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なぜおれは大学で3留したのか


「なんで留年したの?」と問われることがある。1留や2留ならともかく、3留して、学部の卒業に7年かかっているんだもの。気になるひとがいるのは当然のことだ。質問者たちに悪意も感じない。彼女ら彼らもシンプルに気になるのだろう。卒業して4年経った今なら、当時のことを振り返ることができるような気がする。

留年の経緯

酒・煙草・読書

なんで留年したのかと訊かれたとき、おれは、「酒と煙草と読書に耽っていたら時間が経っていた」と答えることにしている。答えることにしている、というのは、これがそのまま「答え」ではないからで、解答の困難なものについてはあらかじめ答えを用意しておくことで、コミュニケーションの流れを断たないようにしたいという配慮、変に話が暗くならないようにしようという配慮だ。笑いもとれる。ときに、書生みたいだね、なんて言われて、おれは苦々しい気持ちになる。結局しんどい人間が選ぶ態度や行為というのは似通ってくるものであって、自分もそんななかのひとりだということを否応なく知らされるからだ。

たしかにおれは酒をよく飲んでいたし、煙草もよく吸っていたし、本もよく読んでいた。でも、これらを徹底していたかと言われたら、そんなことはないと思う。これらが留年の直接的な理由であったとはとてもじゃないが、言えない。肝臓や膵臓をダメにして医者から辞めろと言われるまで酒を飲んだわけでもないし、肺が壊れて入院するほど煙草を吸ったわけでもないし、本だってもっと読んでもっと書いて評価されて、新進気鋭の作家にでもなれていたらよかったのだけれど、残念ながらそうではない。そういった外からの限定があると物語性が強くなるから、そういう語り口が好まれるが、現実は物語ではない。そのようなストーリーを留年生に求めるとしたら、あなたたちは小説の読みすぎだ。

いわば、酒も煙草も読書も、原因ではなく結果であって、根っこにあったのは、「真に生きたい」という思いだった。真に生きるには「偽に生きる」ともいうべき非本来的なあり方を想定しているのであり、そこからの逃避として酒や煙草があった。真の生き方を求めて本を読み漁った……いや、これもどうも決然としているようでしっくりこないな。文学の世界ほどにおもしろいものはない、と感じたタイミングがあったのだと思う。今となっては思い出せない。本を読み始めてしまったから、本を読んでいるというだけのことだ。

行きすぎた効率厨

大学1年までのおれは、いわゆる効率厨だった。大学受験の過程で経験した効率的な勉強というものにおもしろみを感じて、それを人生に拡大しようとしていた。今思えば愚かなことだ。人生は受験勉強とは違うのに。でも、当時の自分はそれを信じ切っていた。大学では少しでも効率的に多くのことを学び、卒業後はそれをもとに立派な仕事をし、大金を手にする。書いていて恥ずかしくなってしまうが、大学1年の頃のおれはそう信じてやまなかったのだ。小学校から始まる詰め込み教育もそれに寄与していたと思う。ある意味従順な時代の子だった。

大学1年の5月、新歓でお世話になった競技ダンスサークルに入会した。効率厨の側面はダンスの練習によく活きた。新人戦では何度も優勝させてもらえたし、先輩たちにも可愛がってもらって、サークル生活は順調だった。が、このときはサークルに熱中するあまり、学業が疎かになっていた。サボっていたところもあったけれど、正直、自分のキャパシティーを超えていたのだと思う。そしてその事実をおれは認めようとせず、「自分はまだできる」と信じ込んでいた。おれはなんでもできなければならない。勝たなければならない。そういった思い込みに自分が潰されそうになっていることに気づくことのないまま。

だが、そんな状態がいつまでも続くはずはない。大学1年の終わりごろ、強い抑うつ状態と、不安、無気力がやってきて、動けなくなってしまう。熱心に取り組んでいた競技ダンスのサークルも辞めた。あまりきれいな辞め方ではなかった。もう誰にも会えなくなっていた。記憶もあまり残っていないし、端末上に残っていた文章類は消してしまった。日記のようなものも残していない。

事後の観察

うつ文学と言っていいか、自らのうつ状態について仔細にわたって書いたような類の本があるが、あれは文字通り「文学」として読むべきものだと思っている。自分が苦しんでいて、文章が読めない書けないというような状態にあったときのことを後から書き起こしているのだから、多分に脚色が入っているはずだ。たとえるなら夢日記のようなものだ。

要するに、われわれがふつう夢と呼んでいるのはすべて「事後の観察」である。夢の世界ではわれわれは文字通り夢中に生きているのであって、しかも生きていることとそれを眺めることとに何の乖離もなく生きているのだ。そこでは「在りさうもない事だけ」が起っているが、しかもそれを何の疑いもなく受け入れている。「本当のリアリティはつねにリアリスティックではない」とカフカがいうのは、この意味においてである。

柄谷行人『意味という病』(講談社文芸文庫)

柄谷行人は以上のように述べるが、抑うつ状態にも、これと同じことが言えると思う。心が塞いでいるときは、それ以外のことが何も考えられず、しかも、生とそれを眺めることが一致している。あとから書いたものは、事後の観察に過ぎない。

少し脱線した。おれの抑うつ状態についても、夢のようにうまく記述することができない。かといって巧く書こうとしたら、それは別の文学になってしまう。おれは今、留年の経緯をなるべく当時の実感に沿って書こうとしているのだから、不可能に近いとしても、嘘をつくことを可能な限り避けたいと思う。

さて、抑うつ状態からどのように復帰したのかはわからない。ただ、効率厨だった頃の自分が砕けたことは認識している。そこから、非効率、非生産、無目的、無為の方に向かっていった。おれの行っていた大学の法学部は4年までは自動的に進級できたので、そのまま2年にあがるのだが、大学には相変わらず行けないままだった。自分のキャパシティーを大きく見積もるということはこの頃も変わっていなかった。プライドが高くて、再履修の授業にもあまり行けなかった。そのプライドを小さくすることをやっと覚えたのはもっとあと、大学5年目の1留し始めたときだ。同級生に頼ったり相談したりできたらよかったのだが、1年のときに授業にあまり行っていなかったから、頼れるような友達もいなかった。そして、そこで友達に媚びて単位を取ろうとするのはまた、プライドが許さなかった。

でも、プライドは高いくせに行動はついてこなかった。授業には毎回ちゃんと行こうとしていたけれども、起きれなかった。その都度自身を責めた。そんなことがだらだら続いていたような気がする。いろんなサークルに加入したり、いろんなイベントに顔を出したりもしたけれど、その都度、すでに出来上がっているコミュニティに入っていくのは精神的な負担が大きくて、結局どこにもなじめないまま時間が過ぎた。

大学3年のとき、おれは「外」の風を求めて、詩を書いていく決意をした。わからないなりにたくさん読んではたくさん書いた。そしてそれを公募に応募したりもした。運もよかったのだろうが、それが入選したりもして、おれはわずかずつではありながらも自分のやっていく方向性を見定めていったのだと思う。けれども、それと大学とは別である。詩を書けば「外気」に触れることはできるけれども、いつまでも「外」にいることはできない。「内」に戻ってくるのは必然で、その度ごとに鬱々とした時間を過ごすことに変わりはなかった。

転機が訪れたのは、留年し始める前後の時期、大学4年目くらいの時期だ。類は友を呼ぶというのが本当にあるようで、留年しているひと、留年しそうなひとと、友達を通じて仲良くなることができた。そしてその輪が大きくなっていき、ひとつの形をとる。

純喫茶401

大学の裏のマンションに住んでいる友人がいて、そこが留年界隈の人間の溜まり場となった。マンションの401号室だったから、そこを純喫茶401と名付けていろんなひとが集うようになった。5人ほどのメンバーが中心ではあったが、いろんなひとが来ては去っていった。おれたちは毎日サイフォンで淹れた多量のコーヒーを飲み、日が暮れてからは大量の酒を飲んだ。酒がなくなってはまたコンビニに行って買い足した。それを朝まで繰り返した。泥酔者が閉鎖的な空間に集まれば碌なことにならないというのは誰もが想像できることで、実際におれたちも愚行を繰り返していたと思う。

その経緯を書こうと思っているのだが、うまく話せない、というのが真実だ。思い出したくないのもかなりあるけれど、思い出せない。酒の飲みすぎもあったと思うし、そこであったトラウマティックな出来事のせいでもあると思う。どんな話をしていたのかも覚えていない。前後も真偽も定かではないが、思い出したところから書いてみよう。ちょっとずつ。

日本酒「まる」のパッケージに「く」と「す」を書き足して、「まるくす」にしてはそれを次から次に飲んでいたという記憶がある(ああ、大学生らしい)。真っ赤なデザインもそこに興を添えていた。実家暮らしだったけれども、実家に帰るのは数日に一回で、それ以外の時間は401で時間を費やした。飲んでは寝て、起きては二日酔いの状態でコーヒーを飲み、本を読む。日が落ちてきたらまた酒を飲んで、その繰り返し。もちろん、長期休暇などではない。その合間で大学の授業を受けた記憶もわずかにはあるが、それもしばしば酒の入った状態で行っていたと思う。しんどい授業に留年仲間と一緒に行って、あまりに長い1時間半が終わったら、帰りにはコンビニで買ったストロングゼロとともに、学食飲みをした。学食には栄養の偏りがちな下宿生のために小鉢でちょっとした総菜が並べられていて、そのなかの鶏の肝煮やほうれん草のおひたしはいいアテになった。フラフラで401に帰っては、また酒を飲む。ときには咳止め薬も並んでいたと思う。愚かとしか言いようがない。

だが愚行のなかにも解放の匂いを感じることのできる瞬間があった。夏の夜のことだ。何人かで大学のプールの柵を越えて、全裸になって水に飛び込むことがあった。静かなキャンパスに響く着水の音。古池や蛙飛び込む水の音、に比べたら随分と大きな蛙の飛び込みだが、そこには凪があった。あるいは暗闇のなか、自分よりも大きな水の器に容れられたい、という胎内回帰願望の現れだったのかもしれないが、この瞬間だけは生を謳歌していた。そして生を謳歌するということは、よくも悪くも死への漸近を伴う。今から書くのは後者、悪かった方の死への接近の話だ。

あの場に居合わせた誰もが刹那的に生きていた。だれもが生き急いでいた。そして、かなり大きく死への傾斜があった。あるとき色恋沙汰がこじれて、わたしは大学の池に飛び込んだ。あんな浅さでは死ねるはずもないが、それでも、なにかのきっかけで死んでしまわないだろうかと思っていた。当然、死ぬことはできず、かといって生きる気力もないまま、びしょびしょになってあがってきたが、泥酔もしていたので碌に歩けやしない。401の真下の階にも、この界隈の友人が住んでいて、おれはそこに転がりこんだ。数人が介抱してくれたおかげで、命がつながっていた。

その頃から401の崩壊が始まった、はずだ。そのあとはしばらく401に顔を出さなくなったから、その間のことはよくわからない。でも、みんながちょっとずつ離れていったのだろうと思う。そして、そのあとからなんとか授業に行くようになった。後述する。

中退する選択肢もあった。一旦リセットしないことには、なにも始まらないのだと、思っていた。思いつめていた。両親はなんとか大学の卒業までは頑張ってほしいと言っていた。お世話になっていた古本屋の店主に大学を辞めようかと思っていると漏らしたら、税金で学ばせてもらっているのだから、何留してでも国立大学は卒業すべきだと発破をかけてくれた。おれは自分が自分で留年している気になっていたが、留年とはさせてもらうはずのもので、少なくないお金がかかっている。親には心配と迷惑をかけた。毎度、今回も卒業できそうにない、と報告するのはつらかった。不甲斐なさもあるけれど、それよりは親の悲しそうな顔を見たくないというつらさだ。結局卒業までで、私立大学と変わらないような学費を両親には出させてしまった。

でも、留年年数が重なっていくことに清々しさを感じていたのも事実だ。年を重ねるごとに同級生はどんどん減っていった。彼女ら彼らのように単位を取ることができていないという小さくはない後ろめたさは、少しずつやわらいでいった。おれは留年するほどに、「ただの大学生」になる事ができた。

就職先も偶然の巡り合わせがあってなんとか見つかっていた。単位の数え間違いによって1年余分に留年してしまったけれども、内定は破棄にせず、次の年度での入社を認めてくれるとのことだった。最後の1年はコロナ禍に突入したので、ほとんどがオンライン授業になった。それはおれにとって、単位を取るということだけに限っていえば、簡単になったということだ。最後はほとんど大学に行かないまま卒業を迎えた。手応えのない卒業だ。おれは今も留年生なのではないだろうか。業は卒えられていない。

留年生と留年予備軍に向けて

留年生の感じるいやな感じ、サルトルにならえば「嘔吐」(la nausée)とでもいえるようなもどかしさは、正しい留年の仕方とでもいうべきものがわかりづらいということに由来すると思う。留年自体が「間違った」こととされるような状況にあっては、留年生活を「正しく」過ごすのはすごく困難なことである。留年生の先輩なんてのはそもそも母数が少ないし、いたところで留年生活を自嘲的に語るひとがほとんどだ。なぜなら留年生活は「望まれない」ものであり、それを語る口吻は自虐的なかたちしか取ることができないからだ。浪人というのは、志望校に入れたらそこで報われるし、志望校に入れなくても、「1年あるいはそれ以上頑張ったけど自分にはダメだった」という物語(!)、つまりはエンディングを迎えることができるから始末がつくのだが、留年は得てして、終わっても終わった気になれない。まるで人生のようなもので、卒業しても、せいぜい数年程度では留年の匂いが消えることはない。そこから人生が始まるのだ、いや、もうすでに人生が始まっているということを知るのだ。モラトリアムはいいものとして語られるが、それは人生讃歌が謳われるのに似ていて、実際には「実存の不安」みたいなものを誰もが抱えている。留年時代に「ここに存在することの気持ち悪さ」を経験しているのは、生きるうえで役に立つことがあるだろう(本当に?)。人生は一方向へ向かう直線ではない、ということを留年生はよく知っている。そして、この社会の多くのひとは、人生を線のイメージで捉えている。だから、この間の齟齬を生きることを留年生は余儀なくされるのだ。

とはいえ、留年生活だってひとそれぞれで、たとえば学外の活動がうまくいって、そっちに注力するために大学を留年、中退するひと(線のイメージにうまく接続されるひと)もいれば、そうでないのに留年回数が重なるひとだっている。おれは後者で、いっそう、留年生活を語る口ぶりが重くなる。空間を飛び回る蠅を、二次元上にトレースせよ、という困難に似ている。留年について語るのは難しい。

ただ単位を揃えるだけじゃない、決まった時間に起きて、開始時刻までに着席して、締め切りまでに提出物を間に合わせて、それを繰り返すだけじゃない、って言われたら、なにも言い返せない。うまく生きれない人間にとっては、ただ生きるだけじゃない、って言葉ほど苦しめるものはない。自らの歩き方を意識した途端歩けなくなるというムカデの寓話があるけれど、おれたちももう、生きることを意識してしまっている以上、シンプルに「生きる」ことはできないんだよ。だから死にたくもなるし、その死にたさにつけ込むような人間の餌食にもなる。

解決策は、死を求めるか、再び生きることを意識しないようにもがくか、だろうか。いいや、どちらも違う。留年生がすべきは、新たな生のスタイルを見つけることだ。意識の層に新たに生を編むことだ。

純喫茶401が崩壊したあと、不思議な凪のような状態が訪れた。そしてそのあと、メンバーのうちのごく少数が、本当に単位を取るために再び401に集っては大学に行こうとした。家主のS氏は昼休みごとに料理を作ってくれた。来た人は300円を入れてはご飯をいただいた。破滅的に集うのではなく、単位を取るために集った。大学の裏という立地を最大限活用させてもらった。ときに軽くお酒を入れて授業に出ることもあった。でもそれも、逃避というよりは、シンプルに昼餐を楽しみ、そしてその心地よさのまま大学に行くというだけだった。そう、「大学に行くというだけだった」という言い方ができるほどには、自然に大学に行くということが、シンプルに歩き、生きるということを見つけられるまでになっていた。このときほど大学生活が楽しかったことはない。焦ってももう同級生たちには追い付けない。かといって自分より後に入学してきたひとたちにもほだされない。だから重荷と呼べるようなものはない。ただシンプルに授業に出て、単位を揃えるという作業だった。そして周りには似たように卒業を目指す留年仲間がいた。

留年生の問題は、どのようにリセットするかだ。リセットの仕方がわからなくて、大学生活や、人生そのものをキャンセルしようとしてしまう。でも、そうまでしなくても、複雑に絡み合った感情はほどくことができる、と気づくことが大切だと思う。それを見つけ出さなくてはならない。おれは運よくヴィパッサナー瞑想という瞑想法に出会った。そして、そこから穏やかに大学に行けるようになった。同じ道を誰もに勧めるわけではない。むしろ、それぞれがそれぞれの道を編み出さなければならない。編み出し続けなければならない。そしておれの今の語り口が、おれの好きな坂口安吾のそれに似てきているのを感じる。堕落論の最後の1段落を引用する。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾「堕落論」

学生時代何度も読んだ文章である。おれの無意識がこれをなぞっていたのだろうという気がする。おれは堕ちたかったのだ、そしてその先でしか自身を救うことはできないということを知っていたのだ。堕ちるというのに、はじめから着地点など見えようはずもない。もがくことだ。「ほどほど」なんてのは横目で目的至上主義的な生き方を見ようとしている人間の発想であって、悩む人間にだけつかめるものがあるよ。

坂口安吾にならってこう言おう。留年生よ、生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道などありえない。

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