バイク免許合宿6日目──而今
昨日一昨日と一緒に飲んでいた6人のうち、4人が今日卒業検定を受検した。卒業検定を明日と明後日にそれぞれ控えているYさんとわたしは、合格発表の教室前でみんなが出てくるのを待っていた。どのバイクがかっこいいとかをふたりで調べたりしながら。教官が出てきて、ぞろぞろと受検生が出てくる。やってきた4人。笑顔。おめでとう。全員無事受かったようだ。
教習所はもう受かった人には関心がない。あとは速やかにそれぞれのひとを規定の場所へと帰すだけだ。雑談も大してできないまま、皆バスに乗って行ってしまった。不可思議/wonderboyの「Pellicule」を思い出したりしている。
昨日飲んでいたときに、Mさんがゴロワーズを美味い美味いと言いながら吸ってくれるので箱ごとあげたら、今日、去る前にマルボロをくれた。『不/見』もAmazonで買ってくれたという。こんなにもうれしいことがあるだろうか。
ここからは残されたものたちの飲み会だ。昨晩の残りのお酒を今日はYさんと飲む。
今晩は、Yさんとわたしの他にBさん(昨晩シミュレーションの教官に「教官がいる意味あるんですか」と尋ねたデヴィッド・ボウイ似の男前だ)とDさん(大学5年生で、四輪と二輪を同時に取りに来ている)を含めた4人で飲んでいる。昨日までとメンバーが変われば空気感も変わる。Yさんが饒舌に話していたのが印象的だ。
もう6日目にもなって、いろいろな教習生と話をしてきた。今の時期というのは学生の長期休暇から外れているので、教習所としては閑散期に当たる。また、お盆のような社会人も休みを取得しやすい時期ともかぶっていないので、この時期にあえて合宿というかたちで免許を取りに来るひとというのは珍しい。いわば、それぞれにさまざまな背景を持っていると言える。どんな人たちがいるのか。たとえば、MさんやDさんCさんのような、学生で、単位を取る必要がないひとたち。他のパターンとしては、AさんやBさん、わたしのように休職していたり仕事を辞めていたりしてできた時間で免許を取りに来たひとたち。わたしの教習所生活で特に親しくなったひとたちにはアルファベットで名前を伏せながらこの一連のnoteにも登場してもらったけれど、それ以外にも、挨拶を日々交わすひとたちというのはたくさんいて、ここはひとつの小さな村のようだ。話さなくても、なんとなく互いを認識しているという距離感や、一緒に近くの椅子に腰掛けていても、それぞれがそれぞれのことをしているという距離感が可能になる範囲の人数規模。今、この教習所に来てよかったと思う。以前自動車の免許を取りに合宿に行ったときには、あまりにひとが多くて今ほどの人間関係を結ぶことができなかった。
教習生活は長いようで短いし、短いようで長い。早いようで遅く、遅いようで早い。仕様もない逆説をこねくりまわしているのではなく、この両義性が、分厚い「今」ということなのだろうと思う。毎日が充実しているようでありながら同時に虚ろで、何もしていないように感じられながらも日々運転が上達しているという状態。退屈なようで熱中しており、熱くなっているかと思いきやどこか飽きている。つまりそれは二分法が役立たない場だということではないか。点ではなく、厚みを持った「今」がここにあるということではないか。
わたしも明後日には卒業してしまう。残りに日々を大事にする、というのには違和感がある。なんとなくそれは点的な「今」の捉え方であるように思う。大事な日々が残りも続いていく。こちらの言い方の方が馴染みがよい。厚い「今」を潜ってもう一方の水面へと出る日が近そうだ。だがそれでも、水位は上がり続ける。「わたしがいる」ところへとゆっくり重心が移動していくようにして、この「今」が紡がれる。何も構えることはない。何も手放すこともない。ただ、ゆっくりと流れていく。あと2日でわたしは大阪に帰る。