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孤独が終わってしまう

なだれるように年末がやってくる。新年がやってくるのではない、年末、がやってくる。まだ新年がやってこない、やってきてもいいという準備ができていない。今年は勝手に終わっていくものだけれども、同時に、その「終わり」にあわせて、自分でも今年を終えないといけない、というところがある。大掃除をするなり、人間関係やものごとの整理をするなり、いったんここで区切りをつける、ということを自分の方からしないといけない。自分でも新年を迎えないといけない。勝手に新年はやってこない。時間的なものとしての新年、カレンダーの2025年1月はやってくるけれども、それだけでは自分のカタがつかない。落ち着いて今年の振り返りをする、などということができず、とりあえず、波に流されるようにして、12月29日、に佇んでいる。

おれは泥のようなところから立ち上がる存在、なのだと、いうことが年末に向かっていくにつれて自覚としてもはっきりしてきていて、見上げるような塔を拵えるよりは、流れていくもの、耕すべきもの、混ざっていくもの、そういったものの面倒を見た方がいい。泥濘から生え出でて花を咲かせる蓮は、昔から好きな花だけれども、立ち上がるとしても、あのような立ち姿こそがおれには相応しいはずだ。

年末にここ数年で一番飲んでしまった日があって、ほんとうに泥のようなもの(吐瀉物)のうえにおれはゆらゆらと立ち上がっていた。泥濘は、思った以上に穢くて、思った以上に潜在性を秘めていて、汚れないとわからないことってあるんだ。新しく始まるものの気配がある。

孤独が終わっていってしまう、と思う。今までおれは孤独なことが多くて、それをどう可愛がるか突き放すかというところがおれの青春時代の苦悶であったわけだけれども、多分近々それが終わる。少し名残惜しい気がするけれども、まあ、成長(?)ってそういうものだろうし、誰だって同じところに居続けることはできない。2月から和多屋別荘に籠って執筆する日々が始まるけれども、そこでどこまでおれは深く沈黙することができるか。ニーチェなら「懐妊の深い寡黙」と呼ぶであろう、制作の夜に、沈潜することができるか。根が深ければ、立ち姿も安定する。

今年の10月から出身大学で受け持つことになった講義も、もう12回を迎え、終わりが近づいている。クリスマスの晩には授業後の勢いのまま受講生たちがシェアハウスに来てくれて、「教員」として以外の顔も少しは見せられたかと思う。彼女ら彼らにはオルタナティブが必要で、実践としての「変な生き方」を見せないことには始まるものも始まらない。受講生は一番歳の離れているひとで9歳とか離れていて、価値観の違い、考え方の違いを云々することはできるけれども、やっぱり変わらないのは、いつの世も勉強が必要だということで、あんまり本を読まない傾向はよくないな。ただ、もう、子どものように、というか子どもがいたことはないけれども、内にも外にも子どもを「もっている」のがおれ(たち)であって、成長を祈っている。大学の教員には20代のひとは少ないし、どちらかというと、親ほど年齢の離れた「先生」というよりは(その側面は剥ぎ取ることはできないにしても)、少し歳の離れた近所の兄ちゃん/姉ちゃんポジションでありたいと思う。

年末、だいぶ自分がどろどろになっている。酒を飲み、酔うことが多くなったから、だけではないはずだ。退社日が近づいてくるにつれて、ぎりぎり形成していた「会社員」のガワの維持が難しくなってきていて、あとちょっとでおれは水だよ。いいのかい。

あとちょっとでおれはいってしまうよ、いいのかい。

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葦田不見
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