![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/109812842/rectangle_large_type_2_6c4f1711832c354b5516454b0031c998.jpeg?width=1200)
バイク免許合宿5日目──凱旋
Triumph(トライアンフ)。「勝利」「大成功」といった意味を持つ英単語だ。
免許合宿に発つ前、バイク乗りでもある宇治田兄弟(兄はシェアメイト)と、わたしにはどんなバイクが似合うかという話をしていたときに挙がった名前だ。まず名前にピンと来た。というのもわたしの本名を英訳すると1つの意味は「Triumph」になるからだ。そして、そのフォルムを調べてみるとこれまたかっこいい。バイクにどんな種類があるかなんてことも知らない身で中型バイクの免許を取りに来ているわけだが、何も知らないからこそ、名前や見た目のような「皮層的」なところから入ってしまう。
今日も昼食後に件のコンビニで、大阪に帰ったらどんなバイクに乗ろうか、なんて考えながら煙草を吸っていたら、目の前に停まっているではないか。Triumphが。おそらくまだ買って日の浅い新車で、それぞれのパーツも光沢を放っている。一本吸い終わる頃にコンビニから帰ってきた持ち主。またこの人が冴えるか冴えないかで言えばやや後者寄りの中年の方で、それも興を添えているようだった。
今日は午前に第一段階の見きわめを終えて、午後にはシミュレーションと実機での教習を控えている。シミュレーションは前回と同じ高齢の教官だが、あまりに何も教えてくれず、ただ淡々と3人の受講生の運転とそのリプレイを流しているだけだったので、受講生のひとり、デヴィッド・ボウイ似の男前が「教官がここにいる意味あるんですか?」なんて言っている。教官も素知らぬふりで、「みなさんが運転しているのを見ていたらわたしもやりたくなってきました」などといいながら、自分が機械に跨がっている。話を聞け。それで巧いならいいものの、やたらとふかすわ、煽るわで、見ていて大丈夫か心配になってくる。仕舞いには画面上で教官のバイクがトラックに轢かれているではないか。一体これは何の時間なんだ。
あとから教官が言うには、昔はバイクに乗っていたけれど、今は家族に止められているらしい。そう思えば、画面上で飛ばしたり、ふかしたりするのはささやかな慰みなのかもしれない、なんて同情心を掻き立てられてしまうものの、いやいや待てよ。わたしも冷静になって「何かフィードバックはありませんか?」という生徒の質問を無みする教官がいていいはずがないと思い直す。あと一回のシミュレーション講義が思いやられる。
実機での教習。ここから第二段階になる。着用するゼッケンの色も変わるし、乗るバイクの色も変わる(ちょっといいバイクになる)。心なしか、プロテクターを着用して準備をするときも気持ちが引き締まる。急停車と踏切を今日は行った。急停車は、あまりにブレーキを勢いよく握るとロックがかかって転けるとか、一番負傷者が多い項目だとか、不安な前情報があったけれど、何度も挑戦しているうちに教官から「完璧!」のレビューをもらえるようになって、自信がついた。踏切は基本は止まって左右を確認するのみ。
今日は教習後にそれぞれで夕食と風呂を済ませたあとに昨日の仲間たちと合流することになっている。今は、Mさんの迎えを待っているところだ。仲良くしているひとたちの多くは、明日が卒業検定ということになっている。明後日からのことを考えるのも野暮だが、寂しさは拭いきれない。百人一首で、わたしの好きな蝉丸は詠んでいる。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
「これがあの、行くひとも帰るひとも別れては逢うという逢坂の関か」(葦田訳)というほどの意味だが、この教習所にわたしも逢坂の関を見てしまう。大阪出身、どころか関西出身のひとをこの教習所では自分以外に見ていないのだが。
───
──
─
ここまでは出発前に書いたところ。ここからは帰ってきてから書くところ。
昨晩の仲間たちと飲んできた。わたし含む6人のうち4人、大型バイクの免許を取りにきているひとたちが明日に卒業検定を迎えている。昨日はラーメン屋と銭湯を一緒に巡ったこともあってスタートが遅かったが、今日はその「反省」を踏まえて早くに集まって飲み始めた。皆が風呂とご飯を済ませて、午後8時。
もう「この晩」は今晩で終わりだということもあって、酒が進む。昨日と比べて何が深いとか明るいとかそういう話ではなく、「おれたち」には時間が必要だった。あまりに名残惜しい。ラインで繋がりはして、SNSも交換したりして、今後も会おうと思えば会うことはできるが、もう一度言う。「この晩」は今晩で終わりだ。Mさんが言う。「ぼく一番年下なんで、もっとタメ口で話してもらえるまで仲良くなりたかったです。あと一晩は必要でした。もう2日早く仲良くなっていれば」。ひとり宿舎の違うわたしは帰りの道中、このやりきれなさを本当に遣りきれない。彼らが延泊することを願うのも野鄙な話だ。昨晩からわかっていたことだが、わたしたちは束の間を共有していたに過ぎない。しばらくの間、ここに留まるひとがいる。そしてそれより長く留まるひとも、それより短く留まるひともいる。留まり方もそれぞれ違っていて、誰とも繋がりを得ようとしないひともいれば、その逆に、誰かと仲良くなろうとするひともいる。ここは、ひとが会っては別れていく逢坂の関だ。
感じた大事なことがある。思想の違いは、個人の、個人としての「孤独」に克つことはできない。今日も思想的には違和感を感じる瞬間があったが、それも、これほどの個人としての「孤独」の前には意味をなさない。当たり前の話だ。大脳新皮質でやっていることが、本能、生存の孤独、生誕したことに根ざす「寂しさ」に勝ることはないのだ。当たり前のことを言っている。ひとと繋がることはできる。「思想」の故にではなく、その寂しさの故に。谷川俊太郎もデビュー作で言っているではないか。
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
そういえば、3日目にRさんAさんと蕎麦屋で話していたときのことを思い出す。詩を教えてくれ、と言われて、わたしはこの詩を朗読したのだった。まるでわかっていたかのようではないか。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
「出会ってしまった」彼らとの楽しい晩は過ぎ去った。それぞれが各々の道を行くだろう。教習所の閑散期に集まるのはやはり変なひとたちらしいが、それだけに皆の行く先についてあれこれ考えてしまう。彼らの先行きの明るいことを、そしてまずは明日彼らが受ける卒業検定の合格を祈って、今日は筆を擱く。
(トップ画像は、Mさんが栓抜きあるといいながら、実際はなくて、ペンチで無理やりこじ開けたハイネケンの蓋。左側が歪に窪んでいる。)
いいなと思ったら応援しよう!
![葦田不見](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/149656243/profile_d536154f8a98e40145e7380e0913455b.png?width=600&crop=1:1,smart)