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はじめての雀荘🀄

雀荘と聞いて、いまこれを読んでくれているひとはどんなイメージを浮かべるだろうか。行ったことがあるひとにとっては懐かしい場所かもしれない、嫌な思い出がある場所かもしれない、愉しい記憶と結びついている場所かもしれない。あるいは、行ったことのないひとにとってはどうだろうか。壁や天井がヤニで汚れている煙草臭い場所、どころか、どことなくきな臭くもある場所、おじさんがいらいらしながら牌を叩きつけている場所、かもしれない。

さて、ほとんどネット麻雀しか経験のないおれが、雀荘に行くことになった。上に書いた「行ったことのないひと」にとってのイメージはほとんどおれのものであるということをここに告白しておく。そしてそのほとんどは否定された。百聞は一見に如かず、とはよく言うが、ネットで百戦するより、雀卓を囲んで一戦することによって得られるものの方が大きいと感じた。以下は、初めて雀荘に行ったときの体験談である。(約3,700字)


麻雀との出会い

麻雀は楽しい。高校生のときに友人が麻雀の入門書と『咲-Saki-』全巻を貸してくれて、そこから麻雀にはまっていった。『咲-Saki-』は能力バトルみたいなところもあって、ジャンプ読者だったおれにとっては入り込みやすかった。当時はガラケーだったが、ガラケーでもネット麻雀をしていた記憶がある。何がおもしろかったのか。今思えば、麻雀というゲームを支配する、運と力量のバランスと、少しアナーキーな香りに魅せられていたのだと思う。麻雀に関連するフィクションで言えば、福本伸行さんの『アカギ』は好きだ。伝説になることがわかっている男の話だから、同じく福本伸行さんの『カイジ』とは違って、ヒヤヒヤすることなく見れるのがいい。代打ちの話というのもあるのか、麻雀に裏社会のイメージを持っているのは『アカギ』の影響だろうと思う。それからゲーム実況で見たものだと『哲也』も面白い。こちらはイカサマありきだけれども、味方だけでなく相手側にも魅力的なキャラがいて(印南とか)、イカサマ対決も面白いものだと思ったのだった。いま3つの麻雀にまつわる作品を挙げたが、同じ麻雀でも、描くひとが異なると、こうも見え方が違うのかと思う。だがこれらも根っこでは運と力量による勝負という点は共通して持っているのであって、そこに面白さを感じていたのだった。

麻雀はどの「遊び」に分類されるのか

カイヨワの遊びの分類に従えば、遊びは次の4つに分けることができる。

競争(アゴン)|例 : サッカー、野球
偶然(アレア)|例 : パチンコ
模擬(ミミクリ)|例 : ごっこ遊び
眩暈(イリンクス)|例 : ジェットコースター

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎、塚崎幹夫訳)より(例は葦田)

これらのうち、麻雀が大きく関わるのは「競争」と「偶然」だろう。麻雀では、運の要素がかなり大きく作用する。最初の配牌もひとそれぞれでスタート地点が違うし、それ以降のツモ牌も、運によっていいとき悪いときがある。しかしながら、たしかに実力が関わる部分もあって、どこまで我慢強く忍耐するかというところで差もつくし、この牌を捨てるか捨てざるべきかという判断、アガリを目指すか目指さないかという判断には、そのひとの力量が関わってくる。よく麻雀は運が7割、実力が3割などと言ったりするが、このバランスがとてもおもしろいと思う。

そしてこれは人生にも似ているとも思う。将棋や囲碁のような一対一の対局とは異なり、アクターは4人(ときに3人)である。相手は一ではなく、多だ。そしてそのそれぞれが異なるスタート地点からゲームを開始し、アガリを目指していく。だがアガれるのはひとりだけだ。人生と同様、勝つときより勝てないときの方が多く、したがって勝てないときの忍耐も必要であって、最終的に勝つためには迂回に迂回を重ねる必要も出てくるだろう。もちろん、人生がしばしばそうであるように「勝利」を収めることが必ずしもいいのではなく、おれがよくその著作を読んでいる桜井章一さんなら、きれいな打ち方をすることが一番大事だと述べる。

ついに雀荘へ

会社から

時は2024年。会社に非公認の麻雀サークルができて、月に1回程度、退勤後に会議室で麻雀をやるようになった。初心者が多く、和やかな雰囲気で各々が勉強し、楽しんでいるが、「打てる」ひとからしたら物足りないのも事実で、その中の数人と、雀荘で打とうということになったのである。

退勤後に集まって梅田の雀荘に向かう。面子は、よく徹マンをしている中級者のHと、比較的最近麻雀を始めたばかりのK、Fだ。後から合流するというFを置いて、先に3人で職場から雀荘へと歩く。Kは雀荘で打てるのが楽しみで仕方ないらしく、随分と早足だ。ちなみにおれはこの日の麻雀のために前日の夜から断食をしている。勘が冴えるからだ。好転反応から来る仄かな頭痛を感じながらも、さほど空腹感はない。梅田地下街のさまざまな飲食店が漂わせている多種多様な料理の匂いも苦ではなかった。状態はいい。打つのが楽しみである。地下通路を抜けて階段を上がると、目的地の雀荘だ。

雀荘へ

初めての雀荘でまず感じたのは煙草の香りだ。フロア中に全自動卓が置かれていて、それらの四隅には灰皿の埋め込まれたサイドテーブルが置かれている。金曜の18時半ということもあるのか、仕事終わりらしいサラリーパーソンが既に7,8組ほど卓についている。ここではアルコール類の持ち込みは禁止だが、店内ではビールやハイボール、リポビタンDやユンケルも売られていて、これらを飲みながらゲームに興じるひともいるのだろう。ちなみに卓代に含まれているドリンクバーもある。喫煙する麻雀打ちにとっては桃源郷のような場所だ。そして雀荘とは、もっといらいらした空気に満ちている場所かと思っていたが、案外楽しそうに打っているひとたちが多くてホッとした。

おれは断食のために不足気味になっていた塩分を補うべく、梅昆布茶を紙コップに注いで着席。塩っ気が沁みる。持参したメローイエローとミックスジュース、2リットルの水もあわせて、準備は万端だ。そしてこれがかの全自動卓か、という驚き、は案外なかった。噂には聞いていたから、なんとなく想像はついていた。自動で牌を積んでくれるのも、点数を計算してくれるのも、だいたい、わかっていた。宇多田ヒカルは「初めてのルーブルは/なんてことはなかったわ」って歌うけれど、そんな気分。おれは全自動卓と初めましてなのにもう初めましてじゃないんだね。さすがに「世界像の時代」だよ。

さて、なにはともあれ、対局開始だ。Kはもう、うずうずしている。

そして対局

まずはルール確認も含めて遊びの半荘。今回はおれをはじめ、あまり雀荘に慣れていないひともいるので、一般的なルールでやることに。25000点の30000点返し、焼き鳥はなしだ。初回は4位でスコアは-20(以降、スコアはヘッダー画像参照)。それぞれのメンバーの打ち筋も少し見えてきたところで、次の半荘から本腰を入れていく。次の半荘のスコアは-7。でも焦らずいくとしよう。麻雀はみんなで水に顔をつけて、最後まで顔を上げないでいるひとが勝つもの、その我慢比べなのだ、というようなことを桜井章一さんが言っているのを思い出して、今は「受け」のタイミングなのだと読む。煙草が進む。そして次の半荘以降は大きく勝つことになる。この頃には、Kはビールを、Fはハイボールを飲んでいて、ふたりには焦りが見えていた。他方のHは安定した打ち方をしているし、基本的に今回の流れは概ね彼に味方していたと言える。そろそろ終電の時間が気になりだす時間だということで、最後は東風戦をやることに。ここでおれに大きめの運が舞い込んできてオーラスの親で3連荘していたが、Kが終電がギリギリとのことで切り上げることになる。まだ運の流れは途絶えていなかったと思うので、続けていたらもっと大きく勝っていただろうと思う。最終スコアは、最初の遊びの半荘を抜きにして+40。初めて雀荘で麻雀を打ったにしてはよい結果だったと思う。ビギナーズラックもあるかもしれない。

振り返り

気持ちよく帰ってこれた。これは確かに「競争(アゴン)」と「偶然(アレア)」のゲームだと思う。勝負に勝ち、運をものにする快楽だ。しかしながら、ここにはなんとなく後味の悪さが残っていることも事実である。それは、おれが勝った分負けた奴がいるという話で、友人とのやり取りはあまり好きじゃないよ。おそらくこの後味の悪さ、あるいは負けた方が感じる悔しさがひとを、相手のいる賭け事に巻き込んでいくのだろうと思う。つまりは、お金は天下の回りものということで、頻繁にいつものメンツで回していくことで誰かが一人勝ちし、そのまま勝ち逃げしないようにするのだ。ある種の同調圧力。そして、そこに客人が来ようものならそのひとをカモにするという排外性。この辺りの事情は、青山二郎の名エッセイ「上州の賭場」に描かれているものが素晴らしく、いい。

勝負に対しても、金銭に対しても、彼等は我々と全く違った考えを持っている。身を以て継承している(やくざかたぎ)の伝統はその儘の無慙な美としか思えない。賭が彼等の全生活である。易しく勝つことは呼吸をするより易しい人間にとって、勝つことの喜びは何処へ行ったのだろう。赤子の手をひねるような常道に反抗して、自分の運を自分に従わせる闘いしかない。(中略)賭場がある以上は金が廻るから、金に対して彼等は無感覚である。何処の世界からも締出しを喰わされる一般の「客人」等は、此処でもまた単なるいけにえ、、、、でしかなかった。

青山二郎「上州の賭場」(傍点は原文ママ)

おれは麻雀が少し愉しくなってしまっている。どこかで嫌気が差すのかもしれないが、嫌気が差すほどに勝ち続けることも、負け続けることもないのだろう。つまりはおれはまた一歩、麻雀の深みに近づいたということだ。

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葦田不見
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