとわかる。気持ちとしては、全速力を出したいくらいだった。
 足を動かしながら、ウィルは注意深く観察をはじめた。

(焦るな……焦るなよ……)

 焦ったところで事態はひとつも好転しない。
 与えられた役割を――ニーニヤを守るという使命を果たしたいと思うなら、なによりもまず、落ち着くことが肝要だ。
 いまだ未熟な自分にできることなど、そのくらいしかないのだから。
 途中、獣の遠吠えや、茂みがガサガサ鳴ったり、ザキザキ……ザキザキ……というような得体の知れない音を何度も聞いた。
 存在を隠そうともせず疾走するウィルたちは、ジャングルの住人からすれば格好の獲物だろう。
 だが、いまは恐怖に竦んでいるヒマはない。悪い想像を頭から締め出し、ひとつのことにだけ集中する。

「あった!」

 突然立ち止まったウィルの横に、困惑顔のミツカが並んだ。
 あそこだと示すほうを見てもすぐにはわからなかったようで、目を眇め、顔を近づけたところでようやくなにかに気づいて「あっ」と声をあげた。

「これ、人の通った跡?」

 森と道の際――そこに生えている樹の幹についたわずかな傷。それから折れた枝と、道に入って船へと向かう足跡。
 どれも、熟練の狩人か野伏でもなければ見落としてしまいそうな、ごくわずかなものだ。

「よくわかったね」
「かたちがちがうんだ……来たときとは」
「えっ?」

 ウィルは素早く呼吸を整えると、すぐに追跡を再開した。ここで道にもどったとすれば、もうすぐのはずだ。

「憶えてるの?」
「そう。それが、おれの能力」
「え……だ、だって――」

 ミツカは口ごもった。あのときの顛末を思い出したのだろう。
 モールソン一家の見習いとして〈天啓の詞《フルール・クルーレ》〉参りを済ませたウィルたちは、イグラッド・モールソンの前で発現した能力を披露した。
 他の少年少女は、おおむねイグラッドを満足させ、やがてウィルの番になった。
 精神の力を引き出され、フルーリアンとなった者は、教えられなくともなんとなく、手に入れた能力がどんなものかわかるものだ。
 だからウィルも、直感にしたがって、できると思ったことをやってみせた。
 それは、「自分が現在いる座標がわかる」ということだった。
 日々増築と改装とその他の要因によって変化を続ける居住区では、外出の際、現在地を把握するコンパスが必須アイテムとなる。
 必須ということは、それだけ需要があるということであり、技術者集団〈ギルド・ガラニア〉有する工場で大量生産され、安価で出回っている。
 具体的には、だいたい十分の一パールだ。
 つまり、ウィルの手に入れた能力とは、子供の小遣いで買える程度の道具で代替が利くものだった。
 イグラッドが大いに失望し、その場で一家からの追放を決めたのも当然といえる。
 しかし、それがすべてではなかった。

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