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狩猟免許合宿14,15日目──供犠

更新が遅れた。書けなかったのである。出来事を嚥下しては、もどし、反芻していた。遅れてでもこの体験を言葉にせねばならない。


14日目

鹿の死

朝ARKさんから、近所の農園に仕掛けられた罠に鹿がかかったとの連絡が入る。ARKさんはこの合宿プログラムを主宰しているひとで、合宿生と各農家さんとの間を取り持ってくれている。

集まったのは、ARKさんに、今回の罠を仕掛けたFさん、講習でもお世話になったベテランハンターのKさんと、合宿生9人である。あとから、農園の所有者の方も降りてきた。

今回かかった鹿はまだ生きていて、止めさし(罠にかかった獣にとどめを刺すことを言う)から解体までの過程を見学させてくれるという。

現場に行くと、鹿の後ろ脚が罠にかかっているのが見える。かなり大きなオスの鹿である。罠にかかった方の脚は折れており、傷口には蠅が集いている。罠にかかってから2日間は経っているという。必死に逃げようとしたのだろう。

鹿は気高い生き物だ。脚を折ってでも逃げたいという意志を、「生きよう」という意志を持っているからだ。わたしたち人間はどうだ。窒息しそうになっているのに逃げる意志さえ失っているではないか。

鹿は窪地に倒れているため、今回の罠を仕掛けたFさんとベテランハンターKさんが降りて、止めさしをする。Fさんが後頭部を何度も鉄パイプで殴って動きを鈍らせてから、Kさんが、棒の先にナイフを付けた槍を首元に刺す。聞いたことのないような鳴き声が響く。その野太い声は今も耳から離れない。生き物の苦しむ声だ。

動きがほとんど止まったところで、鹿を平地まで引き上げる。Kさんが角にロープを結わえつけて、その反対側を合宿生たちが握る。

「せーの」の掛け声で鹿が持ち上げられる。こうして全貌を見せた鹿の存在感たるや、並大抵のものではない。Kさん曰く100kgは超えているという。鹿はまだ息絶えておらず、立ち上がっては逃げようともがいている。

角は変形角と呼ばれる、左右非対称の変形した角だ。根本の直径は10cmはあろうか、片方は手のような形をしている。まるで空を掴もうと手を伸ばしているかのようだ。

鹿はまだ息絶えない。Kさんは「はやく死んでくれ」と言って、追加で槍を首元に刺す。「はやく死んでくれ」にどのような意図があったのかはわからないが、少なくとも、命を奪う以上、なるべく苦しめないようにするのが奪うものの役目だ。

今度も一刺しでまた鳴くが、その声は先ほどよりは弱々しく、後ろの方は消え入るようであった。

しばらくすると、鹿は大きく息を吐いた。Kさん曰く、こうなるともう絶命が近いらしい。

止めさしをするまでは写真を撮っていた合宿生の間にも、さすがにこのときは厳粛な空気が流れていた。多弁なのはベテランハンターのKさんだけだ。
わたしたちよりも大きな生き物が目の前で事切れる瞬間である。空を睨むその眼にはいったい何が映っているのか。鳥肌が立った。死というわたしたちのただひとつの事実を突きつけられたかのようだった。死を通じてわたしたちは通い合っている。

このあとは解体すべく、ソリに載せた鹿の遺体をソリごと軽トラの荷台に載せて、川辺まで移動する。

解体作業は、Kさん、ARKさん、Fさんがメインとなって進めていく。大きなビニール袋を敷いて、血が流れていくようにすべく頭が斜面の下に向くように配置する。まずは腹の皮を割いて、性器と肛門のあたりをくり抜く。反対側では脚の皮を剥ぎ、関節の位置で脚を折っている。

Kさんの手捌きは見事で、鹿という生き物がみるみるうちに肉という素材に変わっていく。脚を関節から切り離すときにも、肉が勿体無いからと、なるべくなるべく内側の方へと刳り込んでいく。

わたしたちの社会では食肉加工の過程で生き物が素材になるまでの過程は隠蔽されている。だが、だからと言ってそこに、何か劇的なものを想像するのは違う。隠蔽すべきほどの大きな出来事があると考えるべきではない。そう、隠すべきものがないのに、隠すという行為によってそこに隠されるべきものがあるかのように思われるというこの「詐術」は、まるでわたしたちの、広義の身体加工たる「衣服」に似ていると感じる。わたしたちは「肉」に大きなベールをかけているのだ。

むしろ、生き物→素材というこの過程は極めて自然だと言える。わたしたちだって、感じる肉に他ならない。生き物が素材へと加工されるこの間を介在すべきは、隠蔽ではなく、畏敬と感謝であろう。

私はいかに自分の肉体を養う要請に出ずるとはいえ、すべて有機質から成り立っている食物を食べることを、その有機質の以前の所有者であった生物達に、まず詫びるのである。私としては、むしろ少しも自責なくこれを行なっている、人間共が不思議でならない。人間同士の愛と寛大、つまりヒューマニズムについてあれほど大言放語している彼等がである。

大岡昇平『野火』


帰ってから

この日は帰ってからもなんとなくそわそわしていた。小野Dに温泉に誘われて一緒に行くも、つい言葉少なになってしまう。

夜はヨウセイくんとコウくんが夕食を用意してくれるという。初めての自炊と聞いて不安がよぎるも、杞憂に過ぎなかったとわかるのは、彼らが立派なチキン南蛮を拵えてくれた頃である。

この晩はお酒が進んだ。もちろん彼らの作ってくれたご飯が美味しかったからであるが、同時に、今日の出来事をなんとか「飲もう」としたのだと思う。


15日目

起床。やけに身体が重いのは深酒のせいだけではなくて、やはり鹿の命を奪ったということの精神的ダメージがあったのだと思う。ゆっくりと一日を始めよう。命を奪っているのだから、わたしには生きる「義務」がある。

昼は以前も行ったカレーとコーヒーの店に行く。昨日のお礼をFさんに伝えるためでもある。ARK一家と、ヨウセイくん、コウくん、クラッチと一緒だ。

午後は、Fさんからいただいた鹿の脚をさらに細かい部分に解体した。野山を駆け巡った立派な大腿筋である。筋膜に沿って剥いでいくと、肉は綺麗にいくつかの部位に分かれる。ARKさん曰く、うまくやればナイフを使わずとも手の力だけで剥いでいくことができるという。肉を解体するときも、あくまで「自然に」である。そしてそれが結果として扱いやすい肉を切り出すことにもつながる。

以前、熊の手から爪を剥いだときのことを書いた。そのときに熊肉の臭いを「どことなく塩気のある磯のような臭み」と形容したが、鹿はまた異なった臭いを持っている。少し表面が腐り始めていたこともあるが(罠にかかって2日半経っていたためである。罠にかかるとだいたい3日で絶命するという)、鹿肉には、甘い臭さがある。もちろん1回や2回手を洗った程度では臭いは落ちない。

夜が来る。厚沢部町で過ごす最後の晩だ。Aさんが一昨日用意してくれていた鹿肉のハンバーグ(この肉は解体以前に入手していた肉である)は肉質がしっかりしていて、食べ応えがある。最後の晩餐がこのご飯で嬉しいと思う。わたしと同じく明日にここを発つメンバーにはプリンも用意してくれた。Aさんの濃やかな思いに改めて感謝したい。

Eさんに温泉に連れて行ってもらった。Eさんは後輩の面倒見のよい、背中で語るかっこいい「大人」だ。そのことを本人に伝えると、「きみはものをよく見ているひとだからかっこ悪いところ見せちゃいけないと思ったんだ、おれは悪い人間だよ」なんて言っている。だからこそこのひとには親しみを覚えるのだ。真摯だと思うのだ。自らを善人と信じてやまないひとの「正義」には食傷している。自らの悪を知るもののみが、信じるに値する。「悪人礼賛」(中野好夫)である。

この晩も、Eさんとほぼ2人で日本酒の一升瓶を空けてしまった。明日も早いだろうに付き合ってくれてありがとう。美味しいお酒だった。また会いたいが、会えるかわからないのは名残惜しい、と言ったら、「会えるときは会える、会えないときは会えない」とEさんは返す。何度も耳にし、なんなら自らも口にさえしたこの言葉が、Eさんの口を通すと、大きな説得力を持つ。そうだよな。それで十分すぎる事実じゃないか。Eさん、ありがとう。出会えてよかった。



さあ、12時だ。さすがに眠りに就こう。明日は8時に出発である。

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葦田不見
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