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詩の朗読をしました

カホンを叩きながら詩を朗読した映像を「バーチャル解放区」というコンペティションに応募しています。その紹介をさせてください。そしてよければ是非とも観てやってください。再生回数が審査の対象になります。


朗読した詩の紹介

映像だけで十分楽しめるものだと信じていますが、以下の部分では、朗読した詩の紹介をしたいと思います。そもそも、詩人は自作の解説をしたりはしません。というのは、詩とはそれ自体で完結した構造であり、説明を付けることによってその解釈の幅を狭めてしまうことを恐れるからです。全的に読んでわかるならわかる、わからないならわからないでいい、という突っぱねのようなものがあります。読者にもある程度のリテラシーを求めるものです。坂口安吾なら次のように言います。

文学のように、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性」というものは如何とも仕方のないことである。どのように大衆化し、分り易いものとするにも、文学そのものの本質に附随するスペシアリテ以下にまで大衆化することは出来ない。その最低のスペシアリテまでは、読者の方で上って来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言って、スペシアリテ以下にまで、作者の方から出向いていく行く法はない。少くとも文学を守る限りは。

坂口安吾「FARCEに就て」

とはいえ、わかるものだけがわかってくれたらいい、それ以外のものはわからなくてもいい、と内に籠っているばかりではいけないとも思う。書き手はなるべくわかりやすい書き方で高度な内容を表現するという努力を怠るべきではないし、いいものは必ず伝わるものだ、という信念がないといけない。だから、以下には詩についての解説ではなく、詩の周囲の情報を書きたいと思います。詩を読む手助けはできません。一度読んだうえでまた違う読み方に開かれたいひとのために以下の文章を書きます。突き放しているかのように読めるかもしれませんが、あえて言いましょう。詩自体に内在する跳躍は自分で飛び越えてください。

「白昼夢」

実家のベランダで詩を読むのが好きで、多くの「詩人」の作品を読みました。あるいは『二十億光年の孤独』(谷川俊太郎)であり、「僧侶」(吉岡実)であり、「有機交流電燈」(宮澤賢治の「春と修羅」)であり、あるいは……。ベランダから部屋に戻ると目が眩みました。そのおかげで詩の情景が幻視できたのです。撮影をしたのは今住んでいるシェアハウスなのですが、雑然と物の溢れかえっている部屋を詩と重ね合わせて観ていただけたら、と思います。これがカホンを「一番使っている」詩です。

「か ら だ」

「か ら だ」は少し特異な詩で、朗読することを前提としています。『不/見』でも読んでくださっている方はタイトルの後に「(早口ニテ音読セヨ)」の一行が挟まれているのを確認できると思います。なぜ早口で音読なのか、といえば、それはひとえに誤読と吃りを発生させるためです。誰が読んでも違うところで間違って読んだり詰まったりするでしょうし、同じひとでも読む度ごとに違うところでつっかえることでしょう。それは、そこにそのひとの身体があるということに他なりません。黙読しているときには後景に退いている身体が、読むことで現前する、どころか口が回らずつっかえる、吃る。そのことによって身体の存在を否応なく感じる、というのがこの詩の仕掛けです。今回は、わたしが読むことで、私の身体を提示しました。

「本」

「本」はカホンを用いずに読みました。映像には字幕(日本語と英語)もあるので、本を読むように観る/聴くことができるのではないかと思います。世界や人生を本に喩えることがありますが(facebookも顔の本ですね)、本当に世界や人生が書物のようなものだとしたら、読み解くことができるという可能性よりかは読みきることができないという不可能性をこそこの比喩に読み取るべきかもしれません。いずれにせよ、わたしたちは本を前にしており、それに取り組んでいくしかないのでしょう。書き換えることはできるだろうか……あとは、観てみてのお楽しみです。

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